十三 春は夜明け
小林が探偵事務所に帰って来たのは、夜が白み始める頃だった。
「なんだ、まだいたのか」
小林が壊れたドアを開けると、中也がひとりソファーに腰かけていた。
「秋吉さんは、帰りましたよ。世話になったと言い残して行きました」
「しかし、秋吉が姿をくらませていた理由が、みつの劇団のチケットを届けに行ってたなんてな」
昨日のことである。北野の下宿にひょっこり秋吉が帰って来たのだ。それに気づいた中也は、小林に連絡してふたりで事情を訊いた。
秋吉はみつに、富山の両親に自分が出演する舞台のチケットを渡して欲しいと頼まれたのだった。みつの故郷は山間部の辺鄙なところで、村を探し出すのにかなり時間がかかったそうだ。
やっと約束を果たして帰ってきてみれば、みつは殺されていたというわけだ。
「家出してきても、やっぱり両親に自分の舞台を見てほしかったのか……」
小林のつぶやきが、静まり返った室内に虚しく響く。
本当ならば、念願の舞台に立っていたみつ。役はたいしたことはないと秋吉は行っていたが、一言台詞があったそうだ。
「添田さんに邪魔されて、思うように稽古にも行けなかったでしょうにね」
中也も珍しく、しんみりと自分の発した言葉をかみしめているようだった。自称詩人の心の中で、今いろんな感情が渦巻いているのだろう。
「どうする、帰るか? 学校までひと眠りしたらどうだ」
小林の大人としての親切心を、中也は無視する。
「ちょっと、散歩しませんか」
学生の中也を明け方まで付き合わせて悪いことをした。今すぐ下宿に帰って、寝て欲しいと思う小林だ。しかし小林も、とても眠れるような心境ではなかった。
ここは中学生の中也ではなく、いっしょに事件を解決した同志として接するべきではないのか。同志ならば、解決したとはいえ心に残るやるせなさを共有したいとも思う。
そういう時は同じ時間を過ごすに限る。そう小林は、柔軟に判断することにした。
ビルを出ると、都会的な三条通りの町並みの輪郭は青磁色の朝の空気の中で滲んでいる。春の早朝のキンと冷えた空気に身を震わせ、小林は背広のポケットに両手をつっこむ。中也と連れ立ち東へ向かって歩き出した。
「今度、みつさんが出るはずだった舞台を、いっしょに見に行きませんか?」
中也は段々と明るくなる足元に、視線を落としたまま言った。
「ああそうだな。チケット代はおごるよ」
「そうですね。今回の報酬としてもらっておきます」
コーヒー代は素直に受け取らなかった中也だが、今回は異を唱えなかった。
「謝礼がチケット代なんて、すまないな。なんせ今回の件に関しては無報酬だからな」
「かまいませんよ。次回に、期待することにします」
「えっ、手伝ってもらうのはこれで最後だぞ。そうそう中学生の力は借りないよ」
そう小林が言うと、中也はぽってりとした唇の端を上げた。
「あなたはまた、必ず僕を必要としますよ」
中也に言い切られ、『そんな馬鹿な』と言いかけ、小林は口をつぐむ。
そうだった。こいつは死者の本音を語るマリオネットを操り、千里眼の持ち主だった。もう何も言うまい。
ふたりは無言で歩を進める。しばらくして視界が開け、三条大橋に出た。
橋の上に立つと、ちょうどなだらかな東山の稜線から朝日が昇ってくるところだった。
「へえ、綺麗なもんだな。中也なら、この景色を詩で表わせるんだろうな」
小林は目を細め、東雲色に染まっていく空にしばし魅せられる。そしてふと「枕草子」の冒頭を思い出す。
子供の頃に読んだ時は、春といえば桜だろ。と反発したもんだ。そうかこれが、千年変わらない、京の都の夜明けか。
小林は平安の歌人も心を奪われた景色に悠久の時の流れを感じ、自分の存在がちっぽけなものに感じだ。
「秀平さんこそ、ハイネを読んでたんでしょ。この風景を抒情的に書き表したらどうですか。まああなたが、清少納言ほどの才能があればの話ですけど」
まったく憎たらしい奴だ。素直に、この素晴らしい情景を、言葉にするのは難しくて書けないと言えばいいのに。
中也と出会ってひと月もたっていないのに、すっかりこの少年のひねくれ具合を把握できるようになっていた。しかも、この朝日から同じ連想をしていたことに驚く。
「詩は
朝日をみつめる生意気な少年の声音に、わずかな寂寥感を感じ、小林もその視線の先を想像する。
「ああ、まったくだ」
「不思議なものです。故郷を出て、新しい土地で解放感に浸っていたはずなのに。いつのまにか自由が、孤独にすり替わっている。まったくメルヘンですよ」
メルヘン? おとぎ話と言いたいのか? 自称詩人の感性を、朴念仁の小林には理解できなかった。できなかったが、小林の中にある辛い現実をおとぎ話として話してしまいたい衝動にかられた。
それもこれも、故郷を捨てて夢半ばで殺されたみつに対する同情と、美しすぎる朝日のせいだ。そう小林は自分に言い訳をして、今まで蓋をしてきた過去を語り始めた。
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