シレネが枯れない
綾呑
寝坊した
「ルチカ、起きるんだ」
「うー……ん」
「ルチカ。起きろ」
強めに肩を揺さぶられ、ルチカはゆっくり、そして薄っすらと目を開けた。
さらりとした白金色の髪を持つ青年が不安げな表情でこちらを覗き込んでいて、その整った容姿にしばし見惚れてしまう。
「あれ……?」
「目が覚めたか?」
「ぼ……坊ちゃん!?」
ルチカははっとし、ふわふわのベッドから飛び起きた。
そして、いつもは薄暗いはずの窓の外がすっかり明るくなっていることに気づき、全力で体を折り曲げた。ベッドの上でどうかとは思うが、迅速さを優先しての土下座である。
さあ、と全身から血の気が引いていき、今度はだらだらと汗が出た。
「も、申し訳ございませんっ」
紛うことなく、寝坊した。
「怒っていないから顔を上げるんだ。ノックはしたんだが、反応がなかったから。倒れているんじゃないかと思って入ってしまった」
そう申し訳なさそうな顔をする坊ちゃんの名前は、ユアン・ラドクリフ。八年前、まだ十歳だったルチカを拾ってくれた命の恩人であり、使用人とは思えないほど豊かな生活をさせてくれる雇用主でもある。
「ほら、最近よくあくびをしているだろ? 朝が早すぎて寝不足なら、もっと眠ったっていい。ここには僕とお前の二人しかいないんだから、咎めるものはいない」
ルチカは息を詰めた。
ユアンは病弱ゆえ、あまり自室から出てくることはない。一日に一、二度ほど、彼は彼の部屋で過ごすだけで生活が完結している。
それなのに、どれだけ噛み殺してもあくびが止まらないことを知られているとは。
「ね、寝不足では、ないんです」
おずおずと姿勢を正し、促されるままにベッドに腰かけると、ユアンは疑り深い翡翠の目でじっと見つめてきた。
「では、なぜ? 体調が優れないのか?」
自身の体が弱いためか、ユアンは昔からルチカの体調不良に敏感だ。ルチカが体調を崩せば、その日は主従関係が入れ替わる。
ユアンはキッチンに立って消化のよいものを作り、かいがいしく世話をしてくれた。そうしてルチカから病原菌を移されて寝込むのだから、本末転倒なのだが。
「いいえ」
ルチカはふるふると首を振る。
一瞬、正直に話すことを悩む。しかし、あまりに真剣な眼差しを受け、ルチカは観念して口を割った。
「ここ数日、毎晩……夢を見ているんです」
「悪夢か?」
「あまり詳しく覚えてはいないんですが、この家に侵入してきた何者かに殺される夢を見るんです。悪夢、ですね」
何度も、何度も、殺され方も豊富でさすがに滅入る。現実ではないと理解していても気持ちのいいものではない。
「それは夢見が悪いな」
「朝はいつもの時間に起きているので、寝不足ということはありません。ないと、思います。ただ……妙に現実味を帯びているせいで、疲れが取れないんです」
「現実味?」
「おっしゃっていたではありませんか。坊ちゃんのことを邪険に思うものは少なくないと以前――」
そこまで言ってしまい、もう遅いとわかりつつも口を結ぶ。
「失言をしました」
「いや、本当のことだ」
「まだ寝惚けているようです。申し訳ありません」
座ったままではあるが、深く頭を下げる。
「気にすることではない。さて、そろそろ朝食の準備を」
下げた視界からユアンの足先が消える。部屋を出ていく音を聞いてから、ルチカは頭を上げた。
「急がないと」
寝巻きから普段着へと着替える。
この家でのルチカの立場はメイドということになっている。だが、ユアンから制服を与えられることはなかった。
だから街へ出かけるような普段着を、ルチカは着用している。
「俺は部屋へ戻るから、できたら呼びに来てくれ」
部屋を出た瞬間、なぜか壁に背を預けて立っていたユアンに声をかけられ、ルチカは口から飛び出しかけた心臓をすんでのところで飲み込む。
「ま、待っていてくれたんですか?」
「着替え中に声をかけるわけにはいかないからな。焦ってボタンをかけ間違えられたら……困る」
「お気遣いいただき、ありがとうございます。今日はお部屋で召し上がらないんですか?」
「ああ。今日は食堂で食べようと思う。お前の分も用意するといい」
ユアンと別れ、ルチカは足早にキッチンへ向かう。まだ太陽は顔を出したばかりだが、仕込みにかける時間は少ない。
食パンを切り分け、トースターで焼いているうちに具材を用意する。ベーコンを三枚焼いて、目玉焼きを二つ作った。
黄身にはしっかりと火を通さねば、ユアンがお腹を壊してしまうかもしれない。片方の卵は半熟になるようフライパンから上げ、残りはよく焼いた。
「お前の分も用意するように伝えたはずだが」
食堂にやってきたユアンはテーブルの上に用意されたトーストを見つめ、一目見ればわかるのにわざとらしくテーブルの上に視線を滑らせた。
「私の分はキッチンにあります」
ユアンが食べ終えるのを見届け、片づけてから自分の朝食に手をつけるつもりだった。毎日、それが当たり前だったのだが。
「持ってこい」
「はい、すぐに」
少し低い声に背中を押され、ルチカは足早にトーストを取りにいく。
「適当に座っていい」
「で、ですが……」
主人と使用人が同じテーブルについていいものなのか。迷いが出て、隅っこに座ろうとしたときだった。
「こほん」
自発的な咳払いが耳に届いた。
「だ、だめでしたか?」
つまらなそうなユアンに見据えられ、無言の圧を感じる。恐る恐る一つずつ席をずれていき、ユアンの前まで来るとようやく視線が外された。
「失礼、します」
「ああ」
ユアンは素知らぬ顔をして、トーストにナイフを入れていた。
――適当にって言ったのに!
心の中で悪態をつくも、ルチカは緊張していた。
拾われたばかりの頃はこうして同じテーブルで食事をしていたが、メイドとしての素養を身につけていく中でそれは次第に減っていき、いつからかなくなった。
「ルチカ」
「なんでしょうか」
フォークを置いて、姿勢を正す。
「どうして、お前のトーストにはベーコンが足りないんだ?」
「はい?」
ルチカは目を丸くする。
耳を疑ったが、ユアンにふざけている様子はない。
「俺のトーストには二枚、だがお前のトーストには一枚しかない。数を間違えたわけでもないだろ?」
食材は毎月、とある場所からこの屋敷に届けられる。
二人で消費できる量ではなく、たまに森を抜けた先にある街の、お世話になっている人たちにお裾分けをするくらいだ。
しかし、ルチカは「自分なんかが」と後ろめたさを感じ、お腹いっぱいになるまで食べることはない。
今まではユアンの知る由はなかったのだが、今日、寝坊したせいで知られてしまった。
――悪いことをしたわけじゃないけど。
むしろ最低限の消費で済ませているという見方もできるが、ユアンはまるで悪いことをした子どもを咎めるような顔をしている。
「いつもそうなのか? 供給は十分されているはずだが」
席を立ち、食糧庫を覗きにいこうとするユアンを止める。
「しょ、小食なんです」
咄嗟の言い訳に口がへの字に曲げられた。
「あれだけ毎日動いて、足りているのか? 悪夢を見るのも、お前の体が怒っているのかもしれない」
食事を抜いたわけでもないのに、それだけで殺される夢を見続けるなんてあってたまるか。口からこぼれた小さな謝罪に、ユアンは息を吐いた。
「あ、あの……?」
ユアンは無言でベーコンの半分に切ると、それをルチカの皿の上に置いた。
「口はつけていない。それからこれからは、遠慮せずに食べていい」
「坊ちゃん」
「使用人をいじめているだとか、妙な噂を立てられたらどうするんだ」
ここには二人しかいない。誰も立ち入ることはない。だからここから生まれる情報が外に漏れることはない。それはわかりきっていることで、けれどそれがユアンなりの優しさなのだと理解でき、胸の奥に込み上げるものがあった。
「もう冷めかけているが、早く食べてしまおう」
食事を終えたら、ルチカは一人で街へ出かけた。
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