十四 妹の名前

「俺の郷愁の象徴は、妹だった」


「妹さんが、いらっしゃったのですか」


 中也は小林の台詞からちゃんと、過去形だと読み取ってくれる。


「俺の父親は下関で海運会社を経営していた。羽振りがよく、贅沢な暮らしをさせてもらったよ。でも、それは見せかけで俺が十二の時に父が死んで、会社に多額の借金があることがわかった」


「まあよく聞く話ですね」


 中也は小林の話に、簡単に同情しない。それが心地よく、話を続けられる。


「母方の親戚に身を寄せて、俺は中学にも行かず働き出した。母も内職を始めたが、今まで働いたことのないお嬢さんだ。すぐ苦労がたたって、あっけなく亡くなった」


 劇的な東雲色は次第に薄れ、日常の空へ移り変わっていく。それでも、小林は空を仰いだままだった。


「父も母も亡くした妹の傍にいてやりたかったが、徴兵検査で甲種合格しちまって即入営さ。運の悪いことにシベリア出兵だ。あっという間に、わけもわからずシベリアの大地を踏んでたよ」


「シベリアは寒いところだと聞きます」


「ああ、寒いってもんじゃないさ。息も凍るんだからな」


 ははっ、ともらした小林の息を、鴨川の川風がさらっていった。


「何度も死線をさまよった。その度、妹を一人にできないとふんばったのさ。必ず妹のところに帰るんだと。仲間の屍を越えてやっと内地に帰って来たら、妹は行方不明になっていた」


「行方不明?」


 小林は朝日に照らされる中也の顔を、横目で見る。


「戦場に行った俺ではなく、湯田の温泉旅館で奉公していた妹が姿を消した」


 湯田は中也の故郷だ。


「熊野神社の縁日の日、夜に少しだけ暇をもらい仲間と夜店に出かけたそうだ。そこで、仲間からはぐれそのまま帰ってこなかった」


「熊野神社はよく知っています。境内でよく遊んだ」


 意外な小林と中也の接点に、ふたりは顔を見合わせる。


「おまえとは、本当に変な縁があるな」


「変な縁とは心外です」


 軽口をたたいてみたところで、小林の心は晴れない。


「俺が探偵になったのは、妹を探すためさ。けれど、手がかりはさっぱりつかめず。まったく不甲斐ない兄貴だ。守ってやることも、探し出してやることもできなかった。今どうしているのか。生きているのか死んでいるのかさえ、わからない」


 小林の懺悔に中也は何も言わず、じっと鴨川のとうとうと流れる川面を見下ろしていた。しばらくたって、ようやく語り始めた。


「実は僕がマリオネットを魔術師からもらったのは、熊野神社の見世物小屋でした」


「なに? 熊野神社の見世物小屋……。妹は仲間と見世物小屋の前で、はぐれたそうなんだ」


 偶然の一致なのか、はたまたふたつの事象はかさなるのか。小林は中也が語る過去を、固唾をのんで聞き入った。


「魔術師は見世物小屋の奇人だった。腕のない女性や、ろくろ首のインチキといっしょに狭い小屋の薄暗い隅にひっそりと立っていた。天井に頭が付きそうなほどの大男で、髪は生えておらず真っ白な顔に異様に長い鼻。その大男を弟たちは怖がって逃げ出したけれど、僕はじっと見あげていた。すると、大男は腰をかがめて僕の顔をのぞき込んで言ったんです」


「なんと言ったんだ」


 中也の話す内容が、妹に関係しているような気がして小林は先を急かす。


「後で、小屋の裏においで。いいものをあげようと。そのしゃべる言葉は片言で聞き取りにくかったけれど、僕は言われるがまま小屋の裏で待っていた。大男はしばらくして現れ、自分は魔術師だと名乗りあのマリオネットをくれたのです。おまえなら、使いこなせるだろうって」


「それだけか? ほかには?」


「今思えば、大男はロシア人だったんじゃないかと思います」


 ロシアで革命がおこり、多くの市民が財産を没収され革命政府に迫害されるなどして、祖国を追われた。難民として日本に流れてきたロシア人は、数千人いたと言われている。


 着の身着のまま祖国を脱出した人々は、異国の地で苦労を重ねたことだろう。見世物小屋の奇人になっていても、おかしくはない。


「ロシア人……。それは、何年前の話だ」


「今からちょうど二年前の春です」


「妹がいなくなった時期と重なる。まさか、そのロシア人が妹を?」


「わかりません。でも、何か関係があるのかも……でも、妹さんが生きているか死んでいるかわかる方法がありますよ」


 何時も簡潔に物事を言う中也には珍しく、遠慮気味に訊いた。しかしその意図を、小林は明確に理解した。


「マリオネットに、名前を訊ねれば、死んでいれば語り出す。ということか」


「はい……。妹さんの名前は?」


泰子やすこ。小林泰子だ」


「泰子ですね」


 妹の名前を確認すると、中也はマントの中からマリオネットを取り出した。しかし小林は、中也とマリオネットに背中を向けた。


「ありがとう。でも、やめておくよ」


 中也は顔色を見ずとも、千里眼でとっくに小林の心の内を読んでいるだろう。それでも、なさけない顔は見られたくなかった。


「まだ希望を捨てたくない」


 つぶやかれた小林の本音は、中也の耳にしっかりと届いていた。


「もう、散歩は終わりだ。市電が動き出すまで、事務所で寝てろ」


 小林は事務所に向かって歩き始めたが、中也が付いてくる気配はない。付いてくるのも来ないのも、中也の自由だ。


 ふたりの地面に落ちた黒い影は、同じ西の方角へ向かって伸びていたが、重なることはなかった。



   第一話 完

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マリオネットは悲しからずや~中也十六歳、京都にて謎を追う 澄田こころ(伊勢村朱音) @tyumei

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