わたしたちはまだ、言祝ぎの鐘を鳴らさずにいる
赤羽 倫果
第1話 その日、わたしの『運命』が静かに回り始めた
――チリンチリン……チリリン。
呼び鈴が幾度となく、か細い音を奏でる。皇太后ヴァルブルカの表情は、いつにも増して険しかった。
「女官長は何処に」
「お待ちのほどを」
主人の声高な問いに対して、近くに侍るメイドたちに緊張が走る。とばっちりでの叱責など被りたくない、とばかりに空目を使いながら。
「ご用命のほどを承ります」
奥の戸口より現れたウルスラを見るなり、メイドたちの表情が一気にゆるむ。春礼節に『女官長』の任を拝命したウルスラも、彼女たちの一挙一動を気にもせず、楚々と前に出た。
鈍色の裾裳を広げて、彼女はうやうやしく頭を垂れる。沈黙が続く中で、ウルスラは主人の次の言葉を待つ。一分も経たないと言うのに、彼女の指先は緊張のあまり、かじかむようにふるえた。
「こたびの茶会の招待客だけど……」
「はい」
この皇太后宮にて、定例の茶会が一週間後に催される。先だって差し出した名簿に不備が見つかったのか。一抹の不安を、ウルスラは頭から懸命にふり払う。
柱時計の秒針がゆっくりと、彼女たちを隔てるように時を刻む。重苦しい空気を吸って吐いて、ウルスラは主人の相貌を見定めた。
一分二分と、針が弧を描く。絨毛に映る影が、ゆっくりと頭をもたげた頃だった。
「紋章院での一悶着。貴女は聞いていないの?」
威圧感あふれる皇太后の問いが、ウルスラの耳奥を貫いた。
『白い結婚における六十日の潔斎』
これに該当する貴婦人は、社交の一切から身を引かねばならない。古の『帝国法典』にも明文化されている。
「早く、確認を取りなさい」
「御意」
いささかぎこちない、淑女の礼の後、ウルスラは突っ返された名簿を受け取った。
――もう、『潔斎』の手続くらい、さっさと済ませてよ。お気に入りの小庭に面した四阿で、バラを愛でての昼食を楽しみにしていたのに。
胸の奥で一人毒づいても、問題が解決する訳がない。主人の肩越しにある大窓の、遙か先の雲一つない蒼空が恨めしく見えるほどに。
宮仕えによくある、『厄介事』だと割り切るしかないか。ため息一つこぼして、ウルスラは皇太后宮を辞した。
この難件が、己の人生をひっくり返すなどと、ウルスラは想像だにしていなかった。
グンダハール帝国の帝都インフェリオルは、東西に別つ大河が流れている。
数代前の皇帝が、サンタ=テレジア島と銘打つ中州に豪奢な宮殿を建てて以来、直系の皇族はここを居に定めている。数多の官僚、女官、下働きの者を含めると、常時、五百人ほどの人々が集っていた。
「ショールを持たずに外に出たの。完全な失敗だったわね」
薄着のまま外に出たことを、ウルスラは今更ながら悔やむ。うららかな春の陽気に反して、中庭を吹き抜ける風は湿気を帯びていて、思いのほか肌寒かった。
ウルスラが、齢十二で『宮廷魔呪術師』となって、季節はすでに六度も移ろう。気難しい主人の顔を、頭の隅に追いやりながら、ウルスラは紋章院のある西棟を目指した。古巣の顔見知りたちから、嘲りを被る覚悟の上で。
「ああ、早くしないと」
天は徐々に暗雲が垂れ込めて、ウルスラの鼻先をそよぐ風も、雨の匂いをたたえている。深紅の薔薇を愛でる暇を惜しんで、ウルスラは急ぎ足で回廊を突き切った。
やがて、石造りの古びた円塔が彼女の目に飛び込む。目当ての場所まであと少し。ウルスラは、色味を増す石畳を舞い踊るように蹴り続けた。
カビ臭い螺旋階段を登り切り、ウルスラは背を伸ばして息を整える。彼女の見上げた先、ステンドグラスの天窓から、淡い虹色の光が降り注いでいた。
「あら、ウルスラじゃないの」
陽気で涼やかな声のする方へと、ウルスラはふり返る。
「久しぶりね」
「一月も経っていないわよ」
薄茶の髪を頭の天辺で一まとめにして、ヘーゼルの瞳がたおやかに笑う。見る人の誰もが好感を抱くだろう、コリーナ=ピリグラムは、帝国の東部外れに所領を持つ、新興の子爵家令嬢で、紋章院におけるウルスラのかつての同僚だった。
「ここは、安心出来るわ」
建物の裏手に面した窓縁に、二人は椅子を持ち込む。対岸の街並みを一望しながら、ウルスラはコリーナの入れた紅茶を口に運んだ。
「皇族付の女官って、憧れだけでは勤まらないわよね」
だっぷりした法衣の袖で口をおおい、コリーナがウルスラを揶揄する。独特な歯並びへの劣等感は、未だ克服しきれない様子だった。
「皇太后主催の茶会に、『白い結婚における潔斎』に入ったご婦人を招待する訳にいかないから」
「それにしても、家付のご令嬢が白い結婚だなんて……」
「お相手もさぞかし、驚かれたでしょうね」
「まあ、それにしても」
コリーナは、紅茶の残り少ないカップをソーサーに置いて、
「あの、テンペランス伯爵家が二度も繰り返すなんて」
周囲を伺いながら、息をひそめるように言葉をしぼり出した。
二十年以上も昔、テンペランス伯爵家の跡取り令嬢が、『白い結婚の潔斎』と称して、北にある女子修道院に向かったが、彼女を乗せた馬車は途中で行方不明となった。彼女の行方を追うために、騎士団総出の大捜索となったが、未だ見つかっておらず、そのせいで。
「胡散臭い、降霊術会が流行ったそうよ」
当時の出来事を伝え聞いただけのコリーナが、いたずらっ子の眼差しをウルスラに向けて、嬉々とした声音で語りつくす。世も末だと呆れつつも、ウルスラは噂話を食い入るように飛びついた。
「お前たちでは埒があかない。上役を呼びたまえ」
受付窓口の方から、男性の怒声が響き渡る。
「噂をすれば、なんとやらだわ」
「えっ」
声のする方へ、ウルスラは視線を移す。一人の男性が下位の役人相手に、上役との面談を強要していた。
高圧な脅し文句に慄いてか、窓口係の署員が青ざめた面持ちで、ウルスラたちに助けを求めている。
怯えっぱなしの彼を見過ごすわけにいかず、ウルスラは重い腰を上げた。
「ちょっと待って、あれがブルーノ辺境伯の次男よ」
「まさか、彼が」
「そう、テンペランス女伯と『白い結婚』だった入婿ね」
威張り散らすばかりの入婿は、男性として上背は決して高くない。肥えた体をおおう、よれたコートなど見れた物ではなく、伯爵家の家付令嬢が『白い結婚』を貫き通した理由を、彼女たちは難なく察する。
「ぼくもね。あれの『白い結婚』に意義はない」
「では……」
「我が母は、リサデル=テンペランスだ」
「はい?」
ウルスラとコリーナは、互いの顔を見合わせる。あの入婿、たった今、なんと宣った?
「ぼくこそ、テンペランス伯爵家の正当な後継者なんだよ」
突拍子もない戯言に、紋章院にいた誰もが耳を疑った。
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