シレネが枯れた
翌日、キーラ・リドリーは予想通り伯爵家によって処理された。今後のこともどうにかしてくれるだろう。
「朝のうちに済ませてしまうとは」
伯爵から送られた直筆の手紙にはお叱りの言葉で占められていたが、けれど親子の縁を切るつもりはないことも読み取れた。
「ルチカの元に行かないと」
ルチカにも風邪がうつったらしい。ユアンもまだ熱っぽく、二人そろって体調は最悪だ。
さすがにということで後始末のためによこされた伯爵家の人間に雑務を頼んでいるが、ルチカの世話だけは任せられない。
「目が覚めていたんだな。気分はどうだ?」
ルチカはベッドに寝たまま、ぼんやりと天井を見つめていた。
「とても、気持ち悪いです」
「ああ、俺もだ」
「でしたら、お休みになってください」
「そういうわけにはいかない。お前に大事な話があるからな」
きょとんとするルチカは起き上がろうとする。肩で息をしていて、顔も赤い。
――朦朧としているなら、ちょうどいい。
横になっているように指示し、ユアンはベッドに腰を下ろした。
「話ってなんですか?」
「クビだ」
「……、……え!?」
目をむいたルチカは激しく咳き込んでしまった。
「や、やっぱり私を身代わりに……っ」
呼吸を落ち着けたルチカはベッドの上で正座し、涙目でユアンを見つめた。
「違う」
ユアンが手を差し出すと、ルチカは戸惑いながらも手を重ねた。するりと指を絡めれば、びくりと肩を震わせる。
「雇用主と使用人とでは、こうすることも難しいだろ?」
「ぼ、坊ちゃん!」
手のこうにキスをすると、ルチカの顔は湯気が出そうなほどに赤くなった。
琥珀の目が大きく揺れたかと思えば、ふらりとルチカが倒れる。ベッドだからと特に支えなかったが、ユアンは少しだけ後悔した。
「ルチカ、ルチカ?」
返事を聞く前に、ルチカは意識を失っていた。額に手を当てるととても熱く、どうやら限界を超えたらしかった。
◇◇◇
「ルチカ」
「ぼ、坊ちゃん」
呼び止められたルチカは足を止めるが、じりじりと後退する。けれどその僅かな距離はすぐに埋められた。
「いつ辞める?」
「そんなこと言わないでください!」
一度はクビを宣告されてからちょうど一週間。ユアンは毎度のごとく仕事はいつ辞めるか尋ねてくるようになった。
そこだけ聞けばとんでもない雇用主だが、その根底にあるものを知っているから気恥しい。
「雇用主と使用人とでは、結ばれることができないだろ?」
ふわりとした微笑にルチカはなすすべもなくときめいてしまう。
「坊ちゃんにはもっとふさわしい方がいます。子どもの頃から一緒なので、その、錯覚ではないかと……」
口をへの字に曲げるユアンにルチカの語尾が小さくなっていく。
「リドリー令嬢と同じことを言うのだな」
「――」
「俺の罪を白日の下にさらさなかった時点で、お前も同罪だ」
「あっ!?」
ぐいっと手を引かれ、腰に手を回される。
「お前は共犯者で、俺たちは運命共同体だろ?」
「それは、そうです」
囁かれる耳がくすぐったい。
「平穏に暮らしたいのなら、俺と一生ここで暮らすしかない。違うか?」
離れて暮らしていようとユアンが伯爵家の庇護下にあることには変わりない。そしてその安寧を、ルチカもまた享受している。
この秘密を持って逃げだすようなことがあれば、ルチカなどいともたやすく消されてしまうだろう。
「坊ちゃんの言う通りです」
とはいえ、ルチカはまんざらでもない。
――坊ちゃんとずっと一緒にいられる免罪符を得たようなものだもの。
だが、それに応えられるほどルチカはまだ成熟していない。恋だの愛だの、生きるのに必死だったルチカは考える余裕もなく、つい最近、ようやく芽生え始めたかもしれないのに。
満足そうに頷くユアンは、懲りず繰り返した。
「そしたら、今すぐクビにしよう」
「だからどうしてそうなるんですか!?」
「幼いお前は自信の価値を証明しなければ追い出されると思っていて、俺は使用人になることでその不安が払拭されるならと戯れてやっただけだ」
ユアンが薄っすらと微笑む。
「今はもうその必要もないだろ?」
一瞬、頬に柔らかい感触が伝わる。
「坊ちゃん!」
ルチカは腕の力が緩んだ隙に、ぐいっと肩を押した。残念そうに眉を下げたユアンはわざとらしく肩をすくめる。
「それで、いつ辞める?」
「まだ終わってないので、洗濯をしてきます!」
「――殺人もいとわないほど、お前を愛しているのに」
その場から逃げ出すルチカには、ユアンの楽しげな笑い声は届かなかった。
「坊ちゃんってあんな積極的な人だったっけ? ……あれ。なんだか、思い出せない。悪夢を見ていると認識する前の日々が、よく」
ホロンワーズに辿りついて、ユアンに拾われて、そんなできごとは明確に記憶がある。けれど使用人として漠然と過ごしてきた日々が、もやがかかったように、否、ぽっかりと抜け落ちたように思い出せなかった。
「悪夢が、キーラさまを渦巻くことが鮮烈だったから?」
まるで、そこから本を読み始めたかのように。
「まあ、もういっか」
ルチカはゆるりと首を振る。
もう悪夢を、キーラに殺されていないのだから。
「あ」
ころころと変わっていたルチカの表情が、笑顔に固定される。
「シレネが、枯れてる!」
いつもなら寂しく、悲しいことなのに、これほど嬉しいことはない。
色褪せる花びらをつつくと、はらりと落ちる。
「やっと、戻ってきたのね。もう二度とあんなことが起こりませんように」
これからもユアンと二人、平穏無事の日常を。
シレネが枯れない 綾呑 @hatter_
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