一夜を超えて

 ルチカは久々に晴れ晴れとした気持ちだった。


 ――正の字はなくなっていなかったし、シレネの花弁もそのままだった!


 朝一番に引き出しを確認し、無事に一夜を超えたことに安堵した。恐怖しながら眠ったのに、晴れやかに起きられることにこれほど感謝した日はないだろう。


 いつもと同じメニューの朝食が、今日はなんだかいつもよりおいしそうに見えた。


「――、――っ!?」


 上機嫌に鼻歌を歌いながら皿を運ぼうとしたとき、食器棚にもたれるユアンと目が合った。


 音もなく、いつからそこにいて、どれだけ見られていたのだろうか。固まっているうちに組まれていた腕が解かれ、ぱっと両方の皿をさらわれる。


「え、ど、どうなさったんですか!?」

「どうもなにも、運ぶだけだが」


 それが当然であるかのようにユアンは首を傾げた。ついでに皿も傾いて、盛りつけた卵やベーコンが落ちてしまわないか内心ひやりとする。


「洗い物が終わったらおいで。それとも俺が洗おうか」

「私の仕事です!」

「それじゃあ、待っているよ」


 配膳だけでなく洗い物までユアンにやらせるわけにはいかない。


 ルチカは食事が冷めないよう急いで洗い物にとりかかった。


「こほっ」

「大丈夫ですか!?」


 食事中、黙々と食べていたユアンが咳き込んだ。


 テーブルに身を乗り出して水を注いだコップを渡せば、ユアンは震える手で受け取った。


「ふう」

「体調が優れませんか?」


 テーブルを迂回してユアンのもとに行こうとしたが、片手で制される。


「急いで嚥下してしまっただけだから、心配いらない」


 毅然と振舞うユアンだが、その手にはコップが握られたままだ。


「大丈夫だから」

「辛くなったら言ってくださいね」


 ルチカは大人しく座り直す。何事もなかったかのように食事を再開するユアンを気にしながら、フォークを握った。


 予備の薬はどこにあったか。体が冷えないようブランケットを用意するべきか。それともいっそのこと大事をとって寝ていてもらったほうがいいだろうか。


 心配や不安に満たされながら口へ運んだベーコンは、あまり味がしなかった。


「食糧庫の整理でもしようかな? でも、仕分けたのに時間が戻ったら……いや、しなかったらしなかったで時間が戻れば同じこと?」


 家事を一通り終え、ルチカは首をひねる。


 一夜超えたことにより、明日への希望が強くなった。


 それと一向に減らない食糧庫の素材たちが腐る前に、お世話になっている街の人たちに持っていきたい。


 ――ちょっとあやふやだけど、私が街に買い出しに行ったこともなかったことになってるよね?


 買ったはずなのになんら補充されていなかったことを思い出し、ルチカは気が重くなる。


「ルチカ、ちょうどいいところに」

「なにかありましたか?」

「来客だ。急で悪いが、応接室にお茶の用意を頼む。茶菓子もあれば、できれば」

「来客なんて珍しいですね! すぐに用意します」


 今朝より回復したのか、ユアンの顔色は悪くなくて安心した。


「たしかこのあたりに」


 お湯を沸かしている間に、キッチンの戸棚を覗く。


 この家に来客がくることはほとんどなく、たまにホロンワーズの街の人が訪ねてくるくらいだ。だから茶菓子があるか自信がない。


 ――不覚!


 幸いクッキーは見つかったのだが、これはルチカの怠慢だ。


 しかし、市販の菓子が少ないのにはちゃんとした理由がある。ユアンが甘いものを好まないのだ。


 たまにルチカが作るものは食べるが、それ以外は必然性がなければ口をつけていないとルチカは認識している。


 ――理由があっても、言い訳にはならない。


 客人をもてなすのもルチカの役目で、業務の一つだ。今回は首の皮一枚つながったが、もしこのあと来客が続くようなことがあれば、いともたやすく皮は破れてしまうだろう。


 ――出番がなくても、私が食べればいいんだから。


 そう思うと買いだめておくことにも前向きになれた。


「失礼します」


 応接室はどこか重苦しい空気が張りつめており、ルチカの身を緊張感が包み込んだ。自然とトレイを持つ手に力が入り、背筋が伸びる。


「まあ、紅茶のいい香り」


 その空気を破ったのは、金色の髪を持つお客さまである。女性だ。この場の雰囲気に似つかわしくない柔らかな声はするりと耳に入った。


「おいしそうなクッキーまで」


 女性は振り返ることなく、机の上に置いた紅茶やクッキーに釘づけだ。その間にユアンの前にも同様のものを用意する。


「ありがとう。往復させるようで悪いが、花瓶の用意をしてくれるか?」

「はい。わかり、ました」


 一瞬、言葉がつかえた。ルチカは思わず息を止める。


「早速活けてくださるなんて嬉しいですわ」

「花に罪はないからな」


 机の端に置かれていた花束がユアンから手渡される。


 ――どうして?


 頬が固くなったのが自分でもわかって、ルチカは表情を御する。


 ――どうしてよりによって……シレネを持ってきたの? ただの偶然? それともこの家にシレネが飾ってあることを知っているような人?


 花束を受け取って踵を返したとき、女性と目が合った。レモン色の目は不気味なほどじっとこちらを見つめていた。


「なにか、ご用命がありますか?」


 素知らぬ顔をして部屋を出ればいいのに、ルチカは足を止めてしまった。急速に唇が渇き、舌で潤わすこともできずその場に立ち尽くす。


「――」


 女性は前触れもなくにこりと微笑んだ。ルチカの口が引きつったように僅かに痙攣した。


「ルチカ。早く行きなさい」


 聞き覚えのある声、見覚えのある美しい金髪。その後ろ姿で気づくべきであった。


 ユアンの命令に背中を押されるように、「失礼しました、失礼します」と口走りながら、今度こそ応接室を出る。


「せっかくユアンさまに贈った花だったのに、私の前で女性に渡すだなんてあんまりだと思っただけよ。仕事の邪魔をしてしまったかしら? でもあなたも女性なら私の気持ちを理解してくれるわよね?」


 話しかけるには小さく、独り言にしては大きな声量だった。


 廊下を歩く足取りはだんだんと速くなり、気づけばルチカは走っていた。シレネの花束は胸にぎゅっと抱きしめて、ぱきりと何度か茎の折れる音が聞こえても力を抜くことなどできなかった。


「落ち着いて、落ち着くのよ、ルチカ」


 花瓶に水を注ぎながら、時系列やら頭の中やらを整理する。


 ――いや、落ち着けるわけがない。


 近場に置いたシレネに目をやり、震えが頭の先から足の先へと抜けていった。


 ――キーラさまは、シレネを、坊ちゃんに、買ってきた。


 あの日、出会ったことはなかったことになったはずなのに、ルチカがシレネを買ったこともなかったことになったはずなのに。


 ユアンのお気に入りだからと花瓶に活け続けるルチカでさえ、飾るには華がないとすら思っているのに。


 ――わざわざ、用意してきた。


 こんな偶然あるだろうか。


 もしかして、と疑念が浮かんだ瞬間、ぞくりと背筋に冷たいものが走り、ルチカはぶんぶんと首を振った。


「とりあえず今は、坊ちゃんたちの元へ戻らないと」


 溢れる水をばしゃりと捨て、適量を入れ直す。


 シレネを花瓶にさして、ルチカは少しの不安と違和感を抱えながら応接室へと戻った。

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