第7話 恐れていた『事件』の到来に、わたしたちは息を飲む
「そろそろ、陛下がバスタブから上がる頃合いよ。立ち止まる暇はありませんわ」
長湯好きの主人を、のぼせさせては元も子もない。年上のメイド相手に物怖じせず、ウルスラは檄を飛ばした。
茶会当日の朝、皇太后宮は『女たちの戦場』と化していた。
「お召し物はこちらで、よろしいでしょうか」
若いメイドは流行色のドレスを、ウルスラの前に差し出す。
「銀色ね……」
不安の色を覗かせる、メイドを前にウルスラは思案を重ねた。
主人の威厳を示すには相応しいものの、
「念のため、薄紫色のドレスもお願いするわ」
あえて、選択の余地を残す。
ウルスラの優れない表情をくみ取って、
「ただいま、お持ち致します」
別のメイドは、足速にその場を離れた。
先代の喪が明けたとは言え、金糸の刺繍を施したドレスは憚られる。
――淡い青や緑だと、陛下の年齢を考えたら、相応しいと言えないのよ。
赤や黄色も論外となれば、その色合いを選択する他なかった。
先ほどのメイドが、衣装部屋から薄紫色のドレスを運び込む。鏡台の前に座る主人の表情は普段と変わらないものの、差し出された衣装をすんなりと受け入れた。
――やはり、あの色のドレスを用意して正解だったわ。
身支度が整いつつある、主人の後ろ姿を見ながら、ウルスラは安堵の息をついた。
一年後に女官長を辞す。ウルスラは未だ、その旨を主人に伝えていない。後任候補を見繕うにも、適任者が思い浮かばないからだ。
時計の進み具合を気にしながら、幾分か暇を持て余し気味。ウルスラは、手持ち無沙汰を慰めようと、何気なしに招待客名簿をめくった。
――んん……待って! これって……。
家名と略歴に加えて、現当主の年齢も記載されている。当主の年齢から見当すれば、招待客の中に未亡人が混ざっている。そう見て、ほぼ間違いないだろう。
――そうよね。後任候補に、私と同い年の令嬢を選ぶ必要なんてないわよね。
ある程度の候補を絞ってから、一年後の退職を申し出ても遅くない。後々の根回しを養父に依頼しても、おそらくバチは当たらないはずだ。
目の前で濃い霧が晴れるような、不思議な錯覚に捕らわれそうになりながらも、ウルスラは主人の求めに応じるべく奔走した。
夜半から朝方にかけて、あれだけの雨が降っていたにも関わらず、昼を過ぎた今、さわやかな青空が広がっている。警備の都合上、ガーデンパーティーを断念したことを、今更ながら惜しむくらいに。
穏やかな日射しのおかげだろうか、主人もいつもより穏やかな笑みを称えている。
絹糸より細いプラチナブロンドを結い上げて、薄紫色の裾裳を翻す。表情の起伏に乏しかったメイドたちも、にわかに色めき立った。
「失礼致します」
戸外から、張りのあるテノールの声が、ウルスラの耳に届く。主人の目配せを受けて、彼女は扉を開けるよう呼び鈴を鳴らした。
軍靴の跡が一つ二つ、絨毛を踏みならす。 近衛の正装をまとい、マクシミリアンが皇太后の面前で片膝を折った。
「ご尊顔を拝謁し、恐悦至極にございます」
慇懃とした挨拶に、誰もが目を奪われる。見惚れたまま我を失う、メイドたちを窘めるように、ヴァルブルカは咳一つ立てた。
マクシミリアンの訪問は、前もって知らされていたが、美麗な所作を目の当たりにして、ウルスラはさざ波のような拍動を覚える。
「警備の件ですね」
「御意」
ウルスラの問いに、マクシミリアンは高揚を抑えて答えた。
まず、給仕役の執事は全て、第二騎士団所属の騎士に差し替えている。万が一に備えて、『暗部』の『毒味方』も待機させたと、マクシミリアンは目の前の貴人を見据えて伝えた。
「『番犬』どもを使うなんて、物騒極まりないわね」
「何かが起きてからでは、遅きに失しますので」
――確か『暗部』って、内務省直属の秘密部員よね。
彼らを束ねている『キツネ目』は、それだけ事態を重く見ている。ウルスラは裾裳を握りしめて、マクシミリアンの説明に耳を傾けた。
「皇太后陛下の御成である」
皇太后の私室から幾部屋も通り抜けて、サロンの扉前までの道のりの長いこと。
扉越しに聞こえる、弦楽器の奏でる音を楽しむことなく、ウルスラは主人の後に続く。薄衣のドレスの裾裳を翻して、ヴァルブルカは上段にあつらえた席に着いた。
主人の着座した場所から隅に設けた場所に、ウルスラは腰を落ち着ける。腰に身に付けたシャトレーゼから、小さな手鏡を手繰り寄せた。
無論、魔法で視界の外の様子を伺うためである。
先入りしていた招待客が、一人一人前に出て、皇太后に対して礼を執る。その間、ウルスラは執事たちの働きを注視した。
――確かに、見かけない顔ね。
壁際で待機する者からワゴンを押す者まで、顔なじみの執事たちと比べても、彼らの所作に不自然さはない。近衛の騎士たちの忠勤ぶりに、ウルスラは感服した。
貴婦人たちは我先にとばかり。流行の舞台の演目など、おしゃべりに花を咲かせる。猫被りにたけた、ヴァルブルカの歓心を得ることがないと、彼女たちは知るよしもないだろう。
巷で真偽不詳の噂の飛び交う、テンペランス伯爵家の醜聞について、誰もが口を噤むせいで、目新しい情報は得られなかった。
「このスコーンにかけたシロップ、いつもと違うかしら」
興味ない話に飽きたのだろう。皇太后は、さりげなく別の話題に誘導する。
「北部辺境もここ数年、森林地帯が長雨に祟られましたので、別の物と差し替えていますの」
キツネ目の、ではなくて。宰相夫人が、得意気に答える。
ミモザの心地よい香りが、ウルスラの鼻先をかすめる。小腹が空いているとは言え、茶会がお開きになるまで我慢しなければならない。
――そうだ。こうした場面で、食への欲求を我慢……あら?
宰相の取り巻き軍団の中でも、年少の貴婦人の顔色が優れない? ウルスラが気づいた瞬間だった。
「誰か、救護員を呼びなさい」
誰よりも先に、主人が声を張り上げる。周囲の誰もがヴァルブルカの大声に気圧されて、身動き一つ取れずにいる最中、人と人を掻き分けて、ウルスラが御前に駆けつけた。
「キャッ!?」
誰からともなく発した悲鳴の直後、件の貴婦人はその場に倒れ込んだ。
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