剣と筆_4

 青時雨が降る森の中には、しとしと雨が地面に落ちる音が聞こえる。そんな静粛をかき消すような音でルークスは目を覚ました。外は天気が崩れているようで、しとしと雨が降る音が聞こえる。大気に悪い気が巡っているのか、治療中の傷が妙に疼いて、眠りが浅かった。そのせいで小さな物音でも目を覚ましてしまったのだ。

 物音の正体はウィリデだった。ルークスを起こさないよう静かに目を覚ますと、立て付けの悪い扉を音が鳴らないよう開け、部屋から出て、そして優しく閉めた。


(天気が悪いというのに……今日も早いな……)


 半覚醒状態でルークスはそんなことを思った。


 少し前からウィリデを観察していた。もちろん、人の言葉を操るこの魔族を調査し、最終的に殺すためだ。それには入念に行動パターンや弱点を調査する必要がある。

 ウィリデの朝はいつも早い。ルークスが目を覚ますときにはすでにどこかへ出かけている。いつも籠一杯の薬草や野草、野菜を持って帰ってきていることから、恐らく山菜採りにでも行っているのだろう。そして、帰って来るとすぐに昼食を作り、ルークスと共に摂る。

 午後は薬師らしく、摘んできた野草を薬研でひいて薬の調合をする。ルークスの傷の具合を確認すると、それに合わせて軟膏を処方する。日が落ちると簡単に食事を済ませ、ルークスよりも早く就寝する。それがウィリデの一日だった。


(やはり……狙うなら夜か……寝静まったところを……)


 ウィリデをいつ殺すのか算段をつけるルークス。外の若草がぽつぽつと雨を弾く音が、ルークスのいる部屋にこだまする。その心地よいリズムに身を任せていると、だんだんとまどろみが這い寄ってくる。


 そして、ルークスはいつの間にか意識を手放した。




(……ん? なんだ、この臭い)


 再びルークスが目を覚ましたのはしばらく経ってからだった。濡れた腐葉土の匂いをかき消して、ひどい臭いが部屋の中に充満している。生臭いような、焦げ臭いような、奇妙な臭いで、ウィリデがいつも作る軟膏よりもひどい。


「やあやあ、おはよう! 調子はどうかな?」

「……ああ、いつも通りだ」


 いつものように勢いよく、昼食ができたことを知らせるウィリデが部屋に入ってくる。いつもよりもテンションが高い、とルークスは感じたが、あえて指摘はしなかった。面倒事にわざわざ足を突っ込むほどルークスは若くなかった。


「この臭いは何だ……?」

「ふっふっふ、それはねー、キミにとっていいものだよ! さあ立って!」


 ウィリデはルークスの寝るベッドへ寄ると、そのままルークスを抱き起こし、部屋の外へ連れ出した。一方的なウィリデの行動にルークスは少し不快感を露わにしたが、特に何かいうことはなかった。この灰緑の魔族が一方的で急なのはいつものことだ。


 部屋を出た先のダイニングにあるテーブルの上には器が用意されていた。ウィリデはイスを引いてルークスを座らせると、器に何かを注ぎ始める。急激に辺りに漂う異臭が強くなる。臭いの正体は、器に注がれている液体であることは間違いなかった。


「……何だ、これは」

「もちろん、これは料理さ! そろそろ煎じた薬草だけだと味気ないと思ってね! 内蔵も回復してきたし、そろそろ消化にいいものも食べていかないとね」

「これが……料理?」

「うん、もちろん!」


 ルークスは目の前の料理(?)を見る。見た目的に恐らくシチューかお粥。具材は何かの獣肉と山菜、それに麦だろう。肉には焦げ目が付いているが、なぜか生臭い。生煮えなのだろうか、この様子だと味付けも期待するだけ無駄だろう。正直、見た目と臭いはこれまで出されていた薬草を煎じたドロドロと大差はない。


「おやおや、どうしたんだい? そんな顔をして」

「お前……料理を作った経験はあるのか?」

「ないけど?」

「……」

「安心したまえ! ちゃんとこのレシピ本の通りに作ったから!」


 ウィリデは一冊の本をルークスに見せつける。タイトルは『美食礼賛』。著者はババという名の作家。いかにも胡散臭い本だった。少なくともルークスは見たことも聞いたこともなかった。


「もちろん、ボクは薬師だからね。このレシピに薬師ならではのアレンジを加えているよ。痛み止めのトムハギの草でしょ、外傷の腫れが収まるカミンの皮も入れたし、血液の巡りを良くする芽夏、皮膚と臓器を作るスピードを上げるキカの葉も入っているかな」


 レシピに大幅に手を加えたなら、それは元の料理とは程遠いものが出来上がっているのではないか、とルークスは指摘しようと思ったが、あえてはしなかった。ウィリデの機嫌を損ねるのは計画に支障が出る可能性がある上、何よりも面倒だった。


「いやあ、この本を読んで思ったんだけど、キミたちってやっぱり面白いねえ。食事にも芸術を見出すとはね。器のデザインに食材の切り方、盛り付け方とか、料理の見た目にこだわるなんて、すごく勉強になったよ」


(その勉強の結果、出てきたのがこの泥色のスープなのか……?)


 幼い頃、国王主催で行われた晩餐会に参加したときのことを思い出すルークス。

 豪奢な調度品が置かれた広間に、これまた豪奢に着飾り歓談する貴族たち。重厚な木製のテーブルには初雪のような純白のテーブルクロス。その上には磨き抜かれた銀食器が置かれていた。

 そして、次々と運ばれてくるのは、各地から取り寄せられた名産を使った料理だ。花や魚など動植物を模した見た目の料理もあれば、家畜を一匹丸々使った料理もあった。見たことも聞いたこともない調理法で作られた、とびきり美味しく美しい料理。美食とはそういうものだったはずだ。


 では、目の前にある、ウィリデが美食と呼ぶものは何だ? ルークスの知っている美食と同じ所といえば、見たことも聞いたこともないという所だけだ。 


(これは……食べなければいけないのか? いや、しかし食べなければコイツの機嫌を損ねる。待て待て、万が一戻してしまったら? 顔に不味いと出てしまったら? どちらにせよコイツは機嫌を悪くするだろう……俺にできるのはこの汚泥を飲み込み、平然と「美味しかった」と感想をいうことだけだ……!)


 匙を手に持ち、器の中の汚泥をすくい上げるルークス。それを見て、ウィリデは目を輝かせる。ルークスは小さくため息交じりの深呼吸をした。


(まあ、どんなにひどくても耐えられる、はず……)


 ルークスにはウィリデの料理に耐えられる確信があった。ルークスは両親が魔族に殺されてから、味覚が鈍くなっていたのだ。いつも食べていた干し肉は塩の味しかしないし、パンはまるで固めた砂を食べているように感じていた。十年近く食事を楽しんだ記憶はない。

 それに、歴戦の兵士は常在戦場。常に冷静でいることが求められる。料理の味がひどいからといって、それが顔に出ることは一切ない。


「いただきます……」


 ルークスは恐る恐るシチューを口に運ぶ。強烈な刺激臭が鼻腔を圧迫する。


(うっ……)


(これは……)


(ひどすぎる……!)


 思わず戻しそうになるルークス。肉体は目の前の料理を反射的に毒だと判断したのだ。口いっぱいに生臭い香りが広がり、舌と脳がピリピリと刺激される。

 咀嚼するのは危険だと瞬時に察知し、ルークスは口の中の汚泥を一飲みする。その様子を見てウィリデは喜んだのか、大きな耳と尾がぶんぶんと揺れる。


「味はどうだい?」

「……」


 真顔でしばらく黙るルークスを見て、ウィリデの顔色が変わる。


 しかし、ルークスは料理の不味さで黙ったわけではなかった。料理の味に謎の既視感があるから黙ったのだ。

 その既視感の正体は過去にあった。まだルークスが幼かった頃の記憶。両親が生きていて、幸せだったころの温かい記憶だ。



 それは寒い冬の頃だった。幼いルークスは流行り病に罹り寝込んでしまっていた。

 そんな、寝込んでいるルークスの部屋にノックがひとつ。


「入りますよ~」


 朗らかな声と共に入ってきたのはルークスと同じ金色の髪を持つ女性だった。手にトレイを持っており、その上には湯気を立てた器がある。


「……お母様、こんな時間にどうなさったんですか?」

「うふふ、頑張って病と戦ってるルークスに良いものを持ってきましたよ」


 マーサはそういうとトレイをベッドの横にある机に置く。ルークスはトレイの上に置かれた器を見て、何か嫌な予感がした。


「お医者様の話では、栄養と睡眠をしっかりとれば数日で治るそうですよ」

「……はい、僕もそのように聞きました」

「なので、お母さんは栄養たっぷりのシチューを作ってきました!」


 ルークスの嫌な予感は的中した。


 ルークスの母親であるマーサは遠い親戚に王族がいる大貴族のご令嬢である。当然、蝶よ花よと大切に育てられており、身の回りの生活にまつわることはすべて使用人がおこなっていた。ルークスが生まれるまで料理なんてしたことはなかった。

 そんな経験不足のマーサが料理をすればどうなるか。大惨事である。度々とんでもない料理が生み出されるのは珍しいことではなかった。


(またメイド長に小言を言われるんだろうな……)


 ルークスは心の中で独りごちた。料理ができない者が立った後の台所といったら、さながら戦場跡である。当然、それを片付けるのは使用人たちだ。


「はい、ルークス、あーん」


 いつの間にか、ルークスの目の前に匙が運ばれている。生臭いような酸っぱいような臭いが、鼻を刺激する。恐らく身体に良いものを片っ端から鍋に突っ込んだのだろう。シチューはまさに混沌と呼ぶにふさわしい様相を呈していた。


 そして、母親の手によってルークスの口に手製のシチューが運び込まれる。


(うっ……)


(これは……)


(ひどすぎる……!)


 異常なまでの苦みが口の中に広がる。ルークスの頭に『良薬口に苦し』という言葉が思い浮かんだが、まだ薬の方が苦くないだろう。


「はい、あーん」


 二口目が運ばれる。一口目と変わらない、ひどい味だった。ルークスは咀嚼を省略してすぐに飲み込む。煮込まれた肉や野菜が崩れたら、どんな風味が飛び出してくるか想像もつかないからだ。

 マーサはそんなルークスを見て、「あらあら」と呟きながら次々に匙を繰り出す。器の中身が無くなるまでさほど時間はかからなかった。


 カラン、と空の器に匙の音が反響する。ひどいシチューの中身はすべてルークスのお腹の中に収まった。


「……ごちそうさまでした」

「うふふ、お粗末様でした」


 ルークスはマーサから水の入った杯を受け取ると、一気に飲み干した。しかし、冷水を物ともせず身体は発熱し続ける。


「あらあら、熱が上がってきたみたいですね……栄養を摂れたことですし、あとはゆっくりと眠るだけですね」

「お腹いっぱいになったので、よく眠れそうです」

「では、そろそろ行きますね、ルークス」

「……お母様」

「なんですか?」

「……ありがとうございます」

「うふふ、いいんですよ。また、作ってきますからね」

「それは……」


 遠慮しておきます、とルークスの言葉は続かなかった。確かにマーサが作る料理はいつもひどいし、台所も滅茶苦茶にしてしまう。使用人に任せれば栄養豊富で食べやすく美味しい料理が出てくる上、台所は調理後も秩序を保つだろう。傍から見ればマーサの献身はただの迷惑に見えた。実際、大貴族のご令嬢としてふさわしくない行動だと断じる者もいるだろう。


 しかし、ルークスはそれが嬉しかった。貴族だとか、料理が得意だとか、そんなことは関係なしに一人の母親として息子を労うマーサの思いが嬉しかったのだ。だから、ルークスは再び料理を作ろうとする母親を止めようとは思わなかった。次またどんなにひどいものが出されても平らげてみせるだろう。


「……おやすみなさい、お母様」

「ええ、おやすみなさい、ルークス」


 マーサはルークスの額に手を当てる。じんわりとした冷たさがルークスの額に伝わり、代わりにマーサの手が少し熱くなった。まぶたを閉じても、額の冷たさはいつまでも残っているように感じた。



 しかし、ルークスはもうその冷たさに触れることは叶わない。マーサはとうの昔に魔族に殺されているのだから。


「ねえ、ホントに大丈夫?」

「……ああ、大丈夫だ」


 ウィリデの声でルークスはふと我に返る。一体どれくらいの間呆けていたのか。ウィリデの様子を見る限り、時間はそれほど経っていないはずだ。

 

 ルークスは匙でシチューをすくい、湧き上がった怒りとともに飲み込んだ。


「それで……どうかな! 味の方は!」

「……なんというか、とても……独特だな」

「それは良かった!」


 良くはない。ルークスは心の中で独りごちる。

 こんなひどいものを作っておいて、良かったはない。ひとえにルークスがシチューを戻さなかったのも、嫌な顔ひとつしなかったのも、味覚が鈍くなっているからだ。常人ならばこんなものを口にしたら卒倒してしまうだろう。


 ウィリデはルークスの反応に気を良くしたのか、尻尾をぶんぶんと振りながら鼻歌交じりに、何かの獣肉にかじりつく。


(はあ……)


 その能天気な様子に、ルークスはすっかり毒気が抜かれてしまった。しかし、その代わりに何ともいえない不快感がやってくる。


(……最悪の気分だ、魔族が作ったシチューで母上を思い出すなんて……)


 ルークスはシチューに再び口をつける。やはり、ひどい味だった。


 魔族の作ったシチューと亡き母親が作ったシチューが同じはずがない。殺すべき相手が作ったシチューで、愛する者が作ったシチューを思い出したなんて、あるはずはない。そんなことは絶対にない。


 決して、ありえるはずがないのだ。

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