巻き戻った時間
「――あぇ?」
目の前には応接室の扉。ルチカの手からするりと花瓶が落ちて、がしゃんと派手な音を立てたところで我に返る。
「何事だ?」
中から血相を変えたユアンが飛び出してきて、ルチカは二、三歩下がるようにたじろいだ。
――あれ、なに、待って。どういうこと? あれ?
「意味が、わからない」
「それはこちらの台詞だ。ものを落とすなどらしくない。どうしたんだ?」
ルチカの口からもれた、心の底からの疑問もユアンには聞こえていたようだ。がしっと肩を掴まれ、顔を覗き込まれる。
「けがはないか?」
「は、い。大丈夫です」
ルチカは割れた花瓶を呆然と見つめる。
今まで応接室の中にいて、様子がおかしくなったキーラの話に耳を傾けていたはずだ。だというのにルチカはいつの間にか、机に置いたはずの花瓶を持って、部屋に入ってすらいない状態で立っていた。
――私、死んでないよね?
時間が巻き戻っていることは明白だ。しかし、ルチカには今しがた死んだ記憶がない。そもそも、あの状況でいったいどうやって死ぬというのだろうか。
「失礼しました。すぐに片づけます」
ルチカは踵を返し、掃除用具を取りに走った。
「なんで? 私が死んだら、戻るんじゃなかったの!?」
ばくばくと心臓が鳴っている。
「それに、あの悲鳴……っ」
全身に震えが走り、ぶわりと肌が粟立った。
――あのとき聞いた、侵入者の声と同じだった!
ランタンを投げたときに発せられた侵入者の悲鳴。そしてユアンに水をかけられたときのキーラの悲鳴。ルチカには同じにしか思えなかった。
――それじゃあ私はずっと……キーラさまに殺されてたってこと?
物置部屋に転がり込んで、体を抱きしめるように身を縮める。うまく息ができず、これまで殺されてきたであろう場面が思い起こされる。
もう何度、その手にかけられたかも覚えていない。
「今は、もう戻らなきゃ」
いつまでも割れた破片をそのままにしておくわけにもいかない。ルチカはほうきとちりとり、バケツを持って応接室へ向かう。
「花瓶を割ってしまったそうだけど……けががなさそうで安心ね」
「も、申し訳ありません。キーラさまが坊ちゃんのために用意した花をだめにしてしまい……」
向かいから歩いてきたキーラと鉢合わせ、ルチカは深く頭を下げた。謝罪を建前に顔を見ずに済むことがせめてもの救いだ。
「あら?」
くすりとキーラが笑みをこぼした。
「私、あなたに名乗ったことがあったかしら? ユアンさまは私のことを『リドリー令嬢』と呼ぶし……まあでも私も正直、やり直しすぎて記憶があいまいだわ」
ぎゅっと目を瞑っていたルチカは、顔の下に伸ばされた手に気づかなかった。ぐいっと顎を引かれ、無理やりに上を向かされる。
レモン色の目に驚きを隠せないルチカが映っていた。
「ああ、その表情。もしかして、とは思っていたけど……あなた、記憶があるのね?」
「え?」
「そういう設定なのかしら? どおりで……」
キーラの目がすうっと細められる。
「うまくいかないわけね」
顎を掴む手に力が込められて、ルチカは命の危機を覚える。
「なにを、おっしゃられて……」
「ああ、もういいのよ。もう、面倒になっちゃったの」
「はい……?」
「自由度が高いって評判だったけど……こんな難しいなんて思ってなかったし、ストレスを抱えながらハッピーエンドを迎えたって釈然としないだろうし」
キーラがなにを言っているのか、ルチカには本気で理解できない。それでも恐怖だけはたしかにあって、去っていくキーラにルチカはぶるぶると震えることしかできなかった。
「ルチカ!」
「坊ちゃん」
「なかなか戻ってこないから心配していたんだ。リドリー令嬢はもう帰ったよ」
「はい、先ほど……ご挨拶を」
「そうだったのか」
だから遅くなったのだろうとユアンは納得したようだった。
――キーラさまが侵入者だって、言ったほうがいい?
ルチカは同一人物だと思っているが、勘違いだという可能性も捨てきれない。万が一、ルチカが勝手に結びつけてしまっているだけなら、貴族の令嬢に濡れ衣を着せることになる。
そのせいでユアンに迷惑がかかったら、想像するだけで口にすることが憚られた。
「花瓶を片づけたら、俺は休む」
「片づけは私がしますので、坊ちゃんは今すぐお休みになられてください」
今朝、ユアンの体調が悪化していたことをすっかり忘れてしまっていた。
「ルチカが破片でけがしたらどうする」
「坊ちゃんが倒れたらどうするんですか? もし破片の上に倒れでもしたら……」
想像してしまい、顔を青くする。
「この顔がめちゃくちゃになっても、ルチカは俺の傍にいてくれるか?」
ユアンは自分の頬に手を添え、小首を傾げた。
「も、もちろんです! ですがけがをしないにこしたことはないですし、破片は本当に危ないんですから! 医者を呼ぶにも時間がかかるので、坊ちゃんはお部屋に戻ってください」
「倒れると決まったわけでもないのに?」
「体調不良を我慢しているんですよね?」
ユアンはふいっと目を逸らす。それでもルチカがじっと見つめると、観念したように頷いた。
「わかった、わかったから」
けがをしないようにと最後に釘を刺してから、ユアンへ自室へと戻っていった。
◇◇◇
ノックの音が頭に響き、ユアンは適当に返事をする。そうしたらルチカは物音を立てないようにそっと部屋へ入ってきた。
おいしそうな香りが瞬く間に充満し、お粥を作ってきてくれたのだとすぐにわかる。
健気なメイドの心配そうな顔を見て、もっと気にかけてほしいと欲が出た。
「うぅ……起きれそうにない」
大げさに弱ったふりをすると、ルチカは血相を変えて枕元に身を寄せた。
――情に流されやすく、単純だ。
こぼれそうになる笑みを抑え、ユアンはちらりとルチカを見る。
「ちょっと、失礼しますね」
「――」
冷たい手が額に重ねられ、ユアンは綻びかけていた口をきゅっと結んだ。
――ルチカが自ら、触れてくれた。
看病、熱を測るためとはいえ、これほど嬉しいことはない。
「熱はなさそうです」
「今から上がりそうだ」
「え!?」
「体がだるくてあまり動けそうにない。食べさせてくれるか?」
体調が急変したのは本当だ。客人を無碍にできず、無理をしたのがいけなかった。だが、こうしてルチカの献身を得られるのならあの辛い時間も難なく耐えられる。
「食べにくかったら言ってくださいね」
そうしてお粥を半分ほど減らした頃には、ルチカもすっかり慣れていた。嚥下すれば一呼吸おいて、次の一口が口元へ運ばれる。
緊張していたのは初めの数口だけで、あとはもう作業のように効率化を考えているようだった。
――少し寂しいが、事実は事実。
ルチカが手ずから食べさせてくれていることに変わりはない。
――この日常を守るためには、俺はどうするべきか。
真剣な顔つきのルチカが、すぐそこにいるはずなのにぼやける。
「ぼ、坊ちゃん!」
「な、ん……」
ふらりと意識が遠のいた。そのとき、顔に熱を持っていることに気づいて、本格的に体調を崩したことを悟る。
――ああ、本当に上がってしまった。
意識を失う寸前、支えるためとはいえルチカに抱きしめられた温もりが心地よくて、ユアンはすとんと深い眠りに落ちていた。
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