砂糖水の悲しみ、というもの存在を感じています。
例えば、出かけたいのにどうしてもカギが見つからなかったり、
デートに遅れたせいで彼女を泣かせてしまった後の港の遊園地だったり、
ケーキ屋のケーキを自分のために手に入れてひとしきり貪り食ったり、
私はそういうもののことを「砂糖水の悲しみ」と呼んでいます。
この作品には、誰も加害しない、誰も巻き込まない、誰も犠牲者にしない、
苦しみや闇を欲するためにキャラクターのアイデンティティ以上に
キャラクターの境遇を穢さないし、ストーリーの本筋にかかわりのない
残虐なことはしない。悪の側から見た勧善懲悪とでも言いましょうか・・・。
欲する 与えたい 罪と罰を 最低限適切に与える力。
こういったことはなかなかできることではありません。
私は理不尽な人の恐怖の顔を見たいし、困惑が絶望に変わるさまも大好きです。
「なんで、なんで、なんで、私が!!?!?」快感です。
しかし・・・作者様はこれだけ文字数を重ねてもそういう踏み外しはなさらなかった・・・。
負けた。完敗です。優しい闇はまだまだあなたには敵わないと思いました。
そんな優しい作品だったからこそ、アネモネの鉄格子も
デュランの下の床に流れる赤い液体も、
すべて「砂糖水の悲しみ」に見えた…
いや、「甘い蜜の泉」かもしれません。
シアハニー・ランデヴ。
シアハニー・ランデヴ。
シアハニー・ランデヴ。
私にキャラクターの死の看取り方を教えてくれて、ありがとう。
抑えきれない愛情、抑えきれない憎しみ、そしてその果ての狂気。
衝撃的すぎる展開に圧倒され、息をのみ、涙してしまいました。
まるで深夜の映画館で何時間も食い入って観たような
その余韻に浸って丸一日物想いに耽ってしまえそうな
そんな読後感を味わえました。
愛と憎しみは、紙一重であるように思います。
愛するからこそ、人は苦しみ、憎み、
手に入らない幸せを妬み、復讐する…
そこには本当はたくさんの愛が溢れていたのに
どれも手に掴むことはできない…
そのボタンの掛け違えが、1つでも違っていたら…
…そう思わずにはいられません。
デュランの生きてきた地獄のように長く、短い人生に
胸が締め付けられます…。
なにが悪で、なにが善なのか。
なにが正しくて、なにが間違いなのか。
そんなことを考えてしまいました。
デュランの母が歌う子守歌が、映像のように脳裏に焼き付いております。
感動の物語を読ませていただき、ありがとうございました。
章が始まる区切りの度に入る、作者からの警告文。
この作品には残酷な描写があります。不快な描写があります。拷問の描写があります。等等……この作者は作品読んで欲しくないのかと思う程……しかし、一番の問題は心が持っていかれる所にあります。余りにも激しい心理描写のために、心が揺さぶられて冷静に読んでなんていられないのですよ!確かに残酷だったり不快だったりする描写はあるかもしれません。ですが、そんな事で読むのをやめずにどうか最後まで読んでください。一番最後まで読み終わった時に、この作品の本当の価値が判ると思います。