第6話 結局のところ、『婚約』は既定路線らしい
ウルスラが伯爵家に引き取られてから、かれこれ十三年が過ぎようとしている。彼女が幼少期を過ごした孤児院では、基礎的な読み書きすら習っていなかったため、伯爵家の厳しい教育に幾度となく、挫けそうになった。
——夕食を共にするなんて、一体、何カ月ぶりかしら。
礼儀作法にうるさく、人並以上に気難しい養父との食事に、さしたる思い出などない。陽気で穏やかな家令とメイドたちがいなければ、ウルスラの性格は、とっくの昔に荒み切っていたはずだ。
ダヴィッドの実祖父は皇族の出身で、ザーリア伯爵家の家付令嬢の元に入婿した経緯から、養父自身に婚礼の話が持ち上がったのも、ウルスラが知るだけで五度ほどあった。いずれも、養父自ら相手に断りを入れている。
——伯爵家の存続を優先して、お義父様が婚姻相手を探せばいいものを。
頭髪の白い箇所が目立つようになったとは言え、社交界屈指の美男と賞された過去もある故に、今も尚、数多の貴婦人から懸想されている。
『帝国貴族社会、七不思議の一つよね』
いつだっただろうか。コリーナが養父にまつわる噂を、そのように評していた。
柱時計の長針からレースのテーブルクロスへと、ウルスラは視線を落とす。 家令とメイドたちが見守る中で、彼女は指定の席に着いた。
ウルスラから遅れること五分ほどで、ダヴィッドが食堂に入る。しかめっ面のまま席に着くなり、ダヴィッドは祈りの言葉を淡々とつむいだ。
給仕役の若い執事が、前菜を盛った皿をウルスラの目の前に置く。
「頂くとしよう」
養父が先にフォークを手に取ったため、ウルスラは音を立てないように手を伸ばす。食事の歓談などないため、この一時が、苦痛で仕方なかった。
空になった皿が下げられてすぐに、
「ところで、皇太后宮で辛い目に合っていないか」
ダヴィッドが口を開く。
余りの不意打ちに、ウルスラは答えあぐねる。
「幸い、皆様によくしていただいております」
やっとの思いで、ウルスラが差し障りのない言葉を選ぶ。
「それはよかった」
険しいばかりの普段と違い、安堵した表情でウルスラを労った。
——今、ほんのりと笑ったかしら。明日の天気、大雨になったら嫌だけど。
『魔王の錯乱』とでも、言い表せばよいだろうか。想定外の出来事を目の当たりにして、ウルスラはフォークを持つ手を止めた。
「そうそう、この魚は帝都はずれの町で、養殖したものだ」
ダヴィッドが珍しく、自ら世間話をウルスラにふる。今まであり得なかった展開に、ウルスラは小首をかしげた。
しかし、長い時間に渡って訝しむ訳にもいかず、
「川魚を、育てていると」
ウルスラは否応なく答えた。
「産卵の済んだメス魚が、清流を汚して大変でな」
クロータールやメイド長の呆れ顔に、食事の場で取り上げるような話題ではないのだと、ウルスラは苦笑いを浮かべる。
もっとも、市井での噂に疎い養父らしいと、ウルスラは父の語らいに耳をすませる。貴婦人や若い令嬢の好む、歌劇や舞台の演目に特化した評論より、よほど身になる内容ではないか。
長年、養父に抱いた畏怖の念を溶かすように、ウルスラはひたすら聞き役に徹した。
「明日には、皇太后宮に復帰するのか」
「はい。茶会の準備もありますので」
『宮廷魔術師』を志し、女官長の地位を得た今も、ダヴィッドはウルスラの宮仕えに対して、異を唱えたりしなかった。不機嫌極まりない面持ちは、いつもの通りだと、ウルスラは食後の紅茶に口を寄せる。
「そろそろ、花嫁修業に専念してもいいのではないのか」
「お義父様……何故に」
ここにいる誰もが、ダヴィッドの意見に賛同するような目を、ウルスラに向ける。
「そなたの真の両親に誓ったのだ。必ず、お家再興が叶えられるよう、淑女教育を施すと」
「あの……」
ダヴィッドの手ぶりを受けて、執事とメイド長が食堂を離れる。
「今は、故あって家名を明かせないが、そなたは我が伯爵家より上位貴族の跡取りだ」
クロタールだけは、ダヴィッドの言葉に何度もうなずいている。どうやら、彼だけは事情を把握しているようだ。
「出来るのであれば、こたびの茶会を最後に、女官長の任を辞してくれないだろうか」
「それは……」
せっかく、独り立ちの足がかりにと、苦労して得た地位を手放すなど、ウルスラは承服出来ようがない。義父と養女を引き裂くような、不穏の空気が漂う。
「旦那様。お願いがございます」
「クロタールよ。如何した」
家令は首を垂れて、
「お嬢様が女官長の責務を全うする猶予を、一年だけお与えくださいませ」
必死に願いこう。
思わぬ助け舟に、ウルスラは身を乗り出しそうに。はしたない真似だと、養父から咎めを受ける覚悟の上で。
「皇太后陛下へのお伺いもなく、職責を勝手に辞す訳にも参らぬか」
ダヴィッドの一言に、ウルスラの頬が赤く染まる。
「まあ、婚約の話は進めるとしよう。よいなウルスラ」
「は……い?」
結局のところ、老獪な二人の掌の上で踊らされただけ。そうだとしても、直ちに職を辞さずに済んだことを、ウルスラは素直に喜んだ。
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