静かな読書会
ルチカは開け放たれた引き出しを呆然と見つめる。
「ない……なにも、ない」
昨夜、時間が巻き戻っていることをたしかめるために、仕掛けをしていた。仕掛けといっても大がかりなものではなく、ほんのささやかな小細工である。
「今日も夢を見た。たしか……そう、追われて、逃げて、たぶん、殴られた?」
一つ一つ、順番に思い出していく。
「でもなんだか目が覚める前は、すごく安心したような……?」
ルチカは就寝前、適当な紙に正の字の一角目を書いておいた。だが、その紙ごと跡形もなく消えていて、心を痛めながらむしったシレネの花弁もない。
花瓶を確認したら、シレネは元気な姿のまま活けてあった。
「時間が巻き戻っているのでなければ、つじつまが合わない」
そうなると今度は次なる疑問が浮上する。
「坊ちゃんも時間が戻っていることに気づいてる……?」
ルチカはキッチンに向かいながら考える。
――いや、坊ちゃんが三日だと認識してるなら、記憶がないまま巻き戻っている可能性が高い。
「俺がなんだって?」
「坊ちゃん!」
「そんなに驚くことか?」
ユアンは訝しげに眉を上げる。
「起こしにいこうと、思っていたところでしたので……」
「そうか。お前のことが気がかりで早く目が覚めるようになってしまったようだ」
「え!?」
目を丸くするルチカにユアンは小さく笑う。
「今日は顔色がいいな」
するりと伸びた手に頬を撫でられる。
「悪夢を見なかったのか?」
離れていく手を名残惜しく思いながら、ルチカはふるふると首を振る。
「今日も殺されました」
「それにしては怯えも恐怖もないな。まさか慣れてしまったわけではないだろうな」
ユアンは心が壊れたのではないかと心配しているようだ。
「さすがに夢の中でも殺されることには慣れませんが……私にも考えがあるので坊ちゃんも安心して任せてください!」
つい熱がこもり、声が大きくなってしまった。
「空回らないといいが」
「うっ」
「少しでも元気になったのなら、今はそれでいい。必要なら俺を頼るように」
それから「朝食が準備できたら呼んでくれ」と言葉を残し、ユアンはシレネを一瞥して廊下の向こうへと消えていった。
二人揃ってと朝食を食べたあと、ルチカはユアンに誘われて書斎へと来ていた。今日も読書会を開いてくれるらしい。
――『も』というか、坊ちゃんにとっては初めてなんだろうけど。
「読みたい本があれば好きに触れていい」
「ありがとうございます」
とはいえ、この家にある本はどれも難しすぎる。知らない言語の本まで混ざっており、童話なんて優しいものはない。
――坊ちゃんがここへ送られたのは、まだ幼いときだったのに。
なんて気が利かない人たちだろうか。ルチカは密かに憤慨するが、とっくの昔に追い出された人たちのことを考えても仕方ない。
「読みたい本はあったか?」
早々に本を手に取って腰を据えたユアンが、なかなか本棚の前から動かないルチカの様子を見にきたようだ。
「私には難しすぎて……」
「ふむ」
ユアンは本棚とルチカを交互に見やる。
「文字は読めるのにか?」
「文字が読めても理解できるかどうかは話が違います。音階を知っていても楽器を弾けるわけでも、レシピを知っていても料理をおいしく作れるとも限らないじゃないですか」
たとえ話を出してもユアンはピンと来ていないようだった。
かつての使用人がいた頃は、伯爵家の一員として教育を受けていたという話だ。貴族としての素養はもちろん、ユアンは幅広い才能を持っていた。
「坊ちゃん、一つ……聞いてもいいですか?」
「一つだけだよ」
からかうようにユアンはくすりと笑う。
「それで? なにを聞きたい?」
「もし……伯爵家の人が迎えにきたら坊ちゃんはどうしますか?」
言った。言ってしまった。
これでもし「もちろんついていくよ」なんて返されたときにはもう、泣いてしまうかもしれない。
間が長く、軽い気持ちで尋ねてしまった後悔が押し寄せる。
――お願いだからなにか早く言って! なんでもいいから! いや、やっぱりなんでもよくない!
ルチカの念が届いたのか、ユアンは目元を優しく緩めた。
「ルチカと離れる道を選ぶわけがないだろ? 追い返すよ」
「ぼ、坊ちゃん……!」
「ルチカは一生、俺と過ごすだろ? 酸いも甘いも、苦楽もすべて、俺と」
「はい! 誠心誠意、坊ちゃんに――」
感激するあまり、返事をしながら違和感を覚える。
――すいも、あまいも。くらくもすべて。ぼっちゃんと。
雇用主と使用人のかたい契約関係の話ではなく、その言い方ではまるで。
「ルチカ? 続きは?」
頬杖をついて上目でこちらを見つめるユアンに、じわじわと顔が熱くなるのを感じた。
「誠心誠意、坊ちゃんに、仕えます」
片言になりながら絞り出した言葉とともに、魂までついていってしまいそうだった。
「ああ、そうしてくれ。今はまだそれでいい」
ユアンはあっけらかんと視線を本へと戻した。
――いちいち、なんか……!
思わせぶりというか意味深というか、ユアンの言い回しはどうも胸の奥がうずく。
「それじゃあ、次は俺の番だな」
「はい?」
ルチカは目を瞬かせる。ユアンは視線を落としたまま質問を投げかけた。
「ルチカはどうするんだ?」
「な、なにがでしょうか」
「伯爵家の人間が俺を迎えにきたら」
「そ……れは」
言葉に詰まる。
もちろん行ってほしくなどない。けれど一介の使用人であるルチカになにができるだろうか。
「私には、なにもできません」
連れていかないでと叫ぶかもしれない。けれどルチカが止めたところで虫を払うようなものだろう。
「でも」
「でも?」
「坊ちゃんにはここにいてほしいです」
ユアンはゆっくりと瞬き、破願した。
「ふふっ」
「ど、どうして笑うんですか! 身のほど知らずだってことは自分でもわかってますから!」
「ああ、いや。嬉しくて」
ユアンの笑顔が琥珀色の目にいやに眩しく映る。
だめなやつだ、これは。ルチカは自身の内側から響く、ど、ど、という音に翻弄された。
――最近の坊ちゃんはなんだか、おかしい。
まるで昔に戻ったようで。近かった距離を離したはずなのに、また、近づきつつある。
食事をともにすることが最たる例だ。本来なら使用人が主人と食卓を囲むことなどあるはずがない。
役立たずの烙印を押され、追い出されることを回避するために必死で使用人のまねごとをした。ユアンもそれに順応し、一線を引いてくれたはずなのに。
どうしてこんなにも切なくなるのだろうか。
「ルチカが俺と一緒にいたいと思ってくれたことが、なにより嬉しいんだ。生き残ることを渇望されたことなどないからな」
なんの感慨もなく言ってのけたユアンにルチカは言葉を失い、頬を固くした。
◇◇◇
「なぜ泣く」
ユアンは困惑した。
一瞬、体を強張らせたかと思えば、ルチカはぼろぼろと涙をこぼしている。ただ、少しだけ困らせて、からかってやろうと思っただけなのに。
「だって、だって……っ」
駄々をこねるようにルチカは弱々しい声を出す。
特段、心をすり減らすような事実でもない。死ぬことを望まれこそしなかったが、生きることを願われているわけでもなかった。
物心がついたときから孤独が当たり前であったユアンにとって、関心のないものたちなどどうでもいいことである。
――だけどお前は、悲しんでくれるのか。
自分の立場を憂い、悲しむような感情はとっくに失っている。
――しくったな。
はじめは裏切ることのないよう自分で育て、手足にするつもりであった。この体では一人で生きることは難しかったから。あの頃はちょうどよく、拾いものだとしか思っていなかった。
けれどどうだ。一生懸命に生きようとするルチカをいつの間にか目で追うようになり、すっかりほだされてしまったではないか。
ユアンは涙を止めようとしているルチカの頭に手を伸ばした。こうして驚く顔も、それから恥ずかしそうにする顔も、今ではルチカのなにもかもが愛おしい。
――使用人にするべきでは、なかったな。
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