剣と筆_12

 藍色に輝く月は太陽の力を受けて一心に輝く。その光は森を照らし、小屋の中に淡い光をもたらしていた。


 これは夢だ。ベッドに横たわるルークスは真っ先にそう思った。なぜなら、折れて粉々になったはずの剣を手に持っているからだ。別の剣ということはないだろう。刀身の傷ひとつひとつは身に覚えがあるし、なによりも手に良く馴染む。

 この剣はルークスが自らの命を絶とうとしたとき、それを拒否するかのように折れたはず。修理した記憶も、新しいものを取り寄せた記憶もない。ゆえに、剣ではなく、この景色そのものが夢幻なのだろう。ルークスはそう判断した。


 しかし、今見ているものが夢だと看破したところで、夢をコントロールすることはできない。夢は夢であるがゆえに、見ている本人の意思とは関係なく、身体は勝手にうつろいでいくのだ。


 ルークスは滑るようにベッドから身を起こすと、そのまま立ち上がり抜き足差し足。近くでうつ伏せで寝ているウィリデとの距離を縮める。そして、両手で剣を握ると、突き立てるようにウィリデのうなじに添えた。小さく寝息をたてるウィリデはこれから何がおこなわれるのか気づかない。


 浅く深呼吸をして、狙いを定めるルークス。そんな彼の視界の端に、月明かりに照らされる部屋に似つかわしくない黄金色の稲穂が垂れた。


 それは麦畑だった。一様に植えられた稲穂が頭を垂れ、太陽の光にさらされて輝く絵。夜中にも関わらず、その存在感は見たくなくても、嫌でも目についた。


 ルークスが麦畑の絵から目をそらそうとするのは、それを見るとなぜか責められているように感じるからだ。誰から何を責められているのかはわからない。ひょっとしたら、責められていないのかもしれない。しかし、それでも腹の底に溜まる不快感は確かだった。


 眉を潜めながらも不快感を乗り越え、ルークスは覚悟を決めた。魔族を殺すことは亡き両親のため、魔族に殺された多くの人々のため、これは正しいこと、正義のおこないなのだ、と自分に言い聞かせる。


「逃げないんだな」


 何かを確認するようにルークスはそう呟く。そして、剣に力を込めた。


 刃はぬるりと灰色の魔族の毛皮を裂き、その先にある肉をかき分けた。芯のある柔らかさがルークスの手に伝わる。


 一瞬、灰色の魔族の身体が強く震える。肉と刃の隙間から真っ赤な血液が吹き出し、ルークスの身体だけでなく、部屋全体を濡らした。


 荒い呼吸音が部屋中に響き、徐々にその間隔は速くなっていく。同時に、ルークスの心臓も不規則に拍動を強くする。


 ふと、視線を下にある魔族から部屋の端に移すルークス。麦畑の絵が魔族の返り血で濡れていた。その稲穂からは朝露ではなく、涙のように赤黒い血が滴っていた。


 何かが壊れる音がした。いや、最初から壊れていたのかもしれない。


「ああ、そうか」


 壊れたものが何か気付いたルークス。だが、手遅れだった。それは壊れてしまえば、もう二度と直すことのできないものだった。


 ため息と共にルークスは胸の中に支えた空気を吐き出す。そして、そのまま両目を閉じた。



 小さな悲鳴でルークスは目を覚ました。聞き間違いでなければ、それは自身の喉から出た声だ。

 額に張り付く髪をかき上げると、手がぐっしょりと濡れた。最近は気温が上がってきたとはいえ、汗をかいている原因はそれだけではなかった。


「おーい、大丈夫かい?」


 悲鳴が気になったのか、キッチンにいたウィリデが心配げな表情を浮かべながら居室に顔を出す。


「……大丈夫だ、暑くて夢見が悪かっただけだ」

「ふーん、そうかい? まあ、いいや。もうすぐ朝ご飯ができるから待っててねえ」


 ウィリデがキッチンに戻るのを見送ると、ルークスは深呼吸をした。清涼な空気を肺に取り込み火照った頭をリセットする。


 どうしてあんな夢を見たのか、ルークスはわからなかった。


 夢の中と違い、あの日ウィリデのうなじに剣を突き立てようとしたとき、麦畑の絵が大きな音を立てて傾いた。おそらく、絵を壁に留めていた金具が劣化して破損したのだろう。

 その音を聞いて、麦畑の絵をもう一度目にして、ルークスは剣に力を込めるのを止めたのだ。この絵の前で血が流れるのは麦畑の価値を損なわせるようで、それをしてしまえば何か大切なものを失ってしまうと感じて、できなかった。覚悟が揺らいでしまった。


 そうして、ルークスはウィリデを手に掛けることなく、小屋を後にして今に至る。夢の内容は夢で、現実には起こらなかったのだ。


「ふう」


 ため息をつくルークス。朝食までまだ少し時間がある。


「少し進めるか……」


 そういうと、ルークスは居室の中央で佇むイーゼルに近づいた。その周りにはたくさんの絵があった。

 カップとカトラリー、薬研と鍋、イーゼルの上には描き途中のモノクロのカミンの実。それらはルークスが描いた練習作だった。採取地から返ったルークスは絵が描けるようになったのだ。それ以来、ルークスはウィリデに渡す絵のモチーフが閃くまで筆を慣らしている。


 ルークスは筆とパレットを手に取ると、キャンバスの前に立つ。そして、モノクロのカミンの実に筆を向けると、鮮やかな橙色を載せ始めた。


 やがてしばらくすると、絵を進めるルークスの元にウィリデが朝食の知らせを届けた。




 本日の朝食はいつもと変わらないものだった。干し肉と果実の盛り合わせ、それにウィリデ手製の薬草が入った謎のスープ。トレーダーとの取引の後ならここに黒色の固いパンが並ぶこともあるが、今日はなかった。


 ウィリデ手製のスープをルークスは口に含む。良くいえばシンプルで素材の風味を活かした味だった。ウィリデが作る料理はとにかく飾り気がない。都市で食べていた料理の味をルークスは少し恋しく思った。


「そういえば……」


 干し肉を手でちぎりながら、ルークスは唐突に口を開いた。その唐突な言葉にウィリデは頭の上に疑問符を浮かべる。


「お前は絵を描かないのか? 人の芸術が……絵が好きなら、自分で描こうと思ったことは一度くらいあるだろう?」

「……えーっと……それは……」


 それは前々からルークスが気になっていたことだ。ウィリデが芸術を愛していることは最早疑ってなどいなかったが、時折その態度がどこか遠慮がちなのだ。特に、絵を描くという話題のときのウィリデはよそよそしい。


 思いの外狼狽えるウィリデに不興を買ってしまったかとルークスは考えた。すぐさま質問を取り消そうとしたが、その前に答えは返ってきた。


「ボクは……描かないよ」


 ウィリデの答えは歯切れが悪かった。


 やはり質問すべきではなかったとルークスは少し後悔した。一人と一体の間に微妙な沈黙が流れる。


「……」

「……」


 それを破ったのはウィリデだった。


「……下手なんだよ……絵を描くのが」

「え?」

「そりゃあ、ボクだって最初は自分で絵を描こうとしたよ……でもね、描いている内に何だか違うなって思っちゃったんだ。色はてんでバラバラだし、キミが今描いているやつみたいに綺麗な線は引けなかった。そこでボクは悟ったね、自分は絵を描くのには向いていない、下手で才能がないって。だから、誰かに、キミに絵を描いてもらおうと思ったんだ」


 矢継ぎ早に言葉をまくしたてるウィリデにルークスは目を丸くした。


 だが、ルークスはウィリデの物いいに納得いかなかった。違うのだ。絵とはそもそも上手い下手ではない。それに下手かどうかも少し始めただけではわからない。ウィリデはまだ入口の前に立ったばかり、いや入口を目の当たりにしただけだ。そこで止まってしまうのは、もったいない。


「……わかった。お前のいいたいことは、よく」


 だから、ルークスはウィリデに教える必要があった。伝える必要があった。


「朝食が終わったら、着いてきてくれ」



 朝食の後、片付けを終えてダイニングから離れた一体と一人は居室にいた。

 目の前のイーゼルの上には描きかけのカミンの実があるが、ルークスはそれを下ろした。そして、金属製のコテを取り出すと、キャンバスに打ち付けられた釘を抜いて、描きかけのカミンの実をフレームから剥がしていく。


「ええ? まだ描き途中でしょ? どうしちゃったの?」


 ルークスに疑問をぶつけるウィリデだったが、いいんだと目で制止させられる。そして、ルークスはそのまま新しい布を用意すると、キャンバスのフレームに貼っていく。


「……俺だって、最初は下手だった。まっすぐな線なんて引けなかったし、上手く色も作れなかった。父上以外にも絵を教えてくれる人はいたけど、いつも怒られていたよ。このままだと立派な貴族になれないって」


 キャンバスを作りながらルークスは言葉を続ける。


「だから、努力した。何年も、何年も。そうしてやっと綺麗な絵を描けるようになった。周りの人も才能があるといってくれるようになった。そこでやっと、俺は絵を描くことの楽しさに気がついたんだ」


 ルークスは無地のキャンバスを完成させると、イーゼルの上に置いた。次に、いくつか窪みのある木の板を取り出すと、窪みに向かって橙色の粉を入れた。顔料だ。そして、顔料に亜麻仁油を注ぎ、ダマにならないようヘラを使って丁寧に練り始めた。


「まあ、要はだな。最初は誰だって上手くできない。それは当たり前のことなんだ。自分が向いているか、才能があるかどうかもそれなりにやってみないと、人並みに努力してからじゃないとわからないんだ。だから、早々に諦めてしまうのは……何というか……もったいない」

「……ルークス」


 やがて、一人と一体の前に瑞々しい橙色の塗料が生まれた。その色を見て、ルークスは自分に何をさせようとしているのか、ウィリデは理解した。ここまで親身に諭されて、お膳立てされてしまったのだ。ウィリデは断ることなんてできなかった。


「わかった! わかったよ、ルークス! ボク、もう一度描いてみるよ!」


 ウィリデはルークスから筆を受け取ると、キャンバスの前に立った。そして、おずおずと筆に塗料を纏わせると、無地のキャンバスに橙色を落とした。点は曲線を描き、やがて円を形作る。


 恐れはあった。自分が失敗してしまう懸念と、ルークスの前で無様な姿を晒してしまう不安だ。


 しかし、ウィリデの恐怖とは裏腹に、筆はスムーズに無地のキャンバスを進む。


(あれ……? 何だか……)


 ウィリデは昔絵を描いたときとは違う感触を覚えた。最初に絵を描いてから長く時間が経ち自分が成長したのか、それとも当時よりも鮮やかな塗料を使っているからなのか、あるいはルークスに見守ってもらいながら描いているからなのか、理由は定かではなかったが。


(前に描いたときより……楽しい……!)


 ウィリデの筆さばきにリズムがついていく。橙色の円だったものは歪な形をしながらも生き生きとしたカミンの実になっていく。まるでそれは、書き手の感情を表しているようだった。




 そんなウィリデの様子を見て、ルークスはなぜか懐かしさを覚えた。やがて、その懐かしさの正体に気がつく。似ているのだ状況が。昔、ルークスが父親から絵の手ほどきを受けているときと。


(ああ……父上もこんな気持ちで俺のことを見ていたのかな……)


 そこでルークスは理解した。先程の夢の中で壊れて、現実では寸前のところで壊れなかったものの正体を。


 それは繋がりであった。


 父親であるパテルと、母親であるマーサとの繋がり。二人が亡き後、ルークスはその繋がりが無くなることを恐れて魔族への復讐を誓ったのだ。復讐に心を委ねている間なら、怒りに身を任せている間ならば、亡き両親を風化させないで済むと思ったのだ。


 しかし、結果として復讐はルークスと両親との繋がりを保ち続けることはできなかった。身を薪にして炎を燃え上がらせる復讐では、やがて繋がりは灰の中に消えてしまう定めだったのだ。


 ルークスは復讐ではなく、それ以外のことから両親との繋がりを実感すべきだったのだ。敬愛する父に教えられたことが今でも息づいていることを自覚できればよかったのだ。


 ルークスはそのことに、今やっと気がついた。


(もっと早く気がついていれば、俺は魔族も、叔父上も手にかけることは無かったのだろうか……?)


 後悔はある。いくらでもある。


 しかし、たらもればも考えても仕方のないことである。後悔は後悔として受け止め、歩みを進めなければならないのだ。少なくとも後悔の重さに負けて、歩みを止めてしまうことは違う。


「どうだい、ルークス? 良く描けていると思うかい?」

「どれどれ……中々良く描けてるじゃないか。採取地で食べたカミンの酸っぱさを思い出すよ」

「ええ? あまーいカミンの実を想像して描いたんだけどなあ」

「そうだな……もう少し暗くて濃い色を陰影に使ってみると良いかもしれない。程よく熟れているように見える」

「なるほど! こんな感じかい?」

「ああ、ああ、そうだ」


 やがて、一人と一体の前に美味しそうなカミンの実ができあがった。


 その絵は、素人目から見れば確かに下手だった。カミンの実を形作る輪郭は右往左往しているうえ、特徴的な橙色はやたらカラフルで的を射た色をしていない。

 しかし、逆を返せば右往左往している線は新たな道を探しているように見えるし、カラフルな橙色はどんな色がカミンの実にふさわしいか吟味しているようにも見える。描き手の絵を描きたいという感情がこれでもかと表現されていた。


 良い絵だ。ルークスはそう思った。

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