先手必勝
その日の夜、ルチカはなかなか寝つけないでいた。珍しく寝坊し、命令に反して掃除をしたからか、ユアンは監視するようにルチカの行くあとをつき、手元を覗き込んできた。どことなく張りつめていた緊張は解けたはずなのに、むしろ興奮が冷めやらない。
「だめだ。水飲もう」
ルチカはベッドを抜け出し、ブランケットを羽織るようにして肩にかける。屋敷内は月明りも乏しく、頼れるものは片手のランタンだけだ。
――明日はちゃんと起きて、街へ行かないと。
足りなくなっているもの、買いたいものを一つずつ思い浮かべる。どうせ眠ってしまえば忘れてしまうのだが、静けさを紛らわせるのにはちょうどよかった。
「はーっ。……ん?」
水を飲み、コップをゆすいでいるときだった。
――なんか……坊ちゃんもキッチンに来たのかな?
微妙に食器の位置が変わっている気がした。
キッチンはルチカの領域だ。ユアンもたまに使うが、基本的にはルチカに一任されている。使用する前後に報告はくれるし、そのため些細な変化があればすぐにわかる。
「この台」
戸棚まで手が届かないルチカは踏み台を使用する。いつもは邪魔にならないよう隅に置いているのに、位置が少しずれていた。
くるりとキッチンを見回し、ルチカは天井近くを見上げる。
――小腹がすいた? そうだとしても、坊ちゃんに限ってそんなことある?
踏み台を使い、戸棚にしまわれているなにかを食べたのだろうか。普段ならお腹がすいたら正直に訴えかけてくる人が、勝手に。
――なにも、減ってない。考えすぎ?
戸棚を確認してもこれといった変化はない。ルチカが最後に見た光景のままである。
そもそも、今日の夕食はいつもより少し豪華に作った。寝坊したお詫びをしようと張り切りすぎ、ユアンに「今日は記念日だったか?」と素朴な面持ちで尋ねられたくらいだ。
だというのに、足りなかったことなんてあるだろうか。
――うん、気のせいということにしよう。寝坊した後ろめたさとか罪悪感とかが無駄に神経質にさせているんだ。うん。
踏み台を元の位置に戻しながら、ルチカは言い聞かせるように心の中で繰り返す。そうして最後にもう一杯だけ水を飲んでから、ルチカはキッチンをあとにした。
「――」
心に妙な引っかかりを覚えたことで、屋敷がいつもの屋敷ではないように感じる。いつもは気にならない物音も拾うようになり、五感が敏感になっていた。
――怖い話を聞いたあとの子どもじゃないのよ。
深呼吸をし、ランタンを掲げたときだった。
「っ」
ルチカは喉まで出かかった悲鳴を飲み込んだ。
見間違いでなければ誰かが廊下の奥に消えていった。ど、ど、と心臓が暴れ出し、ぶわりと汗が噴き出す。
――坊ちゃんじゃ、ない。だって、だって……っ。
白金の輝きがない、長い髪。直感的に女の髪だと思った。つまりは、侵入者にほかならない。
「はっ。あの先は……」
階段がある。二階にはユアンの部屋がある。侵入者の目的がなんであれ、近づかせるわけにはいかない。
ルチカは恐怖ですくむ足を叩いて奮い立たせた。
「……いた」
侵入者は目につくものを物色しているようで、歩みが遅い。そのおかげですぐに追いつくことができた。
「体格は、同じくらい……?」
暗くて輪郭ぐらいしか把握できないが、屈強な侵入者でないことにひとまず胸を撫でおろす。一か八かだが、ルチカは先回りすることにした。
あの先にある階段とは別の階段を駆け上がり、ユアンの部屋の前は静かに、それ以外は足早に。
ランタンを背中に隠し、そっと顔を覗かせる。
「――」
作戦は成功だ。ちょうど階段を上がろうとしているタイミングである。
「っ!」
「きゃあっ!?」
先手必勝。ということで、ルチカは力の限りにランタンを階下に向かって投げつけた。
当たらなくても、驚かせるだけでいい。そう思いながら投げたランタンはやはり当たることはなかったが、侵入者には効果てきめんだったらしい。
しっぽを巻いて逃げていく侵入者のあとをこっそり追いかけると、しばらく使われていない客室に消えていった。
――え!? まさか住み着いてるわけじゃないよね!?
扉に耳をそばだて、物音がしなくなってから扉を開ける。
扉の裏、ベッドの下、ワードローブの中。室内の隠れられそうな場所に侵入者の姿はなく、窓が割られていることに気づいたルチカはその場にへたり込む。
――窓を割って鍵を開けて、そこから出入りしたんだ。
呆然と、しばらく割られた窓を見つめる。本当は腰が抜けて立てなかった。
「どうしよう……」
こんな平和な街で犯罪なんて聞いたことがない。
いくらユアンが伯爵家で邪険にされていようと、始末させられそうになったことなどないのだ。
街の人たちは温かく、みな優しさで溢れている。
でも、けれど、しかし。こうして侵入者が現れてしまった。いったい誰が、なんの目的で。どれだけ考えを巡らせようとその答えが出ることはない。
「どうしたら、いいの?」
今すぐユアンに報告したいが、夜中に起こして体調を悪くさせたくない。
ルチカは窓をそのままに、とぼとぼと自室へと戻る。布団を被り、眠れぬ夜を過ごすこととなってしまった。
翌朝、いてもたってもいられず、いつもの時間よりも早くユアンを起こした。
まだ眠そうなユアンだったが、ルチカの強張った表情からなにかを読み取ったのだろう。すぐさま身を案じてくれ、ルチカはたまらず泣き出してしまった。
「泣くな、ルチカ。なにがあったのか話してごらん。また悪夢を見たのか?」
悪夢だったらどれほどよかっただろう。しかし、ユアンを起こす前に確認した窓が、昨夜の出来事は夢ではなく現実と物語っていた。
「話せるようになったら、話してくれ」
ユアンの声はひどく優しく、背中までさすってくれた。
その安心感にこくりと頷き、呼吸を整えようとするルチカだったが、なかなか涙は引っ込んでくれない。結局、五分ほど泣き続けてようやく落ち着いた。
「あ、の……さ、昨夜。し、知らない人が、屋敷の……中に、いて」
「――」
「一階の、客室の窓が、割られて……あ、なにも、なにもしてないです。急いで、塞がないと」
話しながら思い立ち、部屋を出ていこうとするルチカの腕がユアンに掴まれる。
「座れ」
「でも」
「座れ」
ルチカはなにも言えなくなり、すとんと椅子に座り直した。
「けがはないか?」
「は、はい。あ……ランタンを投げつけたので、それも片づけないと……」
「そんなことは今、どうでもいい。ランタンを投げつけたということは、侵入者の姿を見たのか?」
「暗くてよく見えなかったのですが、背格好は私と同じくらいで、女性だと思います」
ユアンは顎に手を添え、思案する。
「伯爵の手先ではなさそうだ」
「わ、わかるんですか?」
「その女性が凄腕の暗殺者なら話は別だが、俺を始末すると決めたのなら確実なものをよこすだろう。ルチカに撃退されるような軟弱ものではなく」
貶されている気がしなくもないが、ユアンの話には納得がいった。
暗殺が目的だったなら一直線にユアンの部屋に向かい、ついでにルチカも殺していっただろう。
「坊ちゃん」
「なんだ?」
「客室や廊下に割れたガラスが散乱しているので、気をつけてください。できれば私が片づけを終えるまで部屋を出ないでもらえると安心します」
「……」
ユアンはなにか言いたげに眉をひそめ、長い息を吐きながら項垂れた。
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