シレネが枯れない
「ぼ、坊ちゃん?」
「はあ……断る」
「え、え!?」
盛大なため息のあと、ユアンはさも当然のごとく命令を下した。
「物置部屋から板材と工具を持ってきてくれ。板材がなければ……適当な家具をばらして構わない。俺にそれらを渡したら朝食の準備を。できるな?」
「は、はい!」
物置部屋、客室、キッチンへと忙しなく移動したルチカ。朝食を作り終え、客室にいるであろうユアンを呼びにいこうと身を翻せば、食器棚に寄りかかるユアンと目が合った。
数秒の間、ルチカの体が硬直する。
食器棚に寄りかかるのは危ないのでは。呑気な心配が脳裏を過ったが、驚きから抜け出せないでいるルチカにユアンが先手を打った。
「調子は戻ったか?」
「あ……坊ちゃんが冷静でいてくれたので。坊ちゃんは窓を塞いでくれたんですよね?」
「あくまで応急処置だ。近いうちに然るべき場所へ修理を頼まなければならない」
「でしたら今日、行ってきます。買い物もしたかったので」
少しの間ののち、「いや、いい」とユアンは首を振った。
「しばらく様子を見る。ルチカも買い物は諦めて、あるものでなんとかしてくれ」
この日から、ルチカはより悪夢に苛まれることになった。
夢の中では、自分を殺してくる誰かはあの日の侵入者に成り代わり、あの手この手を使ってルチカの息を止めにきている。
時間帯は夜中ばかり、卑怯だと糾弾する余裕さえ与えてくれない。
「大丈夫か?」
静かな読書会。ユアンの計らいでルチカも本を読んでいるが、内容が難しすぎて理解ができない。
それでもユアンの優しさに触れていたくて、読んでいるふりをしていた。
「大丈夫じゃ……ないかもしれません」
ぽつりと本音がこぼれる。
ユアンは僅かに目を見張り、手にしていた本をぱたりと閉じてルチカの手から本を取り上げた。
「こんなに弱ってしまって」
ユアンがなぞるようにルチカの目元を親指で撫でた。頬に添えられた手が温かく、猫のようにすり寄ってしまいそうな衝動をぐっと抑える。
「業務に支障は出さないので安心してください」
「業務が滞ることを心配しているんじゃなくて、ルチカのことを心配しているんだよ。はっきりと伝えているはずだが、なかなか伝わらないものだな」
ため息をつくユアンはくしゃりと顔を歪めた。
「悪夢が、ひどいだけです。だから……」
「たった三日で目に見えるほど憔悴させる悪夢とは、医者に相談したほうがいいんじゃないか?」
「――、――……え?」
ユアンの言葉を咀嚼するのにかなりの時間がかかった。
――みっか、三日? 三日って言った?
「ぼ、坊ちゃん」
「なんだ?」
「私が寝坊したのは……いえ、侵入者が現れたのは、何日前ですか?」
ルチカは固唾を飲んで答えを待った。
「三日前だが」
どくんと心臓の脈が大きくなった。
「じょ、冗談ですよね?」
ルチカは言葉を失う。
「冗談などいっている場合じゃないだろ。本当にどうしたんだ?」
頬を撫でていたユアンの手が額に伸びる。熱が出て頭がおかしくなったとでも思われたのだろう。
――だって、もう……!
「二週間は、経っていますよね?」
ユアンの目が丸くなる。
「今すぐ医者を呼ぼう。大人しく部屋に戻ってベッドに――」
ユアンが正しいのか、自分が正しいのか。ルチカはそれすら判断できない。
ルチカの記憶が正しければ、脳が正常なら、もう二週間は経っている。悪夢の数からして少なくとも、十日は確実に超えている。
――あれ?
今、目にしている光景に心がざらついた。
ユアンは真剣に医者を呼ぶことを悩んでいる。違う、ユアンはなにもおかしくはない。ぼんやりと視界がぼやけ、やがて窓へと焦点が合う。
「ルチカ?」
訝しげにこちらを見やるユアンの横を通りすぎ、窓の前に立つ。
ルチカの見下ろす先には、花瓶。美しくも健気に咲くシレネが活けてある花瓶がある。
「どうして……」
「窓の外になにかあるのか?」
得体のしれない恐怖が全身を巡った。
いつの間にか隣に立っていたユアンは、ルチカの様子がおかしいことに気づいているが、なにに対して動揺しているかまではわかっていない。
――もう何日も、水も、花も、なにも変えていないのに。
「本当に、どうしたんだ……?」
ルチカは主人の疑問にも答えず、ふらりと踵を返し、そして走り出した。
ユアンの制止の声を振り切り、屋敷内を駆けずる。
「はあっ……はあ、はあっ! あっ」
足がもつれ、廊下で転ぶ。
そこにもある花瓶が無様にこけたルチカを見下ろしていた。
――シレネが、枯れてない。
ユアンの部屋のシレネも、食堂に飾ってあるシレネも、廊下を彩るシレネも、どれも枯れていない。
本来ならば数日でだめになってしまうのに。
「坊ちゃんが、正しい? 本当は三日しか経っていなくて、私がおかしくなっただけ? それなら、あの夢はなに? 私は、私はたしかに――」
日々積み重なっていた違和感が、パズルのピースのようにはまっていく。
――まさか、そんなわけない。
シレネを睨んでいたルチカの目が怪訝に揺れる。
――時間が、巻き戻ってるとでもいうの?
だから調味料がなくならない。使っていないことになるから。
だから過ごした時間に齟齬が出る。ルチカだけが夢を見ているから。
だからシレネが枯れない。だめになる前に時間が戻るから。
「ぅ……あぁ……っ」
ありえないことだと、なにを言っているのだと自分でも思う。しかし、笑えない。笑って、そんなわけないと流せない。
――私が殺されて死ぬから、時間が戻る……。
知らぬ間に悪魔と契約でもしまったのだろうか。ぼんやりとそんなふうに現実逃避して、ルチカははっとする。
――じゃあ、待って!?
自分は夢を見ているわけではなく、本当に殺されているのではないか。そう考えると腑に落ちた。いや、時間が巻き戻ることなどとうてい納得できるようなことではないのだが。
「あ、はは……はは」
ルチカは項垂れ、這いつくばった。口から漏れた渇いた笑い声は空気に馴染み、響くことなく消える。
「ルチカ」
背後からユアンの声が響いた。少しだけ上ずっていて、慌てて追いかけてきてくれたのだと勝手な解釈をしてしまう。
「その、大丈夫か……?」
「あ、だ、大丈夫です!」
ルチカは今、床に縮こまっている状態だ。急いで立ち上がるとユアンは少しだけほっとしたような表情を見せた。
――あ……本気で、心の底から、心配……してくれたんだ。
じーんと胸の奥が熱くなる。
「お前がいきなり部屋を飛び出したから」
弁明しようと口を開いた瞬間、ぽすんとユアンの頭が肩に乗せられた。ほどよい重みに背筋が伸びる。
「ぼ、坊ちゃん!?」
「はー……心臓に悪い」
「心臓が悪い!? 発作ですか!?」
「……少し黙っていてくれないか?」
ユアンがそのまま首を動かしたせいで、息がかかりそうなほど整った顔が迫り、ルチカは息を止めて見惚れてしまう。
不満たらたらでも綺麗な顔だ。
――じゃなくて! 坊ちゃん相手になにときめいてるの!
「それじゃあ、部屋に戻って休もうか」
「うぁ!?」
突然の浮遊感にルチカはユアンにしがみつく。抱きかかえられていることを理解している間に、ユアンはすたすたと歩き出していた。
「自分で歩けます!」
「使用人の健康は雇用主の責任でもある。これ以上、無理をさせるわけにはいかない」
抗議の目を向けてもユアンは喉の奥で笑うだけである。
ルチカは諦め、ユアンから視線を外す。
――本当に時間が巻き戻っているのか、たしかめないと。
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