第2話 今日の災難は、まだ、終わりそうにもない
「今の聞いた?」
「うそよね」
ざわめきが増す、周囲の反応をよそに、
「聞いていないのか」
でっぷりした腹を突き出して、高慢な面持ちの彼が声高に訴える。
「コリーナ、どうしたの」
呆然と、遠くを見定めて、
「そんなはず、あり得ないのよ。絶対、違うから……」
意味深な言葉をつむぎ出す。
「まさか」
「冗談じゃないわ」
この場面に居合わせた誰もが、彼の言動に驚きを隠せない。
——人を外見で判断してはならない、とは言うけれど
それは、ウルスラも理解しているつもり。行方不明の婦人の顔を知る訳でなくとも。
「妻との離縁は、ぼくの母が受け継ぐはずだった財産を、離縁時の財産分与に加えていただければ、受け入れる所存だ」
「そのように申されましても、当方で手続きを承る訳には……」
遠くから彼らの応答を伺う限り、ここで管理する『登録肖像陶板』との『血縁鑑定』の必要性を、彼は理解していないようだ。
「かなり、厄介な案件よね」
「ところで、件の女性の肖像陶板は、うちにあるのかしら」
騎士団総出の捜索が行われたなら、肖像陶板もそちらに移されたはず。一層のこと、近衛に話をつけて、入婿の身柄を引き取ってもらうべきか。
ウルスラが考えを巡らせている間、事態に変化が生じる。騒ぎを聞きつけた衛兵が、尚も喚き続ける入婿の身柄を確保したからだ。
「覚えていろよっ」
「大人しくするんだ」
受付の担当の署員も、想定外の苦行から解放されて、そそくさと己の持ち場へと戻る。すでに、部外者となったウルスラの出番はなかった。
「絶対に違うわよ」
「何が」
「だって、リサデル様と言えば、皇太后陛下と『帝国一の美女』の座を争った間柄よ」
席について、二人は紅茶の残りを飲み干す。
「まあ、詳しいのね」
「叔母が、女子学院の同期だったから。当時のこと、色々、聞かされていたのよ」
今は亡き皇帝が皇太子だった頃、お妃候補の一人だったと、一言を添えて。
「仮に、辺境伯が不男だとしても」
当事者がいなくなり、コリーナの遠慮ない物言いに、ウルスラは苦笑いする。
「婦人の面影のない子供ね」
本来の目的を、今更ながら思い出して、ウルスラは置き去りにした名簿を手繰り寄せた。
「それで、その入婿は引き下がったのかね」
黒い駒を盤上に置く音が、コツンと響く。思いもよらない人物相手に、ウルスラの視線が空をさまよう。この国の事実上の支配者は、宰相の地位を預かる彼に相違ない。
主人と実の姉弟だけあって、二人はよく似ていた。とらえ処のない、怜悧なアイスブルーの眼差しも、陰を帯びた低めの声色も。
「どうぞ」
「ああ」
客人の給仕を終えたメイドの、安堵の表情に加えて、なんと足取りの軽やかなことよ。
「衛兵が来て、外に連れ出して下さいました」
胸の内を悟られぬように、ウルスラは差し障りない言葉で答えた。
「ハハハ……。それは、災難だったな」
南の辺境にある属州からの貢ぎ物。緑色の実を焙煎させた、黒い飲み物を宰相が喉奥へと流し込む。
確か、『コーヒー』と言っただろうか。苦いだけの味はウルスラの好みではないが、沸き立つ湯気から漂う匂いは、心地よさを覚える。
「実は、姉上と君のお義父上から頼まれていてね」
「あの……」
婚約の打診なのかと、ウルスラは身構える。己の出自の複雑さ故に、その手合いがこの年になるまでほとんどなかった。
「相手も、君の出生に関して好意的に捉えている」
「左様にございますか」
帝都から離れた地方では、近年まれに見る気候不順のせいで、作物の不作が続いている。帝都のタウンハウスを手放して、社交を控える貴族も少なくない。
幸い、ウルスラの養家のザーリア伯爵家の場合、所領が天候不順に見舞われていないため、安定した領地経営に預かっている。おかげで、豊富な資産に恵まれていた。
つまり、宰相の言葉の裏を読み取るならば、こちらの持参金目当ての縁談と言ったところだろうか。
——宰相の肝入りとなると、厄介でしかないのだけど……。
目の前で次の一手を待ち構える相手に、こちらの本音を悟らせてはならない。ウルスラはやるせなさを抱えたまま、白い駒をそっと突き立てた。
「足元に、気をつけて下さいませ」
「ええ」
御者の手を借りて、ウルスラは皇太后宮の所有の馬車に乗り込む。扉が閉まるまでの間、己を偽るように姿勢を正さなければならない。
——いつまで、かかるのかしら。
ようやく扉が閉まり、ウルスラは重い息を一気に吐き出す。体をほぐしたついでにと、目をやった帳の隙間に映る空は、朱色から藍色に変わろうとしていた。
「あのキツネ目ったら、絶対、わざと負けたのよ」
肩を回しながら、御者に届かない小声で、ウルスラは勝つつもりのなかった勝負を思い出し、尚も愚痴をこぼす。空しいだけの行為に、彼女が抱える嫌悪感は消えそうになかった。
夕闇が刻一刻と迫る中で、宮殿を囲む城壁の門扉も完全に閉ざされる。ここでまごつく猶予は、あまり残されていない。
御者の放った鞭が、乾いた音を上げて空を裂く。けたたましい嘶きの後、馬たちは蹄を蹴り上げた。
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