第13話 騒動から一夜が明けて、思わぬ喜劇が幕を開ける
粗末な孤児院の食堂で、塩っ気のない冷めたスープを、ひたすら喉奥に流し込む。周囲の喧騒をよそに、淡々と手をうごかしながら。
「ウルスラ」
不意に名を呼ばれて、ウルスラは面を上げる。
泣きわめく子供たちの間を掻き分けて、表情の乏しい男性が、こっちにやって来る。養父との初対面こそ、ウルスラが覚えている、一番古い記憶だった。
養父と交友のある貴族の家名を、ある程度把握するウルスラでさえ、『スヴェン侯爵家』の名は一度も聞いたことはない。己の出生の糸口を掴みかけたはいいが、もつれた糸は簡単に解けそうになかった。
ベッドで寝返りを打つ。無為な時間だけが過ぎ去る。そんな眠れない夜も、突然の来訪者によって、呆気なく終わりを迎えた。
「本当にわたしの客人なの? お義父様ではなくて」
「左様にございます。さあ、早く支度なさいませ」
メイド長が嘘をつくとは思えず、ウルスラは渋々、ベッドから足を下ろす。若いメイドたちによって、有無を言わさず、夜着を剥ぎ取られた。
「こちらのお召し物を」
「ええ」
彼女たちの成すがまま、ウルスラは黙って身をゆだねる。人前に出ても恥ずかしくないと、したり顔のメイド長が呼鈴を鳴らすまで、彼女の機嫌は優れなかった。
――お相手は誰かしら。
ドレスの裾をたくし上げて、回廊から大階段をぐるりと回る。手すり越しから眼下を覗き込めば、ロビーの隅で見知らぬ男性が頭を垂れていた。
「御用向きは何かしら」
「某、内務省秘書官の……」
慇懃な挨拶はほどほどに、秘書官は携えた鞄の中身をあさり始める。公僕にあるまじき、要領の悪さに若い執事が空目した。
この期におよんでの無作法に、ウルスラは見て見ぬふりしか出来ない。
――この御仁。自称文官ではないよね。
身なりはほどほど整っているが、身分詐称の可能性は拭えない。ようやく、目当ての物が見つかったのか、秘書官は薄ら笑いでその場をごまかした。
「悪いけど、もう一度だけおっしゃって下さるかしら」
ウルスラの問いかけに、秘書官の視線が泳ぎ出す。
取りつくろうように、咳払い一つこぼして、
「女官長どの。これは、皇帝陛下からの勅命である」
再度、広げ直した親書を、ウルスラの眼前に差し出した。
――生真面目だけが取り柄だから、『親書』の真偽も判別出来ないのよね。
さえない風貌の文官の顔を眇めながら、ウルスラは唇をきつく噛みしめる。
――皇帝陛下はまだ、御年五つになったばかりなのよ。
「貴殿の働きは、陛下も重々承知されており……」
――そうじゃなくて……。
文官の大半がコネでの起用だとしても、これほど使えない相手に、推薦状を出せた貴族がいたのかと、ウルスラは内心、呆れてしまう。
手にした親書が、公文書としての体裁を成しておらず、また、ニセモノを掴まされたことに気づかないなど、普通ならあり得ないからだ。
――でも、何だかおかしくて……。
秘書官の道化に等しい振る舞いに対して、ウルスラはひたすら笑いを堪える。相手を傷つけないためにも、汚辱に耐える、哀れな女官であるべきだろうと、己に言い聞かせながら。
「では、これにて失礼致す」
下世話な茶番劇の幕引きに、見送りの列に並ぶ誰もが息を吐く。タウンハウスの大扉が、執事の手で閉ざされた。
「セバスチャン?」
一分、二分と時間が経つにつれて、取っ手に寄りかかりながら、彼の肩がにわかにふるえ始める。どうやら、自分の責務を果たした安堵から、抑えつけた何かが外れたらしい。
「そ……よね。ふふふ……」
ウルスラの高笑いが、ロビー全体を包み込む。
「お嬢様っ! 如何なされました」
異変に気づいた家令の咎めが入るまで、彼女の調子の外れた裏声が響き渡った。
「それで、君は高笑いが止まらなかったのかね」
ジャム入り紅茶の香りを堪能する隙を突くように、目の前に座る相手が口を開く。
「……」
ウルスラは恥ずかしさの余り、黙り込むしか出来ない。約束の刻限を前に、マクシミリアンが到来するとは。
おかげで、ウルスラのあられもない高笑いを、聞かれる羽目になったのだから。
嫌らしくほくそ笑みながら、マクシミリアンは小皿に盛られたスコーンをかいつまんだ。
「早速だが……」
「サンダース卿」
ソーサーからカップを持ち上げて、
「いい知らせと悪い知らせ、どちらを先に聞きたい」
マクシミリアンは、矢継ぎ早に質問する。
ご多分通り、ウルスラが悪い知らせを先に選べば、
「皇太后陛下の急病により、療養のためラヴィリエ公爵領の別荘に移られた」
伏目がちの相手が言葉をつむぐ。
突然、降ってわいたような凶報に、彼女は言葉を詰まらせる。偽の親書に記された『出仕停止』は、あながち嘘ではないらしい。
「宮殿も、あらぬ憶測が錯綜している」
突然の『皇太后宮』の閉鎖で、多くの働き手が解雇の憂き目にあったとか。
「彼らへの給金も、先の三月分しか保障されない。当分の間、内務省は大荒れになりそうだ」
「まあ……」
――だからと言って、幼帝の署名入り親書を持たせるって、どうなのかしら。
『帝国法典』に照らし合わせるならば、幼帝を立てる際に『摂政』を筆頭公爵家の当主から選ばなければならない。しかし、筆頭公爵のアランデル家当主が行方不明のため、それを置くことは叶わなかった。
故に、親書などの公文書の署名は、皇太后と宰相の連署となっている。ウルスラが『汚辱に耐え忍ぶ』ふりして笑いを堪えたのも、秘書官が余りにも無知だったからだ。
「そうそう、いい知らせを聞いていなかったわね」
しれっと、ウルスラは次の話題をふる。
「これだ」
マクシミリアンが、制服のベルトに挟んだ巻物をテーブルの上に置く。巻き紐をとじた封蝋は、確かにヴァルブルカの印章だった。
「教会に出発する前に、預かっていた」
「なんですって」
手に取った巻物を、すぐさま紐解く。広げた羊皮紙上に躍る文字列は、まさしく主人の手によるものだ。
「陛下は、幽閉されることを予測されていたのね」
「十中八九はそうだろう。まあ、キツネ目が、実姉を手にかけるとは思わないが……」
朝食を切り上げて、ウルスラは呼鈴を手に取る。
「早速、向かうとしようか」
「そうね」
宰相の横槍が入る前に、侯爵家を探る必要がある。お気に入りのストールを肩にかけて、ウルスラはサロンを後にした。
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