剣と筆

剣と筆_2

　緑森の中には様々な音がある。鳥の声、木々を揺らす風のそよめき、川のせせらぎ。その中に、大地が擦れる音があった。

　音の正体は足音だった。灰緑の毛皮を持つ魔族のものだ。その魔族は慣れたように獣道を歩くと、ときどき野草を見つけては摘み取り、手元のかごに入れる。

「おや？　これは……」

　凛とした声が森に響く。それは中性的で、落ち着いており、どこか優しい音色だった。

　灰緑の魔族は獣道に横たわる”それ”に近づくと、鋭い爪でやさしく小突く。小さいうめき声が上がる。

「ふむ……」

　少し逡巡したのち、灰緑の魔族は”それ”を抱えると、どこかへ運び出した。

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「んぐっ……！」

　鈍い痛みでルークスは目を覚ました。目の前には見知らぬ天井に、見知らぬ壁。ルークスは見知らぬ部屋にいた。

　ここはどこだ、とルークスは最後の記憶を手繰り寄せる。一つ目の鬼を殺し、数多の魔族を斬り伏せたところまでは覚えている。しかし、それより後の記憶を思い出すことができない。

　ズキリ、と胸の傷が痛みを訴える。

　そうだ自分は戦場で傷を負ったのだ、とルークスは思い出す。魔族に斬られ、殴られ、噛みつかれ、意識が朦朧とする中、森に迷い込んだのだ。そして、そこで意識を手放したのだ。

　思い出したところで、疑問は最初に戻る。

（ここは、どこだ……？）

　横たわるベッドが軋む。部屋はまるで嵐に吹かれたかのようにボロボロだった。壁の隙間からは風と日光が入り込んでおり、薄暗い部屋の中をわずかに照らしている。うっすらと映し出される部屋の扉はガタガタで、少し傾いている。

　ルークスは扉の奥から何かの気配を感じた。

　そのまま寝台から立ち上がると抜き足差し。ルークスは慎重に扉へ近づいた。そして、わずかに開ける。

（魔族！）

　後ろ姿のため詳しくはわからないが、体長はルークスの頭二つ分ほど大きく、身体は灰緑の毛皮で覆われている。魔族はルークスに気付いている様子はなく、何か作業をしているように見える。

（俺は……魔族に捕らえられたのか……？　何故？）

　ルークスは魔族が人を生かして捕らえるなんて話は聞いたことがなかった。魔族は人を襲い、奪い、食らうだけの、ただただ邪悪な存在。だからこそ、人々は魔族と呼ぶのだ。

　ここはどこなのか、どうして魔族に捕らえられたのか、二つの疑問の答えは出てこない。しかし、そうだとしてもルークスが何をするかは明白だった。　

（魔族は……敵だ……！　戦わなければ……！）

　武器になるものがないか部屋を見渡すルークス。幸いなことに、馴染みの剣は寝台に立てかけておりすぐに見つかった。ルークスは剣を手に取り、刃こぼれしていないか確かめる。かなり刃こぼれをしていたが、魔族を一体倒すくらいは耐えられそうだった。

　そして、音を立てないよう扉を開き、ルークスは部屋を出る。灰緑の魔族はルークスに気づいた素振りすら見せない。

（今だ……！）

　ルークスは一気に距離を詰めると、魔族の首を目掛けて剣を振るう。

「おや、起きたのかい？」

　灰緑の魔族の口から出たのはそんな言葉だった。魔族が人の言葉を使ったことに驚き、ルークスは一旦剣を引いて距離を取る。

「こらこら、落ち着きたまえ。ボクたちとキミたち、魔族と人が争う関係にあることは理解しているけど、今のキミは動いていい身体じゃない」

　灰緑の魔族は呆れながらも優しい声でルークスを諭す。それはまるで、親が子供を諭すときのようだった。

　しかし、ルークスは剣の構えを解かない。

（一体どういうことだ？　魔族が人の言葉を操るとは……）

　疑問が三つに増えた。しかし、何をするかは変わらない。目の前の魔族をただ斬り伏せるだけだ。

　そんな臨戦態勢のルークスを見て、灰緑の魔族は困ったようにため息をつく。

「いいかい、もう一度言うけど、今のキミは立っているのが不思議なくらい傷ついている。早く剣を下ろしてベッドに戻ろう？」

　ルークスは灰緑の魔族の言葉を無視して、再び距離を詰めようとする。

「うぐっ……」

　突如、糸が切れた操り人形のようにルークスの身体が崩れ落ちていく。カランと情けない音を立てながら、剣が床に落ちる。そして、ルークスはうめき声を上げながら床に頬を擦りつける。その口から鮮血が滴り落ち、床を真っ赤に染める。

　ルークスはなんとか意識を保とうと努めた。しかし、身体の方が先に音を上げた。

「まったく、言わんこっちゃない……」

　薄れゆく意識の中、ルークスはそんな言葉を聞いた。　

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　これは夢だ。幼い身体に意識を押し込められたルークスは真っ先にそう思った。なぜわかったのかというとそれは簡単で、同じような夢をもう何度も見たことがあったからだ。

　忘れようとしてもできなかった、魂に刻まれた記憶だった。

　馬車に揺られてどこかへ行くところだった。いや、もしかしたら帰るところだったかもしれない。ああ、そうだ、確か父親の領地の視察に、たまたま母親とルークスが同行した日だった。

　馬車の中には幼いルークス以外に、父親と母親がいた。

　父親が何か冗談を言った。母親がそれを聞いて上品に笑った。自分がそのとき何を思ったのかルークスは覚えていない。

　夢の中のルークスはそれどころではなかった。これから起こる出来事で頭の中は真っ白だった。

　緊張した表情の御者が入ってくる。そして、息を切らしたまま父親に二、三耳打ちをする。

「二人ともここにいなさい」

　父親はそう言うと馬車から飛び出した。そのとき、剣を一緒に持っていくのをルークスは視界の端で捉える。それが指すのは、何者かによる襲撃が起きたということ。

「大丈夫です」

　母親が優しく気丈にルークスにそう言った。その手はルークスの手をしっかりと握り、心配させまいとしていた。

　ルークスの一家が乗っている馬車以外にも、前と後ろに一台ずつ護衛が乗った馬車があった。多少の魔族や野盗ならば容易に撃退できる戦力だ。

　やがて、馬車の外から戦闘の音が聞こえてくる。

「お母様……」

「大丈夫、です」

　しばらくすると、馬車の扉が勢いよく開けられる。入ってきたのは馬車の護衛を勤めている兵士の一人だった。

「奥方様、お坊っちゃま！　ここは危険です。退避いたしましょう」

「……わかりました」

　兵士の先導の元、ルークスは母親に手を引かれて森の中を進む。三つの駆け足の音が森の中にせわしなく響く。それに続いて、追手の足音がいくつも続く。

　追いつかれると判断したのか、先頭を走る兵士は立ち止まる。

「この先を進むと村があります。村長は領主様のご友人、きっと助けてくれます。私はここで敵を食い止めます。しばらくは時間を稼げるでしょう」

「わかりました……ご武運を」

　兵士はうやうやしく礼をすると、来た道を戻っていった。そしてすぐに、戦う音が聞こえた。

「行きましょう、ルークス」

　二人は森の中を駆けた。連続する浅い呼吸音が頭の中に響く。もはや、自分がどこへ向かっているのか、何から逃げているのかルークスには分からなかった。肺は不規則に脈動し、足は針で何度も突き刺されたような痛みが走っていた。徐々にルークスの走る速さが遅くなっていく。

　やがて、二人は開けた場所へとたどり着く。そこには、大きな木が横たわっていた。大木は腐食が進んでおり、子どもが一人なら入れそうな洞が空いていた。

「……ルークス、よく聞きなさい。ここに隠れて、追手をやり過ごすのです。空が白むまで顔を出しては行けませんよ」

「お母様はどうするのですか？」

「私は村まで行って、助けを呼んできます。さあ、早く隠れて」

　ルークスは母親の手で大木の穴に押し込まれた。中は暗黒の空間で外界の光はほとんど届かない。これならば外から少し見ただけでは、誰かがいるとはわからないだろう。しかし、逆に中からはわずかだが外界の様子を見て取ることができた。

　ルークスの母親は少し安心した様子で深呼吸をしている。しかし、すぐに表情が曇る。追手が追いついたのだ。

　甲高い悲鳴が森に響く。逃げようとする母親の腕を大きな影が乱暴に掴む。

（お母様……！）

　ルークスの母親は気丈な表情で影に向かって何か叫ぶ。影は動じず、母親の首を掴んで持ち上げる。絞り出した母親の息だけがルークスの耳に届いた。

　ルークスはすぐにでも飛び出して母親を助けたかった。しかし、母親がルークスをここに隠した理由を思うと、動くことはできない。ルークスの作る握りこぶしから血が滴り落ちる。

「あ」

　メキリ、と音が聞こえた気がした。影が手を離すと、ルークスの母親は力なく、重力に従って地面へ落ちる。

（あっああああ……！）

　地面に落ちる母親の頭は、大木の中にいるルークスに向いていた。その目がルークスと交差する。何を訴えているのか、ルークスにはわかった。

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　鈍い痛みでルークスは目を覚ます。その額には汗がびっしょりと張り付いており、彼が意識を失った後、どんな様子で寝ていたのか物語っていた。

「やあ、おはよう。よく眠れたかい？　調子は……良くはなさそうだね」

　鼻と鼻が触れ合いそうな位置に灰緑の魔族はいた。ふわりと土と草の香りがルークスの鼻をくすぐる。どうやら寝ているルークスを観察していたようだ。

「っ……！」

　ルークスは飛び起きようとしたが、身体がまるで蝋で固められたかのようにまったく動かない。

「申し訳ないけど、身体が痺れる薬を処方させてもらったよ。これ以上動くとホントに死んじゃうからね」

　灰緑の魔族は濡れた手拭いでルークスの額についた汗を拭う。手拭いの冷たさで、ルークスは自分の身体が相当に火照っていることに気がついた。

「っく……俺をどうするつもりだ……」

「身体を治すだけだよ」

「何……だと？」

「まあ、ちょっと、そのついでにお願いしたい話もあるけど……」

（やはり……会話が成立している……言葉を操る魔族なんて聞いたことがない。一体何なんだコイツは）

　意思疎通ができる魔族の登場は、精神を落ち着かせるのに十分だった。未知の状況を前にして、戦士としての経験がルークスを冷静にさせたのだ。

　深呼吸をして落ち着いたルークスを見て、灰緑の魔族はほっと一息ついたようだった。

「キミに取っても悪い話じゃあない。キミの身体が完治したら、ボクのお願いを聞いて欲しいんだ。なあに、心配しなくてもいいよ、ボクは薬師だ。身体を治すことは任せてくれ」

「取引……ということか」

「そこまで堅苦しく考えなくてもいいんだけど、そういうことかな」

「もし断ったらどうするつもりだ？」

「断るのかい？」

「……」

　断ることすなわち死。上目遣いで微笑む魔族の質問は暗にそれを指している。迂闊なことは言えない。もう少し魔族の情報を探る必要がある、とルークスは判断した。

「……お前の願いとやらは何だ」

「フフフ、気になっちゃった？」

「あ？」

　素直にルークスはイラッとした。しかし、すぐに冷静さを取り戻し、話を続けろと目線で促す。

「ボクのお願い、それはキミに絵を描いて欲しいんだ。もちろん、必要なものはボクの方で用意する」

「……絵だと？」

　ルークスの言葉には明確な怒気が含まれていた。

　絵を描いて欲しい。その願いはルークスが魔族に捕らえられた謎の答えだった。この灰緑の魔族はルークスに絵を描いて貰うために、彼を助けたのだ。

　しかし、その願いはルークスにとって到底看過できないものであった。両親を奪った魔族が芸術という人の領域に入ることは到底許すことはできない。

「一体何の冗談だ？　お前たち魔族が絵を欲しがるとは」

「冗談？　そう聞こえるかもしれないね。ボクも絵が好きな同胞の話なんて聞いたことがないし……。でも、ボクは絵を、芸術を愛しているんだ。それだけは紛れもない事実なんだ」

「……っお前！」

　ルークスの怒りはさらに勢いを増す。身体が動いていればすぐに飛びかかっていただろう。

　そのとき、外の日差しが強くなり、壁の隙間から漏れ出る光が強くなる。部屋の中が明瞭に写し出され、そこにあるものが全てが明らかになる。

（これは……）

　部屋の壁にはいくつもの絵が飾られていた。さらに、歪んで水平を保てなくなった棚には、ルークスも読んだことのある小説や戯曲がいくつも並んでいる。

　ボロボロの部屋と芸術作品の描くアンバランスなコントラストに、ルークスは思わず呆気に取られる。

「これは……どこで……どうやって……？」

「フフフ、良かった、ひと目でこの品々の価値がわかるなんて。キミも好きなんだね、芸術が」

「……そんなことは」

「では、改めて聞こう。ボクのために絵を描いてくれないか？」

「……」

　この灰緑の魔族は確かに芸術に興味を抱いている。それは認めざるを得ない事実だった。つまり、絵を描いてほしいという願いも冗談ではないのだろう。

　しかし、魔族のために絵を描くなんてことは、到底許容できることではない。それは、亡き両親に対する裏切りだからだ。両親を殺した魔族におもねることは、この身が裂けようともルークスにはできない。

　しかし、だがしかし。

　ルークスは生きなければならない。

　ズキリと頭が痛む。ルークスの脳裏に先程見た夢の最後の光景がリフレインした。

　地面に落ちるその頭。その目はルークスに生きろと訴えた。だからこそ、ルークスはじっと木の穴の暗黒の中にいたのだ。

（俺は、生きなければならない……）

　二律背反。ルークスは死ぬわけにはいかないが、かといって魔族に絵を描いておもねり生きるわけにもいかない。必要なのは発想である。二律背反を解消する発想だ。

　灰緑の魔族は期待を込めた視線でルークスをじっと見据えている。言い訳を考えるための時間は、もう少ししかない。

（そうか……！）

　騙せばいい。

（人の言葉を操るから混乱していたが、相手は魔族なんだ。人じゃあない。そもそも、まともに取引する必要は、ない）

　ルークスの中にふつふつと計画が浮かび上がる。　

（反故にすればいい……。絵は身体が治った後に描くと条件を付ければ、万全な状態になるまで絵を描かなくても怪しまれない。その後取引を反故にして、不意打ちでこいつを殺せば良い）

　これならば身体は治る上、絵も描かなくて良い。しかも、この世界から憎き魔族が一体消える。むしろ、心配なのはこの灰緑の魔族がちゃんと治療ができるのかどうかだ。

（それに、人の言葉を操る魔族を放っておくことはできない。もしもこいつ以外に喋れる魔族がいるなら……人の社会に潜入されたらどんな被害がでるかわからない。どうやって言葉を覚えたのか調査しなければならない……！）

　ルークスは決心した。ちょうど良いことにルークスは絵の心得があった。魔族を欺くには十分だろう。

「いいだろう……お前のために絵を描こう……。だが、身体が治ってからだ。このままだと腕も上がらない」

「もちろんだよ！　やった～！　よかった～！」

　灰緑の魔族は今にも飛び跳ねそうなくらい、その長い耳と尾を震わせる。しかし、すぐに頬を染めながら咳払いをした。

「っコホン。では改めてよろしく。ボクの名前はウィリデだ。キミの名前は？」

「……ルークスだ」

「ルークス、ルークス！　いい名前だ！」

　ルークスは爽やかな笑みを浮かべる。しかし、内心ではどうやって情報を聞き出すのか、どうやって斬り伏せるのか算段をつけていた。

（絵なんてさらさら描く気はない、ましてや魔族のためになんか。絵を描くと言ってコイツを騙し、身体を治させて、情報を聞き出す。最後には……）

　そのためにはルークスの計画をウィリデに悟らせるわけにはいかない。友好的に接し、絵を描くフリをして油断を誘う。

　ルークスは筆の下に剣を忍ばせることを決意した。