ホロンワーズの街

 屋敷から緩やかに蛇行する道を抜ければ、少しばかり閑散とした街がある。豊かではないが貧しくもない街の名前はホロンワーズ。


 ほかの街とはかなり距離があり、汽車に乗っても一日と半日ほどかかる。そのせいで人の出入りが少なく、街に住んでいる人間たちのほとんどは顔見知りだ。


「――」


 商店街への道すがら、遠くから汽笛が響いてきた。停車するのか発車するのかまではわからないが、心の奥がざらりとするような苦い記憶が蘇る。


 ルチカがホロンワーズの街にやってきたのは、母と死別した十歳の頃だ。別の街から汽車に乗って終着点までやってきた。


 ――墓場まで持っていかなければならない、私の罪。無賃乗車。


 決して、わざとではない。切符がなければ汽車に乗れないことも、買わずに乗車したら罪になることも、知らなかったのだ。


 だから、法律を知り、給金をもらうようになってから、ホロンワーズの駅にあの日の乗車賃を窓口にこっそり置いてきたことがある。できる限りの、色をつけて。


「久しぶりだね、ルチカ」

「お久しぶりです。お元気そうでなによりです」


 ルチカが最初にやってきたのは雑貨屋だ。


 レジのあるカウンターの向こうでロッキングチェアに揺られる老齢のおばあさんは店主である。


「あたしももう、足腰がね。そろそろ息子に代替わりする日も近いかもねえ」


 前回、街に来たのは二週間ほど前のことだ。


 それまでおばあさんは手伝いをしている息子夫婦にああでもないこうでもないと、客の前でもお構いなしに口酸っぱく指導をしていた。挙句の果てには「こんな軟弱ものに店は任せられない」と嘆いてもいたことを覚えている。


 だというのに、この二週間で心の変化があったのか。息子夫婦に対する評価はすっかり軟化しているようだった。


「今日も香油かい?」

「はい。花の香油はありますか? あと、石鹸とタオルと殺虫剤と……」

「ああ、ああ。一度にそんな言われたって、わかりゃしないよ。香油と石鹸はあっちの棚、タオルはそこに、殺虫剤は入り口にあるけどね」


 わからないと言いつつも、おばあさんは遮られるまでルチカが口にしたものの場所を教えてくれた。


 店先に置かれた麻で編まれたかごを手に取り、必要な商品を丁寧に入れていく。


「坊ちゃんは元気にやってるかい」

「おかげさまで、以前と比べたらかなり健康的に過ごしています」

「あたしらはなにもしてないよ。そうかい、元気ってんならそれは、ルチカのおかげだろうさ」


 昔を懐かしむようなしみじみとした声音だった。


「ルチカに出会う前の坊ちゃんは見てられなかったからね。貴族の倅だってのに目は据わってたし、付き人がひどいのなんの」


 ルチカがおつかいにくると、街の人たちはたまにこうして昔の話をしてくれる。ユアンに真正面から尋ねることが憚られるルチカにとって貴重で新鮮な情報源だ。


「どんな方だったんですか?」


 ユアンに内緒で話を聞くことには罪悪感を覚えるが、気になるものは仕方がない。


「そりゃあもう横柄でね。まあ、一人、また一人と逃げ出していく姿は滑稽で面白かったがね」


 以前、ユアンに仕えていた使用人たちは一人残らず追い出されてしまったそうだ。勤務態度だけでなく、横領なんかもあったとか。


 どうして使用人がいないのか。興味本位でそう尋ねたルチカに教えてくれたユアンの寂しげな顔は、今も忘れられないでいる。


「坊ちゃんに聞きゃあ、どこぞの伯爵家の嫡男だって話じゃないか。体が弱いから養生してるって話だったが、跡取りがこんな場所にいるわけないからね。いやでもわかるよ。本当に……可哀そうな子だよ」


 感傷的に言うおばあさんに、商品を入れたかごを持っていく。


 ――たしか坊ちゃんは三歳でここに移住して、それから八歳の頃に使用人を追い出したんだっけ。


 ユアンはルチカの一つ年上。だからルチカと出会うまでの三年間は一人で生活していた。生きるには食料だけでは足りず、日用品は街に出るしかない。


 風邪にかかっただけで一週間も寝込むような病弱さで、よく死ななかったものだ。


「ルチカ。これからも坊ちゃんをよろしく頼むよ」

「お任せください。坊ちゃんがいなくなったら私はいよいよ、働き口を失って生きていけなくなってしまいますから」

「ルチカの器量なら、こんな街でも引く手数多だと思うがね」


 退店間際、おばあさんの言葉に嬉しさを感じながらルチカは次へと向かった。


 今日はいつもより風が強めで、冷たい。身震いするほどではないが、先ほどユアンの話をしたからか、ユアンは家から出られそうにないと無意味なことを考えてしまった。


「おーい、おーい! ルチカちゃん!」

「はい?」


 名前を呼ぶ声に振り返ると、精肉店のおじさんがちょいちょいと手招きしていた。その満面の笑みの顔の横には、湯気の立つコロッケが掲げられている。


「さっき、ルチカちゃんが街に出てきたって話を聞いて、揚げておいたよ。食ってくだろ?」


 まだお昼の時間ではない。朝食も食べたばかりだが、ごくりとよだれが出た。


 相変わらず、噂の回る速度が尋常ではない。けれどそんなことも気にならないほど、ルチカの脳内はコロッケの魅力に支配されていた。


「いただきます」


 ごろりとしたじゃがいも、そしてその熱さに翻弄されながらごくりと胃へ落とす。ほう、と息をつけば、おじさんは快活に笑った。


「ルチカちゃんはいっつもおいしそうに食べてくれて、作りがいがあるよ」

「実際、おいしいので」

「なはは。もう一つ食うか?」


 いただきます、と甘えたいところだが、なんだかユアンに悪い気がした。


「坊ちゃんにお持ち帰りはできますか?」

「もちろんだ。いくつほしい?」


 一つ、と言いかけて、コロッケと一緒に飲み込む。


「二つお願いします。あ、それと……つくねといつものタレもいただけますか」

「あいよ。ちょっと待ってな」


 ここのつくねは柔らかく、スープにすると食べやすい。タレはフルーティーな甘味が食欲をそそり、いろんな料理に使えるのでルチカは重宝している。


「そうだ、ルチカちゃん」

「なんでしょうか」

「ちょっと」


 会計を済ませ、次へ向かおうとしたときだった。おじさんは周りをきょろきょろとし、声量を抑えた。


 人に聞かれたくない話をされようとしている。ルチカは身構え、聞き取りやすいように耳を傾けた。


「さっきな、街の外の人間だと思うんだが……若い女性に坊ちゃんについて聞かれたんだ」

「坊ちゃんのことを?」


 ユアンの話となれば他人事ではない。ルチカは肉の並んだケースに寄りかかるくらい身を乗り出した。


「いや、正確にはホロンワーズの街の外れに、森の奥にお屋敷があるとか、そこには貴族の子息が住んでいるとか……事実を確認するかのような口ぶりでな」

「坊ちゃんの関係者でしょうか?」

「身なりはよかったが、そこまではわからない。でも、使用人って感じでもなかったと思うぞ」


 もしや、と一つの可能性が浮かぶ。


 ――坊ちゃんを迎えにきた?


 もう少しで成人を迎えるから本家に呼び戻すということもありえるのだろうか。いくら体が弱いとはいえ伯爵家の令息ならば、家と家との結びつきを強めるための政略結婚に利用されてもおかしくはない。


 邪推が頭の中を巡り、もやっとしてしまう。


「教えてくださってありがとうございます。坊ちゃんに共有させていただきます」

「そうしてくれ。あ、もちろん俺は教えてないからな? ほかにも聞きまわってるなら、みんなも知らぬ存ぜぬを通してくれるだろうよ」


 ぺこりと頭を下げ、精肉店をあとにした。

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