五 油断

 店内に入ると、アサがマスクの男を添田と呼び席を進めていたのだ。添田はマスクをしているので、はっきりとした年齢は分かりづらいが、三十前後といったところだ。


「みっちゃん、大変なことになったなあ。信じられへんわ。マスターいたはる?」


「マスターは今、警察署に行たはります。みっちゃんの引き取り手がないから、マスターが引き取るて」


 みつは家出娘だ。故郷にはもう、両親がいないのかもしれない。


「そんな。僕に引き取らせてもらえへんやろか。お葬式ちゃんと出したげな、浮かばれへんわ」


 添田は人のよさそうな目に涙をため、切々と訴える。先ほど、みつのことを悪く言っていた川越を含む三人の三高生は居心地が悪いのか、中也のおごりのコーヒーを黙ってすすっていた。


「おおきに。みっちゃんも添田さんのとこに帰れて、うれしいと思うわ」


 アサの言葉に添田はうんうんと大きく頷き、黒いマスクの下で鼻をすする。自分以外に男がいたかもしれないみつを、この添田は本当に愛していたのだろう。


 遠巻きに見ていたもうひとりの断髪の女給も、話に加わってきた。


「マスターはもうすぐ帰ると思いますから、それまで待っててください。それより、どうしはったん添田さん、そんなんつけて」


 女給は白く長い指で、赤い口紅が塗られた口元を差した。


「いやあ、お恥ずかしい。風邪を引いたみたいやねん。昨日一日寝込んでしもて」


「それは、お気の毒でしたね。最近暖かくなりましたけど、朝晩は冷えますから」


 小林は時候の話題を出し、無理やり会話にわりこんだ。添田は、きょとんとした顔で小林を見返す。


「実は私、富小路の後藤探偵事務所の小林という者でして、みつさんのことを調べてるんです」


「えっ、犯人を捕まえてくれはるんですか? それはぜひともお願いしたいですわ」


 添田の細い目が、期待に膨らみパッと大きく見開かれた。


「いえいえ、そうではなく。生前にみつさんは私に手紙を送ってきていまして。その調査でこちらに伺いました」


 添田は、眉間にしわを寄せた。


「手紙ですか。それは、どういった……」


「それは、依頼主のみつさん以外に教えられません。彼女、いろいろ困ってたようですので」


 それとなく、みつの話を聞き出そうとする。


「はあ、困ってたことですか」


 添田はちらりと、三高生のテーブルに視線を走らせた。


「秋吉っていう学生に、しつこくされてたみたいです。私も一度やめるように言うたんですけど。反対に、突き飛ばされてしもて」


 秋吉という学生は、陰気なだけでなく暴力的でもあるらしい。


「そうですか。それは、大変でしたね。ちなみに、秋吉にはどこで会われたんですか?」


 断髪の女給が、添田の代わりに答えてくれた。


「ここですよ。あの時は、怖かったわ。添田さんがコーヒー飲みながらみっちゃんと話してたら、ちょうど秋吉さんが来て。『離れろ! いいかげんにしろ』て男の嫉妬って怖いわあ」


「まあ、秋吉君もみっちゃんのこと好きやったんやろうなあ」


 添田や女給の話を聞く分では、どうも秋吉が一番疑わしい。やはり、みつを恨んでの犯行なのか。


「秋吉の住んでいるところとか、わかる?」


 小林は女給ふたりに、訊いてみたが、ふたりは顔を見合わせた。


「すんまへん。お客さんのことあんまりしゃべったら怒られてしまうし」


 アサが媚を売るように、眉を下げて謝る。これ以上ここにいても仕方がないか。


 小林が立ち上がると、断髪の色っぽい女給が出口まで付き添いドアを開けてくれた。会釈をして出て行こうとすると、女給も一緒に表へ出てきた。


「探偵さん。秋吉さんのこと知りたいん?」


「ああ、知りたいね」


 そう言うと、女給は妙な流し目で小林を見る。


「うち、詩織て言うの。またここに来てくれはるんやったら、秋吉さんの下宿教えたげてもええけど」


 小林は女性の方からこのように、情報を提供されることが多い。探偵としてはありがたいことだ。


「わかった。事務所からも近いし。贔屓にさせてもらうよ」


 女の誘い文句を額面通りしか受け取らない小林に、詩織はかわいく赤い唇をとがらせた。


「もう、いけずやなあ。ちゃんと、うちに会いに来てな」


 そう言うと詩織は店の中に引き返し、紙片を持って再び出てきた。


「はい、秋吉さんの下宿の住所。マスターには内緒な」


 紙を渡す時、詩織は小林の手を握って妖艶にほほ笑むと、色ガラスのはまったドアの向こうへ消えて行った。




「本来探偵とは地味で目立たず影に徹し、そこにいてもいないようにふるまえるほど存在感の薄い奴が向いてるんだ。おまえみたいに、妙に目立つ奴は向いてない」


 富小路の事務所では、詩織から秋吉の住所を聞き出した小林に向かって小林は毒づいていた。


「俺、そんなに目立ってますか?」


 陽が落ちた薄暗い室内で小林はデスクに向かい、バンカーズランプの下で書類を作成していた。すぐにでも、秋吉の下宿に行きたかったが、なんせ他の仕事もある。


 金にはならない仕事は後回しにしろと言われ、呉服屋の跡取り息子が現在付き合っている女の身辺調査をまとめていた。


 小林の調査結果次第では、強制的にふたりを引き離すと依頼主である両親は鼻息を荒くしていた。小林の集めた情報によれば、ふたりが別れるのも時間の問題のようだ。


「ふん。自分でわからんのなら、世話がない。よし、俺はもう帰るぞ」


 後藤は小林への当てつけのように、帰り支度を始めた。中折れ帽をかぶりそのまま出て行くのかと思いきや、出入り口のドアを開けたところで振り返る。


「明日、秋吉の下宿に行くのか?」


 大きな後藤の声が廊下に漏れ、吹き抜けの螺旋階段に反響する。


「はい。そのつもりです。学校には行ってないみたいなので、部屋に引きこもっているのかも」


「有益な情報が得られるといいが。まあ、気をつけろよ」


 取ってつけたように、後藤は小林の身を案じた。なんやかんやとケチをつける後藤だが、面倒見がいいのだ。ねっからの上官タイプである。その性格のおかげで、今小林は雇ってもらっているのだ。


「はい、ありがとうございます。用心はしますよ」


 まだ、秋吉が殺したとは決まっていないけれど、人を殺した人間は追い込まれると何をするかわからない。


 探偵稼業を始めて、半年だがこれまでにも危険な目にはあってきた。後藤は腕っぷしが強いが、小林は見掛け倒しの感が否めない


 後藤が帰ってから三十分ほどで書類は完成した。大事な書類は、後藤のデスクの鍵付きの引き出しに入れることになっている。


 書類を引き出しにしまい、真鍮の鍵を鍵穴に入れカチリと回す。これですべて終了だ。小林は事務所の戸締りをして木製の螺旋階段を降りていく。


 明日の予定を頭の中で組み立てる小林の足音は、ギシギシと軋み一定のリズムを刻む。そのリズムに違和感を覚えた。


 軋む音が二重になっている。誰かが、小林をつけていた。


 くっそ。油断した。探偵が事務所からつけられるなんて。後藤さんにまたどやされる。


 小林が振り向こうとした瞬間、思い切り背中を突き飛ばされた。バランスを崩して転げ落ち、したたかに頭を打ち付けた。


 一階の踊り場で伸びていると、突き落とした犯人が降りてきて小林の傍に立つ。そのまま右足を振り上げ、短髪の頭を踏みつけようとした途端、小林はカッと目を開き犯人の足をつかんだ。


 小林は電灯のオレンジ色の光を真上から浴び、犯人の姿は濃い影となり視認できない。しかしつかんだ足を離さず、体を反転させ犯人を引き倒した。


 そのまま捕まえられるかと思えば、運が悪いことに犯人が履いていた靴のつま先が、ちょうど小林の鼻先をうちつけた。小林はたまらずつかんでいた足を離してしまった。その間に、犯人はドタドタと四つん這いから立ち上がり、ビルのロビーを抜け逃げて行った。


 鼻を蹴られた衝撃で、小林は犯人の後ろ姿を目で追うこともできず、その場に大の字に転がることしかできなかった。

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