剣と筆_7

 白、彩り豊かな季節を越えた先にあるものがそれである。寝起きの太陽が地平線から顔を出す時間帯であれば、尚のこと世界は白い。

 そんな世界の中で、小さく長い呼吸音がひとつあった。その音は周囲の雪に吸収され、音を発している本人にしか聞こえない。


 呼吸の主はルークスだった。足を肩幅ほどに開き、右手に握った剣を低く構えている。その目は閉じられており、まるで瞑想しているようだった。時折、白い息が口から漏れる。


(……)


 木枯らしがルークスの金色の髪を揺らす。


「っは!」


 虚空を真一文字に一閃。ルークスの剣が空を切る。そしてすぐさま、隠れていた小動物が一斉に逃げ出す。ルークスはそれを見て、ほくそ笑む。確かな満足感と達成感を感じたのだ。


 想定よりも早く力を取り戻すことができた。それもこれも、あの日、鍛錬している姿がウィリデに発見されたおかげである。

 傷を治療する代わりに絵を描いて欲しい。その約束を破り、傷が完治したらそのままウィリデを殺す。それがルークスの計画だ。当初はウィリデが外出中に密かに体力を取り戻し、鍛錬を行う予定であったが、あの中秋の日、鍛錬している姿を目撃されてしまった。当時のルークスはようやく鍛錬を開始したばかりである。ウィリデがどれほどの力を持つかわからない以上、ルークスは万全でない状態で事を構えたくなかった。


 そこで、ルークスはひとつの賭けに出た。

 堂々とした態度に出たのだ。やましいことなんて一切ありませんよ、といわんばかりにだ。下手に隠せば疑念が生まれ、その疑念はやがてルークスの計画の露呈につながるだろうという判断からだった。


 結果として、ルークスは賭けに勝った。

 ウィリデは魔族にも関わらず、人であるルークスの剣技の鍛錬に一抹の不安を抱くこともなく、それどころか「適度な運動は予後が良くなるね」とまでいったのだ。そういった経緯があり、ルークスは当初の目標よりも早く力を取り戻すことができたのだ。


 ルークスは再び集中する。冷風が汗濡れの身体を撫でるが、動じない。小さく息を吐き、最適な剣の軌道、最適な剣の振り方、最適な力の入れ方をイメージする。

 予想外が乱立する戦場で生き残るためには、瞬時に場に適応し、最小限の動きで敵の首をはねなければならない。そのために、剣を振るイメージの鍛錬は欠かせないのである。


「ふっ!」


 一心を込めた剣が振られる。剣は先程の軌道とは違い、縦に一閃。

 また構え、イメージ、そして斬る。

 構え、イメージ、斬る。

 ルークスは何度も、何度も繰り返す。


(もし、あいつが心変わりしたとしても、今の俺ならば……返り討ちできる)


 ルークスは剣を踊らせ、雪を散らせる。


(もしも、逃げるなら、それでいい。手間が省ける……)


 構え、イメージ、そして斬る。


「はああああ!」


 渾身の袈裟斬りを放つルークス。地響きのような音とともに、木々にかかった雪が一斉に落ちる。それが、鍛錬での最後の一撃だった。




「ふう」


 鍛錬を終えたルークスは深呼吸をひとつ。手近な枝にかけた手ぬぐいを取ると、汗濡れの身体を拭く。そして、胡座を組んで目を閉じると瞑想を始めた。


 身体を脱力させて、深呼吸。肺に冬の冷たい空気を取り込む。肺に入った冷気は背中を伝って頭に届く。鍛錬で火照った頭を冷やし、冷静にさせる。冷静になった頭で鍛錬を振り返り、次の鍛錬につなげる。ルークスが剣の師に教わったルーティンだ。


(叔父上は元気にしておられるだろうか)


 瞑想に雑念が混じる。


 都市に帰ることが現実になった今、ルークスが気にするのは叔父のことだった。考えてみれば、自分が倒れた戦いがどういう結末を辿ったのかルークスは知らない。勝利したのか敗北したのか、それとも辛勝だったのか。それを知る方法はここにはない。

 とはいえ、叔父は王国随一の猛者。魔族相手に連戦連勝を重ねてきた人である。恐らく、あの過酷な戦場でも無事勝利し、今頃は大笑いしながら次の戦いに備えているだろう。



 どちらにせよ都市は今大変な時期にあるだろう。ルークスは早く都市に戻って叔父の力になりたかった。両親亡きルークスを引き取り、後見人になってくれた叔父の元に。


「よし」


 瞑想を切り上げるとルークスは立ち上がった。まだ、身体の芯に熱がこもっているような気がする。汗は引いたはずなのに、まだ何かまとわりついているような感覚がした。


 ルークスはその感覚を拭い去るために小川へ向かった。叔父との思い出を思い出しながら。



「ガッハッハ! ルークス、そんなんじゃあ立派な貴族にはなれないぜ?」


 澄んだ青空の下に雲を散らすような豪快な笑い声が轟く。声の主は豊かな髭を蓄えた、身なりの良い大男だった。片手に木剣を持ち、地面に膝をつくルークスを楽しそうな目で見ている。

 ルークスはそんな大男を地面に臥しながらも見上げる。訓練場の土は柔らかく舗装されており、ルークスの身体を優しく包み込んでいた。


「叔父上、もう一本お願いします!」

「根性だけはあるようだな。いいだろう、来い!」


 ルークスは年齢が十になった頃、より良い教育を受けるために親戚の元に預けられていた。

 ルークスは将来、父親の後を継いで領主になる。そのためには領地経営などの知識だけでなく、領地を外敵から守るための軍事の知識も学ばなければならない。当然、自ら戦う能力もだ。

 軍事に明るい家庭教師を雇うこともできた。しかし、こと軍事に関しては非凡な人間が身内にいた。

 それがルークスの叔父であるパトルスだ。


 ルークスは立ち上がると剣を構える。それは教科書に載っているものと寸分違わない、誰もが知っている貴族の剣の構えだった。一方、パトルスはルークスのように剣を構えることはせず、剣を持った腕をぶらりと下げた自然体。


「はあああああ!」


 ルークスは渾身の力を込めてパトルスに斬りかかる。


「ふん!」


 パトルスは攻撃を受け止めると、そのまま力任せにルークスを剣ごと薙ぎ払った。ルークスの身体はそのまま宙に浮き、吹き飛ばされる。

 どしゃり、とルークスは再び訓練場の地面に頬をつける。空を仰ぎ見るルークス。「ズルい」そう思った。

 そもそもルークスとパトルスは子供と大人である上、生まれ持った体格も違う。当然、使える筋肉量は違うため、真正面から攻撃してどうにかするのは不可能である。


「いいか、ルークス。お前が将来戦う魔族はな、俺よりも遥かにデカい。そんなやつ相手に正面から力押しするのは無謀だ。今みたいに吹き飛ばされて終わりだ」

「では、どうするんですか?」

「こうする」


 パトルスは訓練場に並べられた木人の前に立つ。精密に魔族の五肢を再現しており、子鬼族や大鬼族など大小さまざまな魔族が用意されている。

 選ばれたのはその中でも一番大きなものだった。大鬼族の木人でパトルスよりも頭二つ分ほど大きい。


 姿勢を低くするパトルス。一呼吸置くと一気に踏み込み剣を振るった。一、二、三、とつんざくような轟音が続く。

 ルークスが木人に目をやると、腕や脚の関節部が引き千切られたようにえぐれているのが見えた。


「剣を振る速さ、それと剣を撃つ正確さが何よりも重要だ。魔族は分厚い皮膚や毛皮を持っているから、それが薄い関節部を狙うんだぞ。いいか、なんとなくで剣を振るんじゃなくて、ちゃんとイメージして振るんだ」

「イメージ……ですか」

「そう、イメージだ」


 ほら、お前もやってみろ、とパトルスはルークスに目線で合図する。ルークスは立ち上がり、木人の前に立つとパトルスと同じように剣を低く構える。


 そして、イメージする。


 獰猛で邪悪な魔族。村を襲い、田畑を荒らす魔族。人を殺し、食らう魔族。

 巨大な棍棒を振り回す魔族。腕を振り上げて拳を放つ魔族。鋭い爪を振りかざす魔族。

 その息遣い。その血潮の軋む音。大地を踏みしめる振動。それらを一息で止められる場所を。イメージする。


「はあ!」


 コン、コン、コンと三度素っ頓狂な音が木人から鳴る。パトルスのときと同じように木人の関節部がえぐれることはなく、わずかに凹むのみだった。ルークスの手には少しの達成感もなく、強い痺れが残るだけだった。木剣を握り続けることができず、思わず落としてしまうルークス。


 そんなルークスを見てパトルスは目を見開いた。そして、うんうんと頷きながらその豊かな髭を弄りだす。


「ガッハッハ! ルークス、お前にはまだ早かったか! まあ、お前はまだ成長期だからな! いずれ力はつく。今は焦る必要はない」

「……もっと精進します!」

「その意気だ!」


 ルークスは日が落ちるまで剣を振り続けた。疲れ果てて立てなくなる頃には、太陽は地平線に沈んでいた。




 その夜、ルークスはパトルスと夕食を摂っていた。二人の前には食べ切れないほどの料理が並んでいる。東国の香草に南部諸国で穫れる鹿肉、北方の塩漬け魚卵などなど、世界各地から取り寄せた食材がふんだんに使われている。

 王国のいち都市がこれほどまで多種多様な食材が集まるのには理由がある。パトルスが収める都市は王国内で最も魔族の住む領域に近い。集まってくるのは必然的に腕に覚えのある戦士である。当然、その戦士たちの生活を潤すために商人の需要が高まる。さらに、既得権益が固まった中央から離れていることもあり、世界中から無名ではあるが力のある商人が故郷に錦を飾ろうと集まるというわけだ。それゆえ、世界中の名産品がこの都市に集まるのだ。


 パトルスは肉汁が滴る料理にかぶりつくと、そのままぶどう酒で流し込んだ。


「ガッハッハ! ルークス、お前は兄貴と違って剣の筋がいい! 将来は立派な貴族になれるぞ!」


 訓練所にいたときよりも大声のパトルス。左手に持つ杯が空になると、すかさず使用人がやってきてなみなみと酒が注がれる。すっかりと酔いが回っているようで、少し頬が赤い。


「ルークス、立派な貴族の条件はわかるか?」

「……しっかりと領地を治めて、民を幸福にすることですか?」

「悪くない回答だが、それじゃあ合格点はあげられないな。もっと具体的に、だ」

「うーん」


 ルークスはこれまで勉強してきた知識を思い出し、新たな回答を出そうとする。しかし、そこで叔父が求める答えが、教科書に載っている類のものではないと気がつく。

 そこで、ルークスは父親の仕事風景を思い出そうとした。ルークスの想像する立派な貴族とは、正に父親のことだったからだ。父親が行なった事業こそが、叔父の問いの答えだろう。


「手工業と商業の奨励ですか?」

「ガッハッハ! 流石は兄貴の息子だな! 確かに、手工業と商業に金を出すのは領地経営で重要なことだ。だがな、もっと大切なことがある!」

「もっと大切なこと、ですか?」


 怪訝な顔をするルークスに、ニヤリと笑うパトルス。


「それはな、良い土地を手に入れることだ」

「良い土地……ですか」

「そう、良い土地だ。全ての政は良い土地がなければ始まらない。豊かな土壌がなければ民は飢えてしまうし、いくら手工業や商業を奨励しても、流通の便が良くなければ意味がない。俺は遠征軍を指揮して魔族を打ち倒し、この豊かな土地を手に入れて、拓いた。そのおかげで民は飢えないし、俺たちもこんなに美味いものが食える!」


 パトルスは魚料理に手を付けると、一気に平らげる。机に並べられた数々の料理はもうなくなっていた。


「兄貴は……あんな貧相な土地にも関わらず良くやってるとは思う。だがな、いくら頑張っても悪い土地では限界がある。新しい……良い土地を手に入れなければならない……ルークス、お前からも言ってやれ……」

「ははは……そうですね……」


 酒をあおるパトルス。酔いが完全に回ったのか、徐々に目が虚ろになっていく。


「ルークス……お前は……立派な貴族になれ……兄貴とは違う……」


 ドシン、と机を揺らしながら突っ伏すパトルス。やがてしばらくすると、地響きのような寝息を立てる。

 ルークスが食堂の端で待機している使用人に目配せをすると、二人の使用人がやってきてパトルスを抱える。酔いが回ると饒舌になり、そのまま寝てしまうのはいつものことだった。 


 寝室へ運ばれるパトルスの背中を見るルークス。杯に注がれた水を一口含んだ。



 澄んだせせらぎがルークスの思案を中断する。いつの間にかルークスは目的地である川に到着していた。川の水は凍ってはいないものの、そのまま浸かるにはひどく冷たい。ルークスは手ぬぐいを川に浸して濡らすと、そのまま身体に当てて汗を拭う。


「冷たっ」


 水面を覗き込むルークス。

 そこには金髪の青年が写っていた。日光が水面に反射して、一層その金髪は輝いて見えた。もしも、そこに写っているのが自分と瓜二つの青年でなければ、ルークスは神々しささえ感じたかもしれない。

 青年と目が合うルークス。その瞳には何かを訴えるような強い意志を感じさせる。


「そんなに見るなよ」


 ぱしゃり、と水面が揺れる。ルークスは手拭いを小川に浸し、水面に写った自分の顔を消した。そして、手拭いをきつく絞ると川を後にした。




 カチャリ、と食器を動かす音が小屋に響く。そこには黙々と食事を摂るルークスとウィリデがいた。日は暮れているようで、外から差し込む光はない。食卓を照らすのはたったひとつのロウソクの明かりだけだ。


 静寂を切り裂いて、いつものようにウィリデは口を開く。


「……身体の調子は方はどうかな? ルークス」

「……ああ、すっかり良くなったよ」

「それはよかった! これまで薬師として腕を磨いたかいがあったよ!」


 本日の夕餉は、ルークスは薄くスライスした獣肉を炙って果実のソースをかけたものと山菜のソテー、ウィリデは切り出した生の獣肉と山菜だった。身体がある程度動くようになった頃から、ルークスは自分で自分の料理を作るようになった。それに合わせて台所に料理器具や調味料が徐々に増えていった。もちろん、それらを手に入れるためにウィリデが苦労したことをルークスは知らない。


「……ところでこの前ボクが持ってきた新しい本は読んだかい? とある一族の壮絶な運命を描いた作品なんだけど、登場人物の感情表現の繊細さが素晴らしいから、ぜひともキミに読んでもらいたい。本棚に置いてあるからね」

「……ああ、そのうちな」


 なんとか話題を広げようとするウィリデだったが、暖簾に腕押し。ルークスはいつにも増してそっけない。それに加えて本日のウィリデはどこかぎこちなく、いつもの勢いは鳴りを潜めていた。


 しかし、ウィリデは負けじとさらに話題を振る。


「……そういえば、例の、絵のモチーフは決まったかい?」

「……ああ」

「……それはよかった! 楽しみだなあ……!」


 沈黙が訪れる。時折、小さな音が鳴るが、それは何か意味のある言葉ではなく、ただの生活音。


「……キミの芸術の知識とセンスにはいつも驚かされてばかりだからね、どんな絵が出てきても驚く自信があるよ。どこかで学んだのかな? それともご両親から?」


 静寂。一瞬、世界が止まってしまったのではないか、とウィリデは錯覚した。普段は分厚い毛皮で遮断された冬の寒さも、今だけは感じるような気がした。


 ロウソクが揺れ、ルークスの影が動く。


「……両親は殺されたよ。魔族の手で」

「え?」

「……ごちそうさま」


 ルークスは手に持ったナイフとフォークを置くと、そのまま居室へと戻っていった。いつもならウィリデが一言かけるところだったが、今回はなかった。できなかった。


 ウィリデの頭にルークスの言葉が反芻される。ルークスの両親は魔族に殺された。何かがつながる気がした。ルークスがなぜああも芸術に造詣が深いのか、なぜ戦士をしているのかわかった気がした。


 しかし、それと同時に、自分は大きな間違いをしてしまったとウィリデは思った。




 その夜、ルークスは寝台の上で目を開けた。耳をすませば、近くから小さな寝息がひとつ。

 寝台に立てかけた剣を掴むルークス。抜き足差し足、寝息の主の元へにじり寄る。

 やがて、麦畑の絵が壁に掛けられているのが見える。その下に寝息の主がうつ伏せで寝ている。


「逃げないんだな」


 ルークスはそっとうなじに剣を添えると、そのまま力を込めた。

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