予定未定の婚約者
――もし本当に、坊ちゃんがホロンワーズを去ってしまったらどうしよう?
意識を逸らそうとしても、気づけば身の上を考えてしまっていた。
ユアンが伯爵家に行くことになった場合、自分はおそらく連れていってはもらえないだろう。
メイドとしてそれなりの屋敷に勤めるには推薦状は欠かせない。仮にユアンが書いてくれたとしても、それを伯爵家が受け取るとは限らないのだ。
たとえ貴族の血が流れていようと、ルチカは身分を証明できない。
――私生児ならなおさら、ないも同然。
長い時間を過ごしたユアンと離れ離れになるのは寂しいが、メイドとして培った技術があれば職には困らないだろう。そうであってほしい。
「はー……」
ルチカは深くため息をついた。
まだユアンと別れることが決まったわけでもないのに、悲観的になりすぎてしまった。
「いらっしゃいませー!」
最後の目的、花屋に入ると大きな声に迎えられた。
「こんにちは」
「ルチカちゃん! いつものやつ? いつものやつでいいよね?」
たしか今年で十二歳になる女の子は、耳の上で二つに結んだ髪を元気に揺らしている。
「こら、ミーシャ。お客さんにそんな詰め寄らないで」
「はぁーい」
「ごめんなさいね、ルチカちゃん」
奥から出てきた母親に優しく叱られ、ミーシャはぷくっと頬を膨らませて口を尖らせた。
「この子ったらルチカちゃんに会えるのが嬉しいみたいで」
母親の言葉にこくこくと頷くミーシャの目はどこまでも純真だ。
――天使、可愛すぎる。
叶うならこのまま素直にすくすくと育ってほしい。
「シレネで大丈夫だったかしら?」
「はい。それでお願いします」
ミーシャの話を聞きながら待っていると、母親がシレネの花を持ってくる。花瓶にさしやすいよう茎から葉は除かれ、花束になっていた。
紫色の丸い花びらが特徴で、けれどこれといって珍しい品種でもない。素朴で親しみやすい花というのがルチカの印象だ。
「もう帰っちゃうの? 次はいつ来る?」
「坊ちゃんが待っていますから。次は……また二週間後ですかね」
なにもなければ、と付け加えると、ミーシャは「えー!」と目じりを下げた。
「ルチカちゃんを困らせないの」
「ありがとうございました」
後ろ髪を引かれる思いで花屋を出る。これで今日の目的は達成だ。
すぐには帰らず、ルチカは道端に設置されたベンチに腰かけた。どさりと荷物を下ろし、一息つく。
手首には袋の持ち手が食い込んだあとがついていた。
「ちょっと、肌寒いな」
びゅうびゅうと吹く風に頬を叩かれ、早く帰ろうと思ったときだった。
「ごきげんよう」
やけに場違いな挨拶が鼓膜を打った。
「ご、ごきげん、よう?」
しどろもどろになってしまった。けれど間違いだったわけではないらしく、声をかけてきた女の子はにこりと微笑んだ。
――こんな子、いたっけ?
荷物を持ち直してから、改めて女の子を瞳に映す。
緩くカールした明るい金色の髪にレモン色の目。ドレスに近い服装からして、貴族の令嬢だとわかった。同年代だろう。
――親のビジネスについてきたとか?
でなければ、こんな辺境の街に訪れる令嬢など考えられない。
「森の中にお屋敷があるわよね?」
「え? あ、はい。ありますね」
「やっぱり、そうよね! ね、そこに男の子が住んでいないかしら?」
胸の前で両の手を組む女の子の目はどこか爛々としている。
――あっ。
精肉店のおじさんが言っていた人は、目の前にいる人ではなかろうか。そう思うといろいろ腑に落ちた。
「どうしてそのようなことを聞くんですか?」
「会いにきたの!」
「あ、会いに」
熱量が衰えず、ルチカは後ずさる。
「だって、私とユアンさまは婚約者なのよ! まだ予定だけれど!」
女の子は頬に手を当て、黄色い声を上げた。
「失礼ですが……お名前を伺ってもよろしいですか?」
「はっ、そうだった。名乗り忘れていたわ。改めまして、私はキーラ・リドリーよ。あなたは?」
「ルチカと申します」
「そう、ルチカ! よろしくね! まだお話していたいところだけれど、私は彼に会いにいかなくちゃ。また会いましょうね!」
くるりと身を翻し、屋敷へと続く道の方向へ軽やかな足取りで向かうキーラ。必然的にルチカは彼女のあとをついていく形となってしまった。
「どうしてついてくるの?」
しばらくして振り返ったキーラはレモン色の目をぱちくりとさせる。
「帰り道ですので」
「でも、こっちにはユアンさまの家しかないでしょう?」
「はい、そうですね」
時間が止まる。
「も、もしかして……ユアンさまと一緒に住んでいるのかしら!?」
キーラの甲高い声に、森の入り口の木で羽を休めていた鳥立ちが一斉に飛び立った。
「メイドですから」
キーラは口の中で「メイド……」と反芻した。
「そう、あなたが……あなただったのね」
「――?」
一瞬、キーラの雰囲気ががらりと変わった気がしたが、瞬きののちには美しい微笑みがたたえられていた。
「じゃあ、一緒に行きましょ! 荷物も持ってあげるわ!」
「いえ、結構です」
真っ先にシレネを持っていこうとしたあたり、下心が丸見えである。
「まあ、素敵なお屋敷! お庭は……」
開けた場所に佇む屋敷にキーラは目を輝かせたが、手入れの行き届いていない庭にあ然とした。
心の中で「私もお花を植えたいですが、雑草ばかりですみませんね」と言い訳をしながら玄関の扉を開ける。
「ルチカ。帰ったのか?」
「ただいま戻りました、坊ちゃん」
階段から下りてくるユアンに頭を下げる。
「ユアンさま!」
頭上で甲高い声が響いた。
「……誰?」
困惑するユアンに、漠然と感じていた懐疑心が復活する。
「ユアンさまにお会いしたくて――」
「答えてくれ、ルチカ。彼女は誰だ?」
遮られたキーラは息が詰まったようにすっと押し黙った。
「街で出会いました。坊ちゃんの婚約者だと、伺いました」
無言で細められた翡翠の目に背筋が凍る。
「見知らぬ人間の言葉を信じ、ここまで一緒に来たのか」
「申し訳ありません。坊ちゃんに確認するべきでした」
「念のため言っておくが、俺に婚約者はいない。君はなにが目的でここに来た」
「キーラとお呼びください」
歓迎されていないことが明らかであるにも拘わらず、キーラは美しいカーテシーを披露する。
「姓は?」
「リドリーです」
「リドリー……」
記憶を辿るユアンと目が合い、逸らすわけにもいかず、ルチカは見つめ合う形となった。
「とりあえず、応接室で話を聞こう。ルチカは荷物を置いて、お茶の用意を。リドリー令嬢は俺についてきてくれ」
ルチカはひとまずキッチンで荷物を整理し、急いで湯を沸かした。来客用と称し、たまの贅沢にユアンと飲むかなりいい紅茶を準備する。
ティーポットと二人分のカップをトレイに乗せ、応接室へと向かう。
「……あれ?」
ふいに、ルチカは足を止めた。
「そろそろだめになりそうだったと思うんだけど、このシレネはまだ綺麗ね」
シレネの香りは弱く、風景の一部と化していれば香ることはない。だからルチカは、シレネを飾る花瓶に花の香油を垂らしている。
外に出られないユアンのため、ユアンの好きな花であるシレネを感じてほしいから。実際、シレネは数日で萎れ、すぐに枯れる。
可哀そうなことをしている自覚はあるが、ユアンに喜んでもらいたいと思う自分のためにやめられない。
「あとでほかの花瓶も見てみなくちゃ」
応接室の扉をノックすると、中からもれていたキーラの声がぴたりと止んだ。
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