言葉にできない違和感
「入れ」
「紅茶をお持ちました」
二人の前にカップを置いて退散しようとしたところ、ユアンに引き止められる。
「お前も聞いているといい」
「わかりました」
入り口近くの壁に立つ。
――私は壁、私は壁。
そう心の中で唱えながら、ルチカはぼんやりと二人の会話に耳を傾けた。
「ね、お願いよ、ユアンさま。私の婚約者になってほしいの!」
「必要ない」
「た、たしかに伯爵家と男爵家では家格が釣り合わないかもしれないけれど、ユアンさまは伯爵にはならないのでしょう? だったら……」
「何度も言うが、家柄や立場の問題ではない。昔、街ですれ違ったことがあるらしいが、俺はまったく覚えていないんだ。そんな俺からしたら君とは初対面で、礼儀知らずの令嬢だってどれだけ繰り返せばわかるんだ」
冷静に紡がれる声はひどく冷たい。ルチカはこんな声を今まで聞いたことがなかった。
普段の穏やかなユアンとは違い、それこそ貴族らしい一面である。自分に向けられていないとはいえ、この恐ろしさを肌で感じたくはなかった。
「俺がどこでどのように、誰と生きるかは俺が決める。君が介入する余地なんてない」
愛らしいキーラの顔が歪む。唇をぎゅっと噛んで、目をうるうるとさせている。言葉を失うキーラを白い目で見たユアンは、ルチカに見送りをするよう命じた。
ふらりと力なく帰ろうとするキーラは気の毒だが、ルチカにできることはない。
――き、気まずい……。
とぼとぼと歩くキーラの後ろを歩くルチカには彼女の表情は見えない。メイドとして客人の送迎を任されたものの、キーラにとって自分は目障りな存在だろう。
「ここに使用人はあなただけなの?」
「はい、一人だけです」
晴れているというのに遠くから聞こえる雷の音に耳を澄ましていたルチカは、心臓がどきりと大きく波打ったのを感じた。
「この家は、埃っぽいのね」
「申し訳ありません」
この家は二人で住むには広すぎる。毎日掃除に明け暮れるルチカを見かね、ユアンの「よく使う場所だけ掃除すればいい」という言葉に甘え、ユアンの歩く範囲にしか手を伸ばしていない。
そのため屋敷全体を掃除するのは年に二、三度ほどで、使われない場所には埃がたまっていく一方なのである。
「それに薄暗くて、ユアンさまには似合わないわ? ユアンさまはもっと、明るい場所にいるべき人なのに」
「坊ちゃんが通る場所から離れた灯りは消しているので、お客さまにはご不便をおかけします」
訪問する旨を前もって知らせてくれていれば、廊下の灯りはすべてつけておいただろう。
「お見送りはここまでで大丈夫よ」
「……足元にお気をつけてお帰りください」
街へ帰っていくキーラの背中が見えなくなるまで、ルチカは頭を下げる。客人がどれだけ不遜で無礼でも、ルチカは礼儀を忘れてはならない。それに夢見る令嬢は甘い夢を砕かれたばかり。ルチカにできるせめてもの気遣いだ。
「――」
その光景を、窓からユアンが見下ろしていたことにルチカが気づくことはなかった。
◇◇◇
「ルチカ。起きろ」
強めに肩を揺さぶられ、ルチカははっと目覚める。
明るくなっている窓の外を見て、血の気が引く。
「二日連続で寝坊なんて……」
「なにを言っているんだ?」
「え?」
ユアンは呆れたように腕を組んだ。
「お前が寝坊したのは今日が初めてだろ? 倒れているんじゃないかと心配したんだぞ」
「あ、そ……そう、でしたっけ?」
「よほど疲れているらしい。今日はもうなにもするな。寝ていろ」
「そんな!」
「命令だ。お前は今日、一歩も部屋から出るんじゃない」
言い聞かせるような強い声音だが、その奥には優しさが隠しきれていなかった。
ぐいっと肩を押され、丁寧に布団までかけられる。
「かしこまりました……」
命令と言われてしまえば、ルチカは逆らうことができない。寝過ごしたことを悔やみながらぼうっと天井を眺める。
――なんだか、気持ち悪い。
体調の話ではない。なんとも言葉にできない違和感があった。その根源、正体について考えれば考えるほど気持ち悪さが増していく。
これでは本当に具合が悪くなってしまいそうだ。
「ルチカ、入るよ。食べられそうか?」
「体調を崩しているわけではないので、いただきます」
ユアンは粥を作ってきてくれた。じっと見られたままスプーンを口に運ぶのは気恥しいが、間もなくしてルチカは粥を平らげる。
「もう大丈夫です。ゆっくりできたおかげかよくなりました」
「強がるな」
「本当です。坊ちゃんが私のために作ってくださったこともあり、元気が溢れています」
二の腕に精一杯の力を込めてこぶを作ると、ユアンはふいと顔逸らした。
「元気になったのならよかった。だが、無理はするなよ」
部屋を出ていくユアンの耳が赤くなっていたのは気のせいだろうか。もしやユアンも体調が悪いのではないかと急いであとを追ったが、廊下にはすでに姿がなかった。
「えっと、買い出しには行ったんだっけ……?」
記憶があいまいというか、夢と混ざっているかもしれない。
ルチカは着替えてから顔を洗いに向かう。建てつけの悪くなった窓がカタカタと音を立て、それにつられて外を見やると木々が激しく揺れていた。
「今日は風が強いのね……あれ?」
ルチカはべたっと窓に張りつき、外を凝視する。
「昨日の夜、雨が降ってなかった? 気のせい?」
就寝時、雨風の音がしていたような気もするが、地面が濡れていないということは勘違いだったのだろう。
「うーん?」
キッチンへとやってきたルチカは腕を組み、大きく首を傾げる。
「やっぱり夢を見てたのかも」
買い物は済ませたばかり思い込んでいたが、どうやら夢の中でも仕事をしていたらしい。
新品のタレもなければつくねはもう残ってすらいない。風がこんなにも強くなければ明日にでも街へ行こうと考えながら、ルチカは今日の予定を組む。
「そうだ、シレネ」
ぱたぱたと小走りに廊下へ出る。花瓶に生けているシレネは、枯れていなかった。
「香油も残り少ないから、買うの忘れないようにしないと。それにしてもなんだか、今回のシレネは長持ちしてる」
花瓶に香油を垂らすと花の香りが広がり、自然と笑みがこぼれた。
「今日は掃除でもしようかな?」
ユアンの行動範囲だけでなく、できるだけ広範囲を。そうと決まればルチカは水を汲みに急いだ。
はたきと雑巾、バケツを持って大移動しながら、ルチカは一階の掃除を午前中に終わらせてしまった。
「ルチカ」
「あ、坊ちゃん……あ」
少し、張り切りすぎた。
昼の時間はとっくに過ぎていて、こうしてユアンの呆れた顔を見るのは本日二回目である。
「人目のつかない場所は掃除しなくていいと言ったのを忘れたのか? するとしても丁寧でなくていいとも」
「今日はなんだか、掃除をしなくてはいけないような気がして……ほら、バケツの水もこんなに真っ黒――」
ユアンの目が冷めていく。
――しまった。主人に見せるようなものじゃない。
「部屋から出るなと言ったのをもう忘れたのか? それとも、俺に仕えるのに嫌気がさしたか?」
「そんなこと!」
想像していたよりも大きな声が出て、ルチカは自分でびっくりしてしまう。
「坊ちゃんに嫌気がさすなんて、ありえません」
暇を出されたらどうしよう。そんなことが真っ先に思い浮かんだ自分がいやになる。こんなときでも我が身可愛さに保身を考えてしまうなんて。
ふるふると小さく体を震わすルチカとは裏腹に、頭上に降ってきた声は優しいものだった。
「はあ、まったく。あまり心配させるんじゃない」
「お、怒らないんですか」
「怒ってほしいのか?」
口をへの字に曲げるユアン。ルチカは目を瞬かせ、首を横に大きく振った。
「あ、坊ちゃん! 待ってくださいっ」
「掃除はもう終わりだ」
ユアンは有無を言わさずバケツを片づけてしまった。
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