九 再度、動物園にて

「俺もそれを考えた。みつはカフェーに住み込んでいて、探偵事務所は目と鼻の先だ」


「探偵に相談していると、犯人にバレたらまずかったとか」


 中也の言い分なら、わざわざ差出人の名前がない手紙をよこした理由はわかる。探偵事務所に入るところを、見られたくなかったということか。


 しかしそうすると……。


「犯人は、いちいちみつの行動を見張ってたことになるぞ」


 カフェーの女給をじっと見張っている男――とは限らないが――なんて、不気味すぎる。階段から突き落とされた時、小林は犯人の靴をつかんだがそれだけでは男か女か判断できなかった。


「みつさんは引きこもりがちで、舞台の稽古なんかで出かけるのは定休日の水曜日だったと詩織さんが言っていました」


 詩織とは小林に秋吉の下宿の住所を教えてくれた、色っぽい女給の名前だ。


「じゃあ、水曜日だけ見張られていたというわけか。でも毎週水曜日に一日見張るなんて暇なこと誰ができる」


「まあ、学生なら授業さぼればいいですしね」


 それならば、ますます秋山が怪しいではないか。小林がそう考えていると、見透かしたように中也が口の端をくっと上げて話を続ける。


「学生でなくても、飲食店で働いていたら火曜か水曜が定休日のところは多いですよ」


 京都の飲食店は『神』に通じるとして、か(火)と、み(水)の日を休みにする店が多かった。


「まあそうだけど……」


 中也の論理的思考に舌をまきつつ、小林は素直に自称詩人の少年の推理に賛同できない。小林は、まだ秋吉を疑っている。ここは探偵の矜持にかけ、待ち合わせの謎を解きたいところだ。


 しかしどう頭を捻っても、明確な答えは出てこない。思考中につき、とまっていた会話はなかなか再開されず、小林の脳内にふと、あの日ここで中也がマリオネットを操っていた姿が浮かんだ。


「なあ、訊いてもいいか? ツグロウって誰なんだ」


 謎から逃げて何気なく訊いただけだったが、中也のいつもゆるぎない瞳がせわしなく左右に揺れた。大人ぶっている中也が、これほど散り乱すところを初めて見た。


 しばしの間をおいて、小林の不躾な質問の答えが返って来た。


亜郎つぐろうは弟です」


 マリオネットに名前を訊ねるということは、その弟はすでにこの世の人ではないということだ。


「すまない。余計なことを訊いた」


 落ち着かない様子を見ると、弟の死は中也の中でいまだに昇華されていないのだろう。小林は謝ると、それ以上何も訊かなかった。


 しかし何も訊かない方が、案外しゃべりやすいものなのか、中也はぽつぽつと自分のことを語り始めた。


「我が父は軍医から、開業医になった人です。人に尊敬され何でもできる万能な大人だと思っていたのに、弟を助けることができなかった」


 子供にとって、父親とは圧倒的な力を持つ無敵の存在だ。それがある日ふと、魔法が解ける瞬間がくるのだろう。小林の場合は、魔法が解ける前に父は死んでしまった。


 だからいつまでも父を越えられず、胸の内で大いなる存在としてくすぶっている。


「弟はスペイン風邪だったのか?」


 数年前にスペイン風邪が大流行して多くの犠牲者が出た。あの時、予防にマスクをかけることを奨励されたそうだ。


 ちょうど小林がシベリアから帰って来た時も、黒いマスクをかけた人はまだいた。


「いいえ違います。弟は僕が七つの時に病気で亡くなりました」


 しょんぼり沈む中也が、なんともかわいそうだった。しかしここで慰めても、この生意気な少年は、『子ども扱いするな』と気を悪くすることだろう。そういう時は、話を変えるにかぎる。


「スペイン風邪といえば、黒いマスクが大流行りしたよな。あれ、カラスのくちばしみたいでなんとも面妖で、おもしろい姿だと思わないか」


 笑いを誘おうとしたのだが、中也はクスリとも笑わず無反応だ。思惑が外れた小林の脳裏に、最近マスクをつけた人物を見た記憶がよみがえる。


「そういえば、みつの恋人の添田さんって人が、マスクつけてたよ。風邪をひいて銀行を休んだとか」


「へええ、みつさんに恋人がいたんですか……知らな、かった……」


 添田の話に反応した中也だったが、その台詞はどんどん尻すぼみになっていく。まだ弟のことが頭から抜けないのか。


「添田さんは、身寄りのないみつの葬式をすると言っていた。恋人だったとはいえ、なかなかできることじゃない。無縁仏にならずに済んだことは、みつにとって……」


 ペラペラとしゃべる小林に、中也の鋭い声が飛んだ。


「ちょっと、黙っててもらえませんか。横でごちゃごちゃうるさいですよ。考えがまとまらない!」


 いきなり怒鳴られた小林は、思わず中也の顔をまじまじと見る。先ほどまで迷子の子供のような不安げだった顔は、大きく目が見開かれらんらんと光り輝いていた。


「何をそんなに、興奮して……」


「だから、だまって!」


 またしても一喝され、小林はしおしおと中也の隣で静かになる。突然おこった、中也の変わり身。いったい自分の何が、中也を怒らせたのか。小林が思考をめぐらしていると、


「そういえば、あなた。カフェーを訪れた夜に犯人に襲われたと言っていましたね」


 中也のくうを見据えていた目が、小林をとらえた。


「ああ、事務所が入っているビルの階段から、背中を押されて落ちたんだ」


「なるほど……」


 中也はなぜか、けだるげな声を出す。


「何がなるほどなんだ?」


 問いただすと、中也が白く細い人差し指を小林の眼前にすっと立てる。


「探偵の小林さんにお願いがあります。僕の言うことを調べてください」


 薄く形の整った唇の端をくっと上げ、中也はマリオネットそっくりな笑顔をつくった。


「いったいどっちが探偵なんだよ……」


 小林のボヤキは、春の日差しに温められた地面へポトリと落ちたのだった。

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