つまらない

「以上が、私からの提案です」


 扉に耳をそばだて、一区切りついたであろう沈黙に扉を開けたのだが失敗だったらしい。


 ――重要な場面だったのなら坊ちゃんも入室を待たせてよ!


 ノックしたらユアンの返事があったから入ったものの、応接室は相変わらず重たい空気に満ちていた。


 手元の紙を真顔で見下ろしているユアンを、キーラは自信に溢れた顔で見つめていた。


「リドリー令嬢」


 ルチカが花瓶を置こうとすると、ユアンは視線をそのままにさっと手だけで机の上を整理した。


 なんというスマートさなのだろう。


「いかがでしょうか? ユアンさまに一切の損はないかと。もちろん、私にとってもですけれど」


 キーラは堂々としている。前回とはまるで雰囲気が違っていた。


「果たして、そう言えるだろうか」


 ユアンはにこりと目を細めた。出るタイミングを失って壁のシミの一つになろうとしていたルチカは、またもやユアンの知らない表情を見ることとなった。


 ユアンは嘲笑ともいえるような冷ややかな笑みをその綺麗な顔にたたえていた。


「どういうことですの?」


 キーラの声に動揺が滲む。


「リドリーの領地はこの国の中でもかなり豊かな土地ですから、伯爵家の出であるユアンさまにもご不便をおかけいたしません。この寂れた田舎ではユアンさまもつまらないでしょう?」


 ルチカはむっとしてしまう。


 たしかにホロンワーズは活気に溢れているとは言えないが、決して活気がないわけではない。街の人たちは優しくて温かいし、内々で完結しているだけで商いは盛んなほうだ。


 断じて、つまらない街などではない。


 ――あっ。


 じっとキーラの後頭部を見つめていたせいか、ユアンの視線にしばらく気がつかなかった。


 ――顔に出てたかな?


 ルチカは口を引き結び、そっと目線を伏せた。


「私とユアンさまが手を取り合えば、我が領はさらなる発展を遂げられます。その功績を示せば、伯爵さまだってユアンさまのことを後継者に足る人物であると認めてくださるに違いありません」


 察するに、ユアンをリドリー家の領地に連れていくという話だろう。以前なら不安に感じていたと思うが、昨日に話していたおかげで余裕が大きい。


「残念だが令嬢、前提が間違っている」


 ユアンは憐れむように首を振った。


「俺と君が婚約? そんな話にはまったくもって魅力がない。どれほど自分を評価しているのか知らないが、君と婚約してホロンワーズを……この家を出ることが損でしかない。ああ、口に出すのもおぞましい」


 はっきりと拒絶したユアンにルチカの心臓がきゅっとした。当事者でないルチカでさえこんなにも心にダメージを負っているのに、それを正面からぶつけられたキーラが傷つかないはずがない。


 ――坊ちゃんに婚約を申し込むくらいだから。


「要はあれだろ? 婚約と銘打って愛だの政略だの美談に挿げ替えているようだが、俺や伯爵家の名前を使って令嬢の家門を押し上げたいだけだろう。あわよくば伯爵夫人になろうという気か? 君が?」


 ――追い打ちまで……!


 ルチカからすればキーラはユアンを連れていこうとする意地悪な人だが、こうも完膚なきまでにされるとさすがに同情してしまう。


「まだルチカのほうが夫人として立派につとめてくれるよ」


 ――どうして私を!? 巻き込まないでくださいよ!


 抗議の目を向けてもユアンはにこりと微笑むだけ。


 蝶よ花よと育てられた貴族令嬢とただのメイドを比べるなど、相手からしたら屈辱で、侮辱以外のなにものでもないだろう。


「ふざけないで!」


 声を上げてがたりと立ち上がったキーラにびくりと肩が震える。


「私があのメイドより劣っていると言いたいんですか!? 私はれっきとした貴族令嬢です! 使用人と比べるなど失礼ではありませんか!?」


 びしっと指をさされ、ルチカはいたたまれなくなる。


 ――悲しいけど、キーラさまの言う通りだ。


 無意識のうちに頷きかけたが、ユアンの圧に体が強張った。


「貴族令嬢と言っても男爵だろう?」

「貴族は貴族です! こんな仕打ちはあんまりです。伯爵家に――」

「抗議でもするのか? したいのならすればいい。どうせ取り合ってはもらえないだろう。むしろ俺と縁を切り、無関係だと主張するかもしれないな」


 顔を赤くするキーラに、「ああ」とユアンは言葉を続けた。


「それがいい。ぜひ抗議してくれ。リドリー令嬢の話に耳を傾けて、ようやく初めて有用な提案をしてくれたな」


 ルチカはきりきりと胃が痛んだ。タイミングなど考えず、さっさと部屋を出ればよかったと後悔する。


「ユアンさまはこの女に騙されているんです! 目を覚ましてください!」


 目を伏せていたルチカは、ぱしっと掴まれた手に息を呑む。現実逃避をするあまり、キーラの接近にまったく気づかなかった。


「どうしてユアンさまをこんな場所に閉じ込めるの!?」

「なにをおっしゃられているのか、私には理解できません……」

「誰に雇われているか知らないけれど、こんなこと許されないわ。もしかして、家族を人質に取られているの? それとも病気の家族がいるのかしら? お金がほしいのなら私が工面してあげるから、もうユアンさまに関わらないで!」


 矢継ぎ早にまくしたてられ、頭の中が真っ白になる。


「ユアンさまはお優しいから不憫な境遇であるあなたを傍に置いているようだけれど、本来ならあなたのような身分の低いものが傍にいること自体ふさわしく――きゃあっ!?」


 ルチカは目を見開く。


 キーラが頭から濡れていて、ぽたぽたと水滴が垂れていた。それだけでなく、ルチカが衝撃を受けた理由はほかにもあった。


 しかし、花瓶をひっくり返してキーラに水を浴びせたユアンに目を奪われる。


「なにを……っ」


 振り返ったキーラは口を噤む。


 腕を静かに下ろしたユアンが怒りに満ちた目でキーラを見下ろしていた。その目の色に一切の慈悲はなく、今まで取り繕っていた表情が嘘のようにひどく冷酷だった。


「これほど身をわきまえず、無礼な令嬢がいるとはな。リドリー男爵家では娘の教育もまともに行われていないのか?」


 穏やかな声色も氷のように冷たく、鋭い。


「彼女は俺が選び、俺が雇った人材だ。それを侮辱するということは俺を侮辱するのに等しい」

「そ、そんなつもりでは……!」

「そも、身分の話をするならば令嬢よりルチカの血筋のほうがはるかにいい」


 ルチカは目を丸くする。キーラそっちのけで口を挟んでしまった。


「坊ちゃん、ご存じだったんですか……? その、私が……」

「手元に置く人間の素性くらい調べる」


 ルチカとて半信半疑だった。母が勝手に言っているだけの可能性だってあった。けれど今、ユアンによってルチカがどこぞの貴族の私生児である証明がなされる。


 ――だからと言って、なにも変わらないけど。


 ユアンはそれを知っていてなお、傍に置いていてくれたのだから。


「わかっただろ? 令嬢。君の持論を活用するならこの場にもっともふさわしくないのは、君だよ」

「なんで、なんで……?」


 キーラは呆然とし、ぶつぶつとなにかを繰り返す。


「俺が君の提案を受け入れない理由は、俺の感情を抜きにしても山ほどある」

「こんなのおかしい。どうして全然、うまくいかないの……?」

「たとえば……君は父君に今回の話を通さず、ここだけで完結させようとしている」

「もう何度、同じことを繰り返した?」

「人生を賭けるという話なのに、君は保身だけはしっかりしている魂胆が気にくわない」

「ユアンが伯爵になるんじゃないの?」


 聞こえるか聞こえないかくらいの声で、ユアンが話している最中も心ここにあらずといった様子で唇を震わすキーラ。


 一点を見つめるキーラを不審に思い、さすがのユアンも眉を上げた。


「……令嬢?」


 どちらかというとキーラの言葉に耳を傾けていたルチカは漠然とした不安を覚えていた。


「また失敗なのね」


 キーラがゆらりとこちらへと顔を戻し、ルチカは頬を固くする。


「――もう、つまんない」

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