剣と筆_3

 黄金に輝く太陽はウィリデの小屋を煌々と照らしていた。外はすっかり陽が昇っているようで、壁の隙間から入る光のカーテンが顔にかかり、少しまぶしい。


「もう、朝か……」


 ルークスは鈍い痛みと共に目を覚ました。ウィリデの小屋に連れてこられて数日が経つ。魔族に看病されるという生活は未だに慣れなかったが、傷の完治まではほど遠い。しばらくこの生活が続くことを考えるとルークスの気は重かった。

 しかし、すべては計画のため。魔族の情報を集め、ウィリデを殺そうとしていることは絶対に気付かれてはならない。表面的には有効的に振る舞わなければならないのだ。


(……傷は着実に治っている。あの魔族の薬はちゃんと効いているんだな……)


 ルークスは傷の具合を確かめるために、ベッドから起き上がり、そのまま腰を掛けた。腕を少し回した後、握りこぶしを作り力を込める。しかし、思ったよりも力が出ず、ため息をこぼす。


(しかし……よくもまあ、こんなにも集めたな)


 外光に照らされた部屋の中には、いくつもの絵画があった。その中のひとつ、一枚のくすんだ絵画をルークスはじっと観察する。

 それは麦畑だった。一様に植えられた黄金の小麦が、太陽にさらされながら輝く絵。点描という技法が使われており、その筆使いはよどみない。色使いは大胆極まりなく、現実の小麦の色である黄金色だけでなく、陰影として青や紫がふんだんに使われている。くすんでいなければどれほどの輝きを放ったのか、ルークスには想像もつかなかった。


(いい絵だ……何度観ても圧倒されてしまう……)


 雄大で素朴な力強さは、王都の美術館に並んでもほかの名画に引けを取らないだろう。

 しかし、ルークスはこの麦畑の絵に違和感を持っていた。何かが足りないような、未完成のような、そんな気がしたのだ。塗り残しがあるわけでもなく、描き込みも十分に思えるのに、だ。

 ルークスはしばらく観察を続けたが、すぐにその違和感を見つけることはできなかった。


(それはそうと、どうしてこんな良い絵がこんな辺鄙なところに?)


「気になるかい?」

「おわっ!」


 部屋の入口からウィリデが顔を出した。どうやら、部屋の外から麦畑を鑑賞するルークスを観察していたらしい。思わず驚いて声を上げてしまったルークスは、顔を少し赤らめる。


(いつの間に!? 見られていたのか……)


 無防備な姿を魔族に見られてしまったことにルークスは自分自身を戒めた。こんなことでは、いつかウィリデを殺そうとしていることがバレる。もっと気を引き締めなければならない。


「いい絵だろう?」

「ああ……確かに」

「そうだろう、そうだろう! 実は、これはボクが最初に出会った絵なんだ」


 ウィリデはそう言うと部屋に入り、麦畑の側に寄る。その表情はどこか嬉しそうで、鼻高々だった。


「あれは……いつだったか……ずっと前のことだ。ボクは野草採取の途中で大雨に降られてしまい、とある廃村に駆け込んだ。そこで、雨宿りをしているときにこの絵を見つけたんだ」


 思い出すように、目を輝かせながらウィリデは続ける。ルークスはそれをただ静かに聞いた。


「最初は驚いたよ、世界にはこんな素晴らしい景色があるのかと。そこで、ボクはこの黄金色を直接見ようと思って何年も何年も旅をしたんだ。北は薄氷の世界から南は巨木を祀る国まで、どこまでも行ったさ。でも……見つからなかった、ごく普通の麦畑はあったけど、この麦畑はどこにもなかったんだ」


 ウィリデはその長い耳を倒し、どこか寂しそうな表情で言葉を続ける。しなびた野花のようだとルークスは思った。


「旅の途中、ボクはさまざまな芸術作品と出会った。『若い老人の空』『海の中の慕情』『ソル・レヴェンテ』、キミたちの文字と言葉をなんとか覚えて物語を読んだ。ボクは小説を実際に起きた出来事が書かれたものだと思っていた。でも、違うんだね。全部、想像上のものだったんだ。この麦畑もたぶん、そう。旅の終わりにボクは考えた。どうして非現実の絵を描いたのか、どうして想像上の物語を書いたのか。答えは簡単だった」


 鋭い爪でウィリデは優しく麦畑の絵を撫でる。それはまるで、母親が赤子の頬を撫でるようだった。


「芸術には作った人の想いが、感情込められているんだね。この麦畑はどこにでもある麦畑だけど、これを描いた人にはこんなにも力強く想えたんだね。作った物に想いを込める、この感性はボクたちにはないものだ。同じ景色を描いても、実際の景色と瓜二つのものが出来上がるだけだろうね」


 ウィリデは悲しそうにそう言うと、麦畑の絵を撫でるのを止めた。そして、そのまましばらくぼんやりと麦畑を見ていた。ルークスも何を言うでもなく、ウィリデと共に絵を眺めた。


「おっと、もうこんな時間だ。ご飯の支度をしなくちゃ!」


 ウィリデはそう言うと、ルークスにウィンクをして部屋を後にした。 


(……本当によく喋る魔族だ)


 ルークスはウィリデの話を聞いて、どこか胸がズキズキするような痛みを感じた。それはあの灰緑の魔族に共感したからなのか、そうではないのか、ルークスにはわからなかった。

 ルークスは胸の痛みから意識を逸らすために、壁にかけられた麦畑に再び集中する。いい絵だった。しかし、やはり何か違和感があった。ウィリデの話を聞いてその違和感の正体に近づいた気がしたが、もう一歩届かない。


(絵、未完成……そうか……)


 思い出した。それは幼い頃、ルークスが初めて絵を描き、完成させたときの記憶だ。

 両親が生きていたときの記憶は、できれば思い出したくなかった。しかし、思い出さなければ、麦畑にある違和感の正体を掴むことはできない。


 仕方がない、とルークスは目を閉じて古い記憶を手繰り寄せた。



 それは、薫風の吹く温かい日のことだった。ルークスは父親が所有する別荘にいた。美しい湖畔の側にある小さな別荘で、休暇を過ごすにはピッタリの場所だった。

 ルークスは湖の側で絵を描いていた。目の前に広がる湖をキャンバスに収めようと、必死で筆を動かす。太陽の光に照らされた水面は、ガラス玉のように輝いていた。不規則に流れる雲の影は時折水面を隠したが、それは一層輝きを際立たせるだけだった。


「はぁ~」


 大きな溜め息とともにルークスの筆が止まる。その表情には焦りが浮かんでいた。

 湖とキャンバスを交互に見比べるルークス。また溜め息。目の前の美しい景色を上手くキャンバス上に再現できていなかったのだ。


(下絵は大丈夫……なはず。問題は色だ)


 パレットには湖を表現するための青や林の緑、太陽の黄色といった色が置かれていた。ルークスは律儀に下絵に色を塗ったが、どうにも目の前の景色に比べて迫力と鮮やかさが足りない。

 何が足りないのか考えているうちに時間だけがただ過ぎていき、パレットの上の絵の具が少し硬くなった。


「描けたかい? ルークス」


 ルークスの後ろから声をかけたのは、父親のパテルだった。パテルもまた湖の側で自身の妻の肖像画を描いていた。脇にキャンバスを抱えているということは完成したのだろうか。ちょうど良い、とルークスは父にアドバイスを請うことにした。


「お父様……湖の鮮やかさを上手く表現できません……」

「ふむ……見せてみなさい」

「どうでしょうか」

「ふむふむ、なるほど」


 パテルは楽しそうにルークスの描いている絵を吟味する。一方、ルークスは緊張していた。パテルはルークスの父親であると同時に絵の師匠でもあったからだ。


「この絵はとても律儀だ。水は青、林は緑、太陽は黄色に塗られている。でも、ちょっと硬すぎるかな。絵はもっと自由でもいい」

「自由ですか?」

「ちょっと借りるよ」


 パテルはルークスから筆とパレットを受け取ると、パレットに赤や橙の絵の具を置いていく。父親の行動にルークスは驚く。なぜなら、目の前の景色に赤はなかったからだ。


「あ!」


 ルークスの声がそよ風の音に混ざる。パテルはキャンバスの湖に淡い赤を足していったのだ。


(青に赤を混ぜてしまったら台無しになる!)


 しかし、キャンバスはルークスの考えとは裏腹に台無しにはならなかった。

 赤は湖の青色と混ざり、紫となり、やがて青灰色へと変わった。それは混ざりきらなかった赤と合わせて、湖の青々しさを際立たせる見事な陰影になった。それは確かに実際の湖にはない色かもしれないが、湖の美しさと雄大さを表現するには十分だった。


「これは補色という効果だ。正反対の色を塗ることによってモチーフを引き立たせることができる。より良い絵を描くためには、ときには真逆の色を使う必要がある、ということだね」

「補色……」

「さて、あとは大丈夫だね?」


 ルークスは無言で頷く。それを見たパテルは筆とパレットを返すと、そのまま別荘へと帰っていった。

 残ったルークスは湖の景色を見たままではなく感じたままに、キャンバスに色を落としていく。


 絵は日暮れまでには完成した。


「とてもいい絵だね」


 別荘の書斎でパテルはそう言った。ルークスの描いた湖は、筆使いは荒いものの、大胆な色使いで自然の雄大さを十分に表現できていた。


「ふむ……この書斎に飾ってみようかな」

「本当ですか!?」

「ああ、だけど、まだこの絵にはやらなければならないことがある」


 パテルの言葉にルークスは困惑した。絵はこれで完成のはず。これ以上、新たに色を加えてしまえば全体のバランスが崩れてしまう。


「……何をするんですか? お父様」

「それは……」


 怯えた表情のルークを見て、パテルは微笑む。


「ワニスだよ」



「ワニス、か」


 ルークスは麦畑の絵を見てそう呟いた。こんなにも良い絵なのに、無惨にもくすんでしまっている。つまり、ワニスで処理されていないのだ。

 ワニスはいわゆるコーティング剤だ。絵の表面に塗布することで、塗料が空気に触れて劣化するのを防ぐことができる。絵の鮮やかさを保つためには必ずしなければならない工程である。


(しかし……どうしてこれほどまでの名画にワニスが塗られていないんだ?)


 昔見た王都の美術館に展示されていた絵はどれも丁寧にワニスの処理がされていた。それに、ルークスが初めて完成させた絵も父親の手によって長く、鮮やかな状態が保てるようワニスが塗られた。

 材料さえあればそれほど手間な作業ではない。こんな絵を描けるのだから、ワニスの処理を知らないことはないだろうし、ワニスの材料も画材が手に入る環境ならば手に入れられるだろう。


(そう言えば、この絵は廃村で見つけたとか言っていたな……)


 ウィリデの言葉を思い出したルークスは、なぜ廃村に名画が置かれていたのか考える。

 廃村が生まれる理由は様々だ。人口減少による住民の移住、隣の村との合併、自然災害による影響など、多岐にわたる。中でも、最も多いのは魔族による破壊活動である。

 未完成の絵画、魔族に襲撃された廃村、その二つから導き出される結論は簡単だった。


(麦畑の作者は魔族に殺されたのか……こんな絵を描ける人はそれほど多くないだろうに……)


 もちろん、魔族の襲撃から生き延びた可能性もある。しかし、それは魔族に殺された可能性よりもずっと低いように思えた。

 襲撃の後、作者は絵を取りに戻らなかったのだ。これほどまでの絵ならばリスクを承知で取りに帰っても不思議ではない。だが、麦畑は廃村にずっと放置されていた。なぜなら、作者は魔族に殺されて、取りに戻ることができなかったからだ。きっと、そうに違いない。


(やはり……)


 自然とルークスの腕に力が入る。鈍い痛みを感じたが、そんなことはどうでもよかった。


(魔族は殺さなければならない……!)


 見ず知らずの画家の無念をルークスは胸に刻み込んだ。自分だけのためではない、無念にも魔族に殺された者たちのためにも、魔族は根絶やしにしなければならない。




「ご飯できたよ〜」


 決意を新たにしたルークスの元に、間延びした声が届く。ウィリデの声を聞いて、ルークスは全身の緊張を意識的に解く。悟られてはいけない。自分が魔族に恨みを持ち、復讐しようとしていることは絶対に悟られてはいけない。ルークスは深く深呼吸をした。


「……今行く」


 部屋を出るルークス。その先には食事の準備をするウィリデが見えた。


 ふと、麦畑を描いた画家の最後をウィリデに伝えたらどんな反応をするのか、ルークスは気になった。芸術を愛すると言って憚らないあの魔族は、嘆き悲しむのか、それともそれは自然の摂理だと開き直るのか。


「ほら、そんなところに立っていないで、座って、座って。今日の薬草は昨日よりも苦くないはずだよ」


 呑気なウィリデを前に、ルークスはため息をつきながら着席する。机の上の器に緑色のドロドロが注がれる。薬草を煎じたもので、ひどく苦くて不味いが、怪我人であるルークスに食べないという選択肢はない。


 ルークスは薬を飲みながらひとつ忘れていたことに気がついた。それは曲がりなりにも絵を嗜んでいたルークスにとって重要なことだった。


「なあ、ちょっと用意して欲しいものがあるんだが……」

「ん? 何が欲しいんだい?」

「ワニスだよ」

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