剣と筆_5・下
ウトウトしているウィリデの耳に、雨と焚き火以外の音が混じる。音の方へ目をやると件の元マントの旅人が、カバンから何かを取り出していた。
(あれは……本? あんなに綺麗なものは初めて見ました!)
薄っすらと目を開けて元マントの旅人を観察するウィリデ。旅人は本以外にも羽ペンとインク、そしてナイフを取り出すと、焚き火の明かりをたよりに何か書き込み始めた。サラサラと意思を持った音が洞穴の空気に混じる。
ウィリデは本自体は見たことがあった。麦畑の絵を見つけた廃村にもいくつかあったし、行商人の残骸、旅人の忘れ物など、旅の行く先で度々見かけた。しかし、そのどれもが朽ちかけており、持ち出すことはできなかった。なお、ウィリデは人の文字は読めないし、言葉もわからない。
しかし、言葉がわからなくとも、興味は尽きない。麦畑に魅了されたウィリデは人の産み出す芸術全般を知りたかった。ましてや、目の前で行われているのはただの紙束が意味を持つ本に変わる瞬間だ。自ずとウィリデの耳は焚き火に向いていた。
(一体何を書いているんでしょう……? 気になります……)
ウィリデの喉が鳴る。
(気になります……)
ウィリデの大きな尻尾が動く。
(気になる……!)
いつの間にか元マントの旅人との距離が縮まっていることにウィリデは気が付かない。ウィリデの目は本の中身に向けられていた。
川のようだな、とウィリデは思った。元マントの旅人の筆跡は淀みなく、流麗で、どこか品の良さを感じさせた。もちろん、何と書いてあるかはウィリデにはわからないし、ましてや自分のことが書かれているなんて思いもしなかった。
しばらくの間、二つの影が焚き火を囲んだ。
『あっ!』
ウィリデの声が洞穴に反響し、壁に映し出された影が揺れる。元マントの旅人が急に本を閉じたのである。
もっと見ていたかったのに。ウィリデがそう抗議の目を向けると、二つの緋色の輝きと目があった。元マントの旅人が明確に意思を持ってウィリデを見ていたのだ。
「※※※※?」
緋色の目から語りかけられ、硬直するウィリデ。そんなことをお構いなしに語り続ける緋色の目。
「※※※※? ※※※※※?」
『え、何ですか? 何を言ってるのですか? わかんないですよ』
困惑するウィリデを見て、緋色の目は思案する。すると、何か思いついたのか、本を開くと最後のページを豪快にナイフで切り裂いた。もったいない! とウィリデは思ったが、それをどう相手に伝えればいいかわからない。
緋色の目は裂いたページにペンを突き立てると、何かぐりぐりと模様を描きだした。そして、裂いたページをウィリデの前に突き出し、指を差す。
『何ですか? これ』
ウィリデの言葉を聞いた緋色の目はその口元を蠱惑的に歪ませる。
『ナンデスカ、コレ?』
『え?』
緋色の目はしたり顔でウィリデの顔を見る。
『コレ、ナンデスカ?』
緋色の目はそういうと、焚き火を指差した。そこでウィリデは緋色の目の意図を理解した。
言葉を覚えようとしているのだ。ウィリデの使う言葉を。そのために支離滅裂な図形をウィリデの前に出し、指示詞と疑問詞を引き出したのだ。何の目的で言葉を覚えようとしているのかはわからなかったが、緋色の目からはこちらを害する気配を感じない。
『これは焚き火です』
『コレハナンデスカ?』
『これは本』
『コレハナンデスカ?』
『ペンです』
「※※※※、※※※」
『何と言ったのですか?』
『ナントイッタノデスカ』
時折、緋色の目は自身の言葉を交えながら、手慣れた様子でウィリデの使う言葉を覚えていった。焚き火に照らされて、二つの影は時折身体を重ねながら、交流を深めていく。やがて、嵐は収まったが、洞穴の明かりはしばらく消えることはなかった。
草をかき分けて進む足音が二つあった。その二つの距離はちょうど歩幅一つ分ほど離れており、その距離は二つの関係性を表していた。
足音以外の音もあった。それは声だった。片方は流暢に喋り、もう片方は言葉を覚えたばかりの赤子のようにたどたどしかった。
「キミはどうして旅をしているんだい?」
緋色の目をした旅人がそう言った。その瞳は太陽に照らされ煌々と輝いており、洞穴で見た輝きとは別種の表情を見せていた。ウィリデは一瞬その輝きに呆けたが、すぐに口を開いた。
「ボクハ、麦畑ケヲ探シテイル」
「麦畑?」
「ソウ、絵ノ中ニアル」
「絵の中に……? それは……とても楽しそうだね」
「キミハドウシテ旅ヲシテイル?」
「うーん、なんでだろうね……」
深く考え込んでしまう旅人を見て、ウィリデは何かマズいことでも言ってしまったのかと心配したが、すぐにそれが杞憂だとわかった。
「罪滅ぼし……かな。ボクは罪を犯したんだ。誰でも犯しているほんの些細な罪をね。でもボクはその罪に耐えられなかった……」
「……何ノ罪ヲ犯シタノ?」
「それは……人を人と思わない罪。ボクはね、異端審問官をしていたんだ。キミたち魔族や、魔族に協力的な人を秘密裏に処理する仕事さ」
二つの影の間に乾いた風が吹く。魔族を積極的に倒そうとする人の存在は知っていたものの、目の前にいる旅人がそういった存在だとは信じられなかった。そんな元異端審問官がどうして魔族である自分に友好的なのか、どうして魔族の言葉を覚え、人の言葉を教えようとしたのか。様々な疑問が浮かんだが、考えてもその答えは出てくることはなく、答えを聞き出す言葉も思いつかなかった。
そんなウィリデを見て、旅人は謝りながら申し訳無さそうにはにかんだ。
「ああ、そうだ」
旅人はそう言うと、立ち止まり、カバンから本とペンを取り出した。そして、何かを書き込むと、そのまま本をウィリデに差し出した。
「困らせちゃったお詫び。これをあげるよ」
「イイノ?」
「いいのいいの」
「デモ、文字ハマダチャント読メナイ」
「大丈夫だよ。言葉を覚えられたキミなら、きっと文字も覚えられるよ」
「ソウカナ……」
「文字を覚えたら、最後のページを読んで欲しい」
本を受け取るとそこには旅人の使う文字で何か書かれていたが、何と書いてあるかはウィリデにはわからなかった。本を落とさないよう、汚さないよう、ウィリデは本を両手でしっかりと持つ。そして、旅人が歩き出すとそれに合わせて歩みをすすめた。
ウィリデと緋色の目をした旅人はしばらくは共にいたが、またしばらくすると自分が元いた場所へ戻るように何事もなく自然と別れた。それからウィリデは二度と旅人と出会うことはなかった。
・
・
・
「とまあ、こんな具合でボクはこの本を旅人から貰ったんだ。別れた後、ボクは旅を続けながらキミたちの使う文字を勉強した。かなり大変だったけど、時間だけはあったからね。旅が終わることにはすっかり、言葉も文字もマスターしたってわけ」
「なるほど……それで、本には何と書いてあったんだ?」
「ふっふっふ、キミも気になっちゃうんだ」
「……」
これ以上会話するとウィリデを調子づかせてしまう。ルークスはそう判断すると、ニヤニヤするウィリデをよそに本のページをパラパラとめくる。一方のウィリデは気を使ったのか、ルークスを居室に独りにするとどこかへ行ってしまった。
旅人の日記には本当にとりとめのないことが書かれていた。その日の天気、朝食べた飯の味、滞在した村の人々との交流、そして灰緑の魔族と出会ったこと。内容は平凡ではあるが、そのどれもが報告書のように詳細に書かれていた。
そして、ページをめくり続けると件の最後のページにたどり着いた。そこにはこう書かれていた。
『旅の終わりに何を見ましたか?』
その文章は誰でも読むことができるように、美しいユニカル体で書かれていた。
これはウィリデに向けられたメッセージだ。麦畑を見つける旅の中で、どんな経験をして、どんな成長をしたのか確認させようとしているのだろう。なんと慈悲深いことか。向ける対象が魔族であることを除けば、件の旅人が元聖職者だというのもうなずける。
(しかし……元はあの名高い異端審問官だったというのに……どうして魔族に手を貸したんだ?)
ルークスの知る限り教会は対魔族における急先鋒だったはずだ。その中のエリートでもある異端審問官ともなれば、手にかけた魔族の数は常に戦場にいたルークスとそう変わらないだろう。
(この旅人は今もまだ旅をして、魔族に言葉を教えまわっているのだろうか。いや、していたとしても俺にはそれをどうすることもできない……今、考えるべきなのは……)
計画を遂行するために余計なことは考えるべきではない。ルークスはそう結論付けると、旅人のことは一旦忘れることにした。しかし、その瞳は吸い込まれるように日記に書かれた文章に引き寄せられる。
『旅の終わりに何を見ましたか?』
その言葉に妙な胸の疼きを感じた。しかし、その正体は何なのかルークスにはわからなかった。
『旅の終わりに何を見ましたか?』
自分にとっての旅とは何だろうか。両親の敵を取ることなのだろうか。計画を完遂させることなのだろうか。それはいつ終わるのだろうか。終わった先に何があるのだろうか。ルークスの頭の中に疑問がひしめく。
パタン、と空気が圧縮される音が居室に響く。ルークスは思考を無理やり停止させるために本を勢い良く閉じたのだ。
すると、小屋の外からはしとしとと雨が降る音が聞こえてくる。やがて、地響きのような雷鳴をきっかけに雨脚が強くなり始める。急速に雲が厚くなり、小屋に差し込む太陽の光が弱くなる。居室の中もすっかり暗くなってしまった。
「強くなりそうだね、雨」
火の着いたロウソクを片手にウィリデが居室にやってくる。そして、ロウソクから居室に備え付けられたカンテラに火を移し、ロウソクに息を吹きかけ火を消した。居室に柔らかな光源が生まれ、壁面にルークスとウィリデの影を生み出す。その二つは不規則に、近づいたり遠ざかったりゆらゆらと揺れている。
しかし、いつまで経っても二つの影が交わることは決してなかった。
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