剣と筆_6
紅に色づく森はすっかりと深緑を潜め、一葉一葉が次の季節の到来を予感させる。深呼吸をして森の匂いを嗅げば、ほのかに甘ったるい熟した木の実の香りがする。目を凝らせば、木の影に隠れて小動物がせわしなく動いているのが見える。朝早くウィリデは森の中を歩いていた。
ウィリデは調合した薬を届けに集落へ向かっていた。当然、人の住む集落ではない。魔族の住む集落である。ウィリデは薬を対価に、集落から食べ物や日用品を手に入れているのだ。
道中、ウィリデが考えるのは半年ほど前から共に暮らす、金色の髪をした人、ルークスのことである。満身創痍の身体は見違えるほど良くなった。元々の体質なのか、強靭な意志の力によるものかはわからないが、少なくともその回復力は常人の域を超えていた。
ルークスの素性をウィリデは知らない。ルークスから話すことは当然なかったし、ウィリデもわざわざ聞くことはなかった。ルークスが聞いて欲しくなさそうな雰囲気を纏っていたからだ。
それに、絵を描いて貰う上でルークスの素性を知る必要はない。芸術は誰が描いたかによってその価値を変えることはしばしばあるが、どんな悪人が描いた絵でも美しい絵は美しい絵だ。価値の毀損はあっても美しさの毀損は起きない。それがウィリデの芸術に対する姿勢だった。
とはいえ、ウィリデはルークスの素性についてあらかた見当を付けていた。
ルークスの傷は明らかに戦いによって付けられたものだし、ルークスを見つけた場所には剣が落ちていた。数日前に人と魔族の間で大きな戦いがあったことを考えると、ルークスはそれに参加していた戦士なのだろう。
しかし、わからないのはルークスがなぜあれほど芸術に対して造詣が深いかだ。麦畑の美しさの力点を一目で理解したし、本人は隠しているつもりかもしれないがしばしばウィリデの蔵書を読んでいる。その姿は豪放磊落な戦士のイメージとは大きくかけ離れている。
(無理に徴兵されたんだろうか……)
その答えはルークスのみぞ知る。
(でも、出会えたのがルークスで本当に良かったなあ)
人に絵を描いて欲しい。ウィリデの願いの前には、ひとつの重大な壁が立ちふさがっていた。それは人と魔族の対立である。
この対立は何が原因で起きたのかもう誰も知らない。いつからか人は自らを人と呼ぶようになり、ウィリデたちを魔族と呼んで忌み嫌うようになった。それは親から子へ、子から孫へ継承され、今でもずっと続いている。
ゆえに、緋色の目をした旅人という前例はあるものの、魔族に友好的な人を探すのは不可能に近かった。
しかし、蓋を開けてみればウィリデの懸念は杞憂であった。ルークスが目覚めた直後は敵意を感じたものの、懸命に会話を積み重ねたらお互いに歩み寄ることができた。
それだけでなく、ルークスは大切なことを教えてくれた。それは、ワニスである。
絵はワニスを塗布することで、長く綺麗な状態を保てるようになる。つまり、大切なものを大切なままにするためには、より深くそれについて知らなければならないのだ。
(でも、身体の治療を盾にとるのは、流石にひどかったかな……)
ルークスと過ごすようになってから、ウィリデは罪悪感を抱くようになった。あんなに友好的な人物に対して絶体絶命の身体の治療を盾に、実質的に断ることができない取引をするのはあまりにも不公平で卑怯に思えたのだ。
(ルークスの身体が治ったら、また改めて絵を描いて貰えるようお願いしようかな。今度は、対等な関係で……)
ウィリデは集落にいるトレーダーにあるものを注文していた。それがあれば改めて絵を描いて貰うときの会話のきっかけになるだろう。
何かが進んでいる。何かが始まる。そんな予感がウィリデにはあった。
集落へ向かう足は自ずと速くなり、鼻歌は軽快なメロディーを奏で出す。集落はもうすぐそこだ。
ウィリデが集落に着くころには太陽はすでに高く昇っており、森全体を強く照らしていた。
集落には茅葺き屋根のテントがいくつも並んでおり、集落の外側に向かうにつれて新しいものが建っている。
この集落には元々三十ほどの魔族が住んでいたが、半年前の戦争の敗残兵が十体ほど療養のため滞在していた。ウィリデが頻繁にこの集落へ薬を届けるのは、敗残兵の治療に使うためだった。
『おや、薬師さん今日もご苦労さま』
『ええ、こんにちは。本日も薬をお持ちしました』
『毎度ありがとうございます。本当に助かっています』
『最近集落で変わったことはありますか?』
『特に変わりありませんよ。戦士の方々が元気すぎるくらいです』
『ふふふ、それは良かった!』
集落の顔役に挨拶を済ませると、ウィリデは集落の外側のテントに向かった。そこには件の戦争で負傷した子鬼族と大鬼族の戦士たちが療養している。
『おや、薬師さんこんにちは』
『こんにちは。お加減はいかがですか?』
『おかげ様で、すっかり腕は動くようになりましたよ。ウチの若い衆も痛みがすっかり取れたようです』
ウィリデは戦士長の背中越しに見えるテント内の寝台に目をやる。そこには包帯を巻いた戦士たちが笑顔でウィリデを見ていた。ウィリデは笑顔を返すが、内心は喜び半分、悲しみ半分といったところだった。
彼らの内、半数以上は今後まともな生を歩むことはできないだろう。腕を失った者、片足を失った者、光を失った者、声を失った者、戦士たちの傷は不可逆なものばかりである。薬師であるウィリデは彼らの痛みを緩和することはできても、失ったものを取り戻すことはできない。この集落に来る度に、戦士たちの笑顔を見る度に、ウィリデは薬師としての限界と己の無力さを感じていた。
『それでは今日も薬を処方していきますね』
処方中は患者である戦士の話を聞くのも薬師であるウィリデの仕事のひとつだった。
戦士たちの話は当然ながら戦場での話だった。中でも、件の戦いで敵方にいたやたらと強い人の戦士の話題が多い。
右肘の上から先を切り落とされた小鬼族の戦士の話である。
『いやあ、一瞬のことでしたね。棍棒を振り掛かったらいつの間にか消えたんですよ。あの金色の戦士が。
身をかがめていたんです。視線は私の方が遥かに低いのに、私の視界から消えるくらい低くです。ようやく私がそれを認識して、棍棒を振りかぶる向きを変えた瞬間、手応えがなくなったんですよ、棍棒を握る手応えがね。
肘から先がバッサリですよ。しかもご丁寧に関節の隙間を縫ってです。あまりにも綺麗に斬られたので、痛みを感じるまでしばらくかかりました。私が膝をつくころには、その戦士はもう目の前にはいませんでしたね。まるで雷光のような戦士でした。
治療が終わったらどうするんですかって? そうですね……故郷で訓練所でも開きますかね。次世代の戦士を育成するんです』
そう語った戦士の顔は片腕を失ったというのにどこか晴れやかだった。
次は片足を失った大鬼族の戦士の話だ。
『あんなに小柄なのに、俺の攻撃を受け止めたんです。それどころか十合ほど打ち合って、こちらが押し切られました。一合一合が重くて鋭いんです。まるで山を相手にしているようでした。
足を落とされたときは死を覚悟しましたね。偶然味方が駆けつけてくれたおかげで、命は拾いましたが……この足じゃあもう一度戦場に経つのは難しいでしょうね。あの戦いの目的と意義を考えると……とても悔しいですね……。
傷が完治したら軍に戻ろうと思います。片足は無くなりましたが、まだ俺にできることはあるはずです』
そう語った戦士は慣れない松葉杖の練習をしながら、悔しさに顔を滲ませた。
次は比較的軽傷だった子鬼族の戦士の話だ。彼は戦士たちの中で最初に回復し、今では集落の警備やウィリデの手伝いなど、何でもマメにこなしていた。
そんな戦士は日課の鍛錬中にその重い口を開いた。
『私は幼馴染と共にあの戦士に立ち向かいました。二対一ということもあり、戦いは優位に進みました。しかし、すぐに私の親友に不幸が訪れたんです。
私の剣が壊れたのです。私と幼馴染は焦りました。
かの戦士はその一瞬の混乱を見逃さず、幼馴染に猛攻を加えました。当然耐えられるわけがありません。私は幼馴染が斬り殺されるのを見ていることしかできませんでした。
悪いのは私です。前日、あれほど幼馴染が武器の手入れは欠かすなといっていたのに、私は従いませんでした。私が……あいつを殺したようなものです。
このままでは終われません。いつかあの戦士と再びまみえて、親友の仇を取ります。そうすることで私の罪を贖います』
そう語った戦士は濁った目で虚空を見ながら、一心不乱に剣を振り回していた。
ウィリデは戦いを好まなかった。むしろ、嫌悪感を覚えるくらいで、戦士たちがどうしてそこまで戦いに執着するのか理解できなかった。戦いなんてなくなればいい。皆絵を描いて、歌を歌った方が幸せになれると考えていた。
しかし、そう考えていてもウィリデが表立って戦いに反対しないのは、その生業にある。
薬師とは戦いによって生かされているのだ。戦いがあるからこそ薬に大きな需要が生まれ、薬を対価にウィリデは富を得ていた。そして、その富は重篤な患者を治すための薬の材料を手に入れるために充てられている。それが戦いを嫌悪する薬師の落とし所だった。
そんな戦士たちの話を思い出しながら、戦士たちに薬を処方するウィリデ。全員の診療を終えるころにはすっかりと太陽は傾いていた。
(そろそろアレを取りに行かないとね)
簡単に戦士たちに別れの挨拶をすると、ウィリデはテントを後にした。次に向かうのは集落の近くにある小さな空き地だ。
『おや、いらっしゃい。待っていましたよ』
空き地でウィリデを待っていたのは鼠族のトレーダーだった。大きな風呂敷の上に商品を広げて、折りたたみ式の小さなイスに腰掛けながらパイプを使って煙を吸っていた。
『それは止めるようにいったはずですが。多少ならば精神を和らげる効能がありますが、あなたのように毎日吸う方には害しかありません』
『カッカッカ、薬師さんは手厳しい。いいんです、この生業はいつ死ぬかもわからないので。健康な未来ではなく、楽しい今ですよ』
『全く……』
目を細めながら煙を浮かべるトレーダーにウィリデはやれやれとため息をついた。
このトレーダーはトレーダーを自称してはいるものの、その商売の実態は商いというよりは盗掘だった。彼は人、魔族のもの問わず廃村に赴き、使えそうなものを収集し、それを売ることで利益を得ているのだ。収集中に誰かと出会えば、それが人であれ魔族であれ即座に盗掘者としてその場で断罪される。いつ死ぬかもわからないとは、それを指していた。
そんなトレーダーはウィリデにとって、人の作った芸術品を手に入れるための窓口であった。
しかし、今回ウィリデが求めたのは芸術品ではない。
『それで薬師さん、一体どういう理由があってこんなものを注文をしたんです?』
『……おや、注文したものの用途は聞かない約束では?』
『カッカッカ! これは失敬、失敬。薬師さん、あなたとは長い付き合いですが、こんなものを注文されたのは初めてで、つい気になってしまいました。忘れてください』
トレーダーはぷかぷかと煙をくぐらせる。
『まあ、私としてはこれがどう使われようとどうでもいいんです。持ち帰るのにそれほど苦労しないのに、とても高価な薬と交換してくれるんですからね。トレーダーとしてこれほど楽な商売はありません』
そういうとトレーダーは風呂敷の上に転がった袋を、煙が昇るパイプで指す。ウィリデはそれを拾い上げると、口を広げて中を確認した。
『ありがとうございます。流石のウデですね』
『カッカッカ! また何か入り用でしたら、おっしゃって下さい』
ウィリデは風呂敷の上に薬が入った小包を置くと、トレーダーの元を後にした。そして、集落に戻ると顔役に挨拶を済ませて、小屋へ帰った。
(ルークス、喜んでくれるかな)
夕日が紅の森を照らす帰り道。ウィリデはそんなことを考えていた。
袋の中のこれを見れば、きっとルークスは喜んでくれる。そして、その喜びはウィリデの罪悪感を軽くするだろうし、何よりも素晴らしい絵を描くことに繋がるはずだ。
(楽しみだなあ……)
今からでもルークスの喜ぶ顔が想像できる。自ずとウィリデの足は速くなった。
ウィリデが違和感を覚えたのは小屋が見えたときだった。小屋の中でウィリデの帰宅を待っているであろうルークスが小屋の外にいたのだ。
(え? ルークス? どうして外に?)
ルークスは立つでもなく、座るでもなく、うずくまるように地面に伏せていた。
(傷が開いたのか!?)
ウィリデの頭に最悪の結末が浮かぶ。すぐさま近づこうと駆け出したとき、ルークスは動いた。
ルークスは痛みにうずくまっていたのではなかった。剣を腰に差し、姿勢を低くしたまま構えていたのだ。
その腰から放たれる鈍銀の一閃は正に会心。紅に染まる夕空に届き、真っ二つに切り裂いたように見えた。
ぶるり、とウィリデは身体を芯から震わせ、抱えていた袋を落としてしまった。袋の口からはいくつもの筆や塗料が入った小瓶が顔を覗かせる。
空を切り裂いたルークスは残心する。冷たさを孕んだ風が、その美しい金髪がたなびく。紅い夕陽に照らされたその姿は、周囲の影と共に不気味なコントラストを描く。
「おかえり」
ルークスは短くそういったが、ウィリデは何も返すことができなかった。
ルークスは戦士なのだろうか。その問の答えは真だ。
では、ルークスは一体どういった戦士なのだろうか。後方支援を行う補給部隊? それとも遠距離で戦う弓兵隊? それとも……。
ウィリデの疑問の答えは目の前にあった。
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