剣と筆_10
無地のキャンバス。ウィリデはそれをじっと見ていた。
キャンバスの前には椅子に腰掛けるルークス。その手には筆と絵の具が載ったパレットが握られている。時折、ルークスは筆をキャンバスに向けるが、その先端が無地に触れることはなかった。ルークスは何日も、何日も筆の先端をキャンバスの手前で止めていた。
(やっぱり……絵を描いてもらうのは……止めた方がよかったかもしれない……)
大都市から帰ってからすぐ、ルークスは絵を描く道具をウィリデにせがんだ。ウィリデはまだ心の傷は癒えていないと判断して拒んでいたが、その必死な表情に根負け。ついにはキャンバスと顔料、そしていくつかの筆を渡してしまった。
しかし、ウィリデの心配とは裏腹に、ルークスは慣れた手つきでキャンバスを立て掛け、顔料を混ぜ合わせてパレットに色とりどりの絵の具を作っていった。
絵を描くことが心の癒やしになる者もいるとウィリデは知っている。ルークスもそういった性分なのかと安堵したが、そこまでだった。
ルークスはいざ筆を取り、最初の色を筆に付け、キャンバスの前に持っていくとそこで腕を止めてしまうのだ。そして、またしばらくして別の色を取り、キャンバスの前へ持っていく。しかし、また止まる。まるで、そこに透明な壁があるかのように、ルークスの筆はキャンバスのすれすれの位置で止まってしまうのだ。
絵の描き方を忘れたわけではないのだろう。筆をキャンバスの前へ持っていくまでの動きは、素人のウィリデから見ても洗練されていたし、何よりも顔料から調合された絵の具は今にも踊りだしそうなほど鮮やかだ。昔取った杵柄は今でもルークスの中に息づいていることがよくわかる。
だから、ルークスは絵の描き方がわからないのでも、忘れたわけでもないのだろう。何を描けばいいのかわからないのだ。描きたい絵が見つからないのだ。
(やっぱり、ルークスが描きたい絵でいいよ、っていう注文はアバウトすぎたよね……。ボクだって患者さんにあなたが処方したい薬ならなんでもいいっていわれたら困るし。うーん、でも何を描いてもらえばいいか……。絵を描かなくてもいいとは絶対に伝えられないし)
今のルークスから死に至る病を遠ざけているのは、ウィリデと交わした絵を描くという約束だ。しかし、今ルークスはその約束のせいで絵を描かなければならないと信じて、苦しんでいる。もし、死に至る病がなければ、すぐにでもウィリデは約束を撤回していただろう。
まさに雁字搦めだった。今ウィリデにできることはサポートすることだけだったが、何をどうサポートすればいいかわからなかった。
無地のキャンバスから目を離し、ルークスの横顔を覗き見るウィリデ。その顔はやはり青く、焦りが混じった苦悶の表情を浮かべていた。
(一日中キャンバスの前でああやっているのは、精神衛生上よくはない……何か気分転換させてあげたいけど……)
そこでウィリデは気がつく。ルークスが何が好きで何が嫌いか、何で気分転換できるのか自分が知らないことを。
当然、気分転換になるのは好きなことである。あるいは、嫌いなこと、苦手なことから離れることも気分転換になるだろう。だがしかし、ウィリデはルークスが何を好きなのかも、何が嫌いなのかも知らなかった。
凄腕の戦士だということは知っている。芸術に造詣が深く絵を描く技術を持っていることは知っている。亡き両親を今でも深く愛していることは想像がつく。知っているのはそれくらいだ。同居人として知っておくべきことは何も知らない。好きな食べ物は? 好きな景色は? 好きな季節は? ウィリデは何も知らない。
薬師として、同居人としてルークスの死に至る病を治すためには、努力不足であることは否めなかった。
(何かきっかけが……! ルークスのことをよく知るきっかけが欲しい……!)
ウィリデはそう思ったが、結局のところアイデアが出ることはなく、何か実行に移すことはなかった。
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ある日の早朝、ウィリデは薬を納品するために魔族の集落を訪れていた。相対するのはいつもの取引相手である鼠族のトレーダーだった。大きな風呂敷の上に商品を広げて、折りたたみ式の小さなイスに腰掛けながらパイプで煙をくぐらせている。
『ええ!? こんなに薬が必要なのですか?』
『近頃人の動きが活発になりまして……どの集落にも怪我人が溢れているそうです。もちろん、集落には薬師や医療の心得を持つものはいますが、手が回らない状況だと聞いております』
『……なるほど、わかりました。私の方でもできる限り薬を用意しましょう』
『カカカ、流石は薬師さんだ、話が早い。安心してください。報酬はしっかりと約束させていただきますよ』
ウィリデはトレーダーから受け取った注文が書かれた木版を再び見る。そこには魔族の文字でどの薬がどれだけ必要なのか記されている。
定期的にウィリデは薬をトレーダーに卸していたが、今回の発注量はいつもの三倍はあった。いつも正午から日が落ちるまで作業していることを考えると、しばらくは朝から日が暮れた後も動かなければならないだろう。いや、薬の材料となる薬草を採る時間も考慮すると、もっと早くか。
木版を凝視しながら静かに唸るウィリデ。煙を吹きながらそれを見ていたトレーダーは、ウィリデに助け舟を出す。
『そういえば、小耳に挟んだのですが、薬師さんの部族は代々薬の製作をしているとか。もしよろしければ、紹介などしていただけないでしょうか。あなたの部族の手を借りられるなら、薬師さんの負担を減らせると思いますが』
『私の部族の……!? うーん……申し訳ありません。実は……私は部族から出奔した身、取り次ぐどころか、私からの紹介と聞いたらすぐに追い返されてしまいますよ』
『カカカ、そうですか、そうですか。デリケートなことを聞いてしまいましたね。申し訳ありません』
『かまいませんよ。薬はきっちり仕上げてきますので、ご心配せずに』
ウィリデは強くそう宣言すると、トレーダーの元を後にした。
魔族の集落からの帰り道、ウィリデは薬草を採取していた。作業時間ならばある程度短縮はできるだろうが、薬草の採取だけは短縮できない。それどころか気候が悪ければ、毎回訪れている採取地で薬草が採れない可能性すらあるのだ。薬草が採れなければ当然、薬を作ることはできない。
しかし、それでもウィリデが無理な大量発注を受けたのは、困っている者を助けたい以上に、薬を作るのが楽しいからだ。薬草ひとつひとつはそれほど効能が強くはないのに、混ぜ合わせれば強い効能が生まれる。しかも、混ぜ合わせる比率を変えれば、全く異なる効能が発現するときもある。それがなんだか不思議で、魅力的なのだ。
絵もそうだ。ひとつひとつの色は単純なのに、それが集まれば本来の色よりもより鮮やかに見える。物語もそう。音楽もそう。ウィリデの芸術好きは薬を作ることが好きの延長線上にあった。
(えーっと、ポタンは日光が当たりやすい場所に生えるから、この辺りに……)
両親から教えてもらった薬草の知識を思い出しながら手を動かすウィリデ。周囲の自然から薬草が生えそうなポイントを見つけ出し、手際よく採取を進めていく。
(実家かあ……父さんと母さんは元気にしているかな……)
トレーダーとの会話をきっかけに、ウィリデは自分がいた部族のことを思い出す。トレーダーのいう通り、薬の作製を代々生業としている部族だ。当然、ウィリデも物心つく頃から薬の作り方や薬草の集め方を叩き込まれた。
(でも、やっぱり戻れないよなあ……。いや、今はそんなことを考えているヒマはない! 薬をたくさん作れるよう色々と揃えなきゃ!)
手早く薬草を集めていくウィリデ。小屋に帰るころにはすでに正午を回っていた。
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『ええっと、次は刻んだトムハギに水を注いで……いや待て待て、先に煮詰めてる鍋に水を足さないと……。ああ! もうカミンの皮がこんなに少なくなってる……明日採りにいかないと……』
ぶつぶつといいながらテキパキと手を動かして薬を作っていくウィリデ。時折鼻を鳴らして匂いを確認しながら、調合した薬が正しく精製できているか確認していく。いつもはのんびりとお茶でも飲みながら気ままに薬を作っていたが、今日からはそうもいっていられない。トレーダーに大見得を切ってしまった今、間に合いませんでしたでは済まない。
(猫の手も借りたいとはこのことだね! まあ猫に薬を作ることはできないけど……)
そこでウィリデは気がついた。同居人に猫よりも薬を作れそうな者がいるではないかと。頼みを断られる心配はないだろう。先程から忙しくしているウィリデのことを居室からチラチラと心配そうな目で見ている。
(……もしかしたら、ルークスの気分転換になるかも?)
ウィリデは一旦作業の手を止めて、ルークスが絵を描いている居室へ足を伸ばした。ウィリデが居室へ入ってくるとルークスは筆を置き、ウィリデの言葉を待った。ウィリデが何を言おうとしているのか、わかっているようだった。
しかし、ウィリデは中々言葉を切り出さない。いざ、ルークスを前にすると、自身の提案がルークスのためになるのか心配になってしまったのだ。ひねり出した言葉はなんとも歯切れの悪いものだった。
「あの~、ルークス? 忙しいところ申し訳ないんだけど……ちょっと手伝って欲しいことがあって……」
「なんだ? いいから話してみろ」
「その……実はお得意さまが入り用らしくてね、たくさん薬を作らなきゃあいけないんだ。それで、ちょっと今、手が足りてなくて……お手伝いを頼みたいんだけど……いやいや、忙しかったらいいんだけど……」
「いいぞ」
「やっぱダメだよね……え? いいの!」
「大変なんだろ? 手伝うよ」
「や、やったー! ありがとう、ルークス! もちろん、一番難しい工程はボクがやるし、ルークスにやってもらうのは子どもでもできる作業だから安心してね!」
ルークスの返事に気をよくしたウィリデ。キャンバスの前に腰掛けるルークスの手を取ると、そのまま踊るようにキッチンへと誘導した。
「じゃあ説明するね。今から作るのは切り傷用の軟膏だね。まずはこの乾燥したトムハギの草とカミンの皮、それとポタンの葉を二対二対六の割合で混ぜて、細かく砕く。こんな感じにね」
キッチンの作業場の前で、一体と一人は並ぶ。ウィリデは器用に広げられた薬草をすり鉢にいれると、乳棒を使って叩く。それぞれ異なる大きさの薬草は砕かれることで均一の大きさの粗い粉末になっていく。
ウィリデは隣に並ぶルークスに目配せをして、やってみてと促した。ルークスは見様見真似でウィリデの動きを模倣し、同じように粗い薬草の粉末を精製した。
「そしたら、次は薬効成分の抽出だね。鍋に砕いた薬草を入れて、ひたひたになるくらい水を入れて、そのまま煮立てる」
薪を竈の中で組み上げ、火打ち石で炎を灯すウィリデ。やがて、上に据えられた鍋はぐつぐつと音をたてて煮立つ。
「重要なのは火加減だね。焦がしてしまったらその鍋は全部ぱーになっちゃうから煮立ったらすぐに弱火に変えるんだ」
「ああ」
そういうとウィリデは組み上げた薪を崩していく。すると、鍋の水面でぶくぶくと破裂していた水泡は小さくなり、静かにふつふつと音を立て始めた。
「ボクは匂いで判断してるけど、ルークスは色を見て判断してもいいかもね。入れた水がこんな感じに濁って茶緑色になったら抽出完了の合図だ。少し冷ましたら、次は布を使って濾していくよ。軟膏の傷への当たり方が変わるからね、ここはしっかりとやっていくよ」
「わかった」
ウィリデはダイニングテーブルに器を並べると、三種類の布と三つの容器を取り出す。そして、目が一番粗い布を器の上に敷いて、鍋の中身を注ぎ始めた。
溶け切らなかった薬草の繊維が布によって阻まれ、薬効が溶けた液体が細やかに濾される。そして、器を入れ替えながら上に敷く布を徐々に目が細かいものへと変え、軟膏の元をよりきめ細やかに濾していった。
それを見て、ルークスもヘラを使いながら丁寧に軟膏を濾していく。
「よし、これくらいさらさらしたら大丈夫かな。最後はきれいな鍋に戻して、もう一度温める。今度は直接火にかけるんじゃなくて、湯煎でね。それで、温まってきたら蜜蝋を投入して、なじむまでかき混ぜるんだ。ほら、やってみて」
「ああ……」
ウィリデから匙を受け取るルークス。そのまま鍋に突っ込むと、外周から底を返すように混ぜ始める。
「おっ!」
「……なにか間違っていたか?」
「ううん! 大丈夫大丈夫、続けて」
突如声を上げるウィリデに怪訝な顔を返すルークスだったが、そのまま鍋を混ぜ続ける。軟膏の元に空気が混じり始め、だんだんとルークスの手にもったりとした確かな手応えを感じさせる。
「これくらいでいいか?」
「うんうん、いい感じだね。じゃあ鍋からこっちの容器に移し替えて、冷ましたら完成だね!」
一人と一体の前に小さな容器に入れられた独特の臭いを放つ軟膏が並ぶ。ウィリデはその中からひとつ手に取り、臭いを嗅いだり、軟膏を手に広げてその感触を確かめた。
(うんうん、初めて作ったにしては上出来じゃあないか! この品質ならそのまま納品してもよさそうだね……。やっぱりルークスって……手際がいいなあ!)
薬草の配合はウィリデがやったとはいえ、完成した軟膏の出来はこれまでウィリデが作ったものと遜色がなかった。特に、感触がきめ細やかで、これならば傷に塗ったときに痛みはほとんど感じないだろう。
恐らく、顔料から絵の具を作るときの技術を応用したのだ。初めておこなう作業の中に自身が持っている技術との共通点を見出すのは、正にルークスの想像力が成す技だった。
「ねえ、ルークス。初めて薬を作ってみて、どうだった? 難しかった? それとも簡単だったかな? 楽しかったらいいんだけど……」
「……正直、見様見真似でやっていたから、難しいとか簡単とかは、よくわからない」
「うんうん」
「だが、楽しいかと聞かれたら……そんなに、悪くはなかった」
「それは、よかった……! じゃあどんどん作っていくよ!」
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