剣と筆_11
茶褐色の地面は左右の草木をかき分け、一本に伸びている。ルークスとウィリデ、一人と一体はそんな獣道をまっすぐに進んでいた。
地面を照らすのは夜明け前の太陽のぼんやりとした薄明かりのみ。森に住まう獣たちの目はまだ覚めていないようで、静寂の中には足音とわずかな呼吸音しかなかった。
目的地は季節が変わるたびにウィリデが訪れているという採取地だ。そこで採れる薬草や果実が件の薬の大量注文に必要なのである。ゆえに、一人と一体は採取に必要な道具を背負っていた。
道中、一人と一体は静かだった。先頭をいくウィリデはルークスが進みやすいよう、獣道を整備して忙しいし、後ろをいくルークスは心ここにあらずといった様子でなにやら考え込んでいる。
(……絵が描けない。どうしてしまったんだ、俺は?)
叔父が治めていた都市を離れてすぐに、ルークスはウィリデと交わした約束を守るために絵を描き始めた。ルークスにはそれしかできることがなかったからだ。
ウィリデに画材を貰い、慣れた手つきで木枠に布を張ってキャンバスを作り、顔料を油に混ぜて塗料を作った。そして、いざ最初の一筆をキャンバスに向けると、まるで金縛りにあったようにルークスは動けなくなった。頭が真っ白になってしまったのだ。
もう一回、もう一回と何度もキャンバスに筆を落とそうとするが、筆がキャンバスに触れることはなかった。
極論、絵というものは上手い下手を考慮しなければ、適当に筆に塗料をつけて、適当に筆をキャンバスに振れば完成する。どんな幼子でも、どんな老人にでもできるだろう。
だがしかし、ルークスにはその適当ができない。適当には適当なりの基準や価値観があり、価値観があるからこそ適当は適当になり得るのだ。価値観の失墜したルークスはまさに灯りなしで暗闇を歩いている状況。適当に前へ進むことはできない。立ち止まることしかできないのだ。
(ああ……どうやって絵を描いていたんだろう……わからない……)
まるで昔の自分が他人のように思えて仕方がなかった。あの屈託のない笑顔を浮かべて両親の愛を受けていた少年は本当に自分だったのだろうか。ひょっとしたらあの少年は自分ではなく、自分は魔族をただ殺し続けただけの孤愁人なのではないか。孤独感がルークスを苛む。
そんなときだ、ウィリデがルークスに薬を作る手伝いを頼んだのは。
本来は何が何でも絵を描くことを優先しなければならないが、絵を描くと約束したウィリデたっての頼みだ。それは絵を描くことと同じくらい重要な頼みである。ルークスに断る理由なんてなかった。
薬作りはルークスにとって新鮮な体験ではあった。料理と似ているが、薬作りはそれよりも地味で厳密だ。何よりも初めての作業であるから、すべてウィリデが指示してくれるのが今のルークスにとって楽だった。
「大丈夫かい? 汗びっしょりだけど……ちょっと休もうか?」
先頭を歩くウィリデはルークスの様子がおかしいことに気がついて足を止める。後ろに控えたルークスの足も自ずと止まった。
「大丈夫だ……進んでくれ」
荒い息を吐くルークスはそういった。
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採取地に着くころにはすでに太陽は地平線から顔を出していた。本格的な夏の到来はまだ先で所々春の匂いが残っているが、日向にいると少し暑い。採取地は太陽を一様に浴びるように、ルークスとウィリデの前に広がった。背の高い広葉樹林に囲まれた空間に、ルークスの身長ほどの低木が並び、橙色の実をいくつも付けている。
「さあ、着いたよ。ここがボクが普段使っている採取地さ。今日はここでトムハギの草とカミンの実を集めていくよ」
「ああ、わかった」
「じゃあまずはカミンの実から集めよう。こっちは簡単だからね」
ウィリデは低木の一本に進み、ルークスもそれに続く。
カミンと呼ばれる果実をルークスは知っている。両手を使って握り包めるほどのサイズの橙色の実で、ルークスもしばしば口にしたことがあった。だが、目の前の低木に生えるものはルークスが知っているものよりも一回りは小さく、表面の色も橙色一色ではなく所々青みがかっている。
「元々ここにはこんなにたくさんのカミンの木はなかったんだよね。毎年ちょっとずつ植えていってやっとこの数になったんだ。いやあ大変だったよ」
「小屋の近くに植えればよかったんじゃないか? それなら移動時間も短縮できて便利だったろう」
「うーん、何回か試したんだけど、上手く育たなかったんだよねえ。土壌が合わないのか、水が合わないのかわからないけど。生まれ育ったこの場所が一番合うみたい」
ウィリデはそう話しながら、低木に生えた橙色の実を片手で包み込むように添える。そして、もう片方の手をへたに近づけると、鋭い爪を立ててもぎ取った。枝から離れた実は地面に落ちることなく、ウィリデの手の中に収まる。
それをウィリデは用意しておいた籠の中へ優しく入れた。
「カミンの実は傷が付くとすぐに腐食が始まるから、ていねいに採るのが重要だね。あらかじめ実を手で抑えて、切ったときに地面に落ちないようにするのがポイントさ。ボクは爪でやっちゃうけど、ルークスはナイフを使った方がいいかな。鞄の中にあるから使ってみて」
「ああ」
ルークスは肩からかけた古びた鞄の中身をさらう。中には石でできた鎌や傷薬、水袋などが入っている。さらに、動物の革で作られた小さな入れ物の中には、黒曜石でできた手のひらサイズのナイフがあった。
ルークスはナイフを手に取ると刀身をじっと眺める。所々打ち付けられた刀身は、日光に照らされて鱗のような模様を描いている。まるで何か意味のある模様が浮かんでいるように見え、ルークスの瞳はその黒紫に吸い込まれる。
「さ、手早くやっちゃおう」
ルークスの思考を遮るように声をかけるウィリデ。我に返ったルークスは低木のひとつに向かい、作業を始めた。
その背中を見送るウィリデは、胸にざわざわとした感覚を感じた。
作業を進めるうちに太陽は頂点へと昇り、気温がじりじりと上がってくる。身体を動かせば汗をかくには十分な温度だった。
「結構集まったね、ルークス。とりあえずカミンの実はこれくらいにして、ちょっと休憩しようか」
「……そうだな」
ルークスはウィリデに連れられて木陰になっている地面に腰掛ける。そして、側に橙色の実がどっさりと入った籠が置かれる。
「はいこれ」
「ああ」
ウィリデは鞄から干し肉を取り出すとそのままちぎり、半分をルークスに渡した。一人と一体は干し肉を口に含みながら、少し淋しくなった低木の群れを眺めた。
橙色の実のほとんどは刈り取られ、まだ青さが残る未成熟の実のみが残った。ウィリデ曰く、残った実は成熟しても刈り取ることはせず、そのまま小動物や鳥の餌にするらしい。そうすることで、動物の残留物が低木の栄養となり、また来年もたくさん実を付けてくれるようになるそうだ。
「今年はいっぱい取れたねえ」
「そうなのか」
「そうなの。いつもは半分くらいしか実がつかないから、気候がいいのかも。実もひとつひとつが大きいし」
そして、ウィリデは籠の中から一番大きな橙色の実をひとつ取り出す。
「ねえ、一個食べちゃおうか。口直しということで。干し肉だけだと淋しいでしょ」
「いいのか? 薬の材料にするんじゃないのか?」
「いいのいいの。薬に使うのは皮の方だし、どうせ小屋に戻ったらたくさん食べることになるだろうからね。今食べても同じだよ」
ウィリデはそういい終わると同時に皮を剥き始めた。外皮よりも鮮やかな橙色の柔らかい果肉が露わとなり、辺りに甘い香りを漂わせる。そして、果肉を半分に割ると、片方をルークスに差し出した。
橙色の実を受け取ったルークス。それを凝視する。ウィリデの方を見るとすでに口に入れたようで、小気味いい咀嚼音が聞こえてくる。意を決してルークスも橙色の実にかじりついた。
「うっ」
思わず声を上げるルークス。想像よりも酸っぱかったのだ。いくら味覚が鈍っているとはいえ、この酸味はおおよそ人が食べられるものではなかった。
ルークスが食べたことのあるカミンの実は、どれも名のある業者が栽培した貴族に卸すような品種ばかりだ。当然、酸味はほとんどなく、甘みが強い。
「あはは、そっちはハズレだったみたいだね。すごい酸っぱそう」
野生の味に顔をしかめる同居人を見てウィリデはからからと笑う。そして、もうひとつ橙色の実を剥くと、半分をまたルークスに差し出した。
「今度はアタリが出るといいね」
橙色の実にかぶりつくルークス。ぼやけた甘みが口の中いっぱいに広がる。強い酸味を感じた後だからなのか、その甘さはなんだか心地よかった。ルークスはもう一口果実を口に含んだ。
そんなルークスを見て、ウィリデは何もいわず、目を細めた。
低木を撫でるように風が吹き、ざわざわと葉を揺らし、まるでさざなみのような音を立てる。風は低木だけでなくルークスとウィリデも撫で、一人と一体に清涼感を与える。
「さて、そろそろ休憩は終わろうか。次はトムハギの草の採取だねえ。もうひと仕事がんばろう!」
「ああ、そうだな」
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トムハギの草を集め終わるころにはすっかりと日が落ちかけており、辺りをカミンの実のような橙色に染めていた。ルークスとウィリデは帰る支度を済ませて、採取地から出ようとしていた。
「ふう、いっぱい採れたねえ。これだけあれば注文の薬を作るのに十分だよ。手伝ってくれてありがとうね、ルークス」
「……気にするな」
ウィリデの背負う籠にはカミンの実が、ルークスの背負う籠にはトムハギの草がぎっしりと詰まっていた。
「ああ、そうだ。帰り道ちょっと寄りたいところがあるんだけどいいかな? キミに見せたいものがあるんだ」
「わかった」
来るのに使った道とは別の道を進むウィリデ。ルークスもそれに続く。
採取地までの道はウィリデが頻繁に訪れていることもあり、伸びた枝は刈られ、地面も固く踏み抜かれて獣道と呼べる程度は整備されていたが、今ルークスとウィリデが進む道はまったくの未開に見えた。先頭を進むウィリデはルークスが歩きやすいよう、その鋭い爪で枝や葉を手折りながら進む。登坂を進んでいることはルークスはわかったが、どこへ着くのか想像もつかなかった。
やがて、森をかき分けて進み続けると、開けた場所に出た。
そこは切り立った崖の頂上になっており、採取地の森全体を俯瞰できる場所にあった。鬱蒼と続く森は地平線まで続いており、夜空と歪に混じりあっている。黄昏時に照らされた森の赤と、群青の夜空のコントラストは絢爛でどこか畏怖を感じた。
「ここはね、滅多に来ないんだけどボクのお気に入りの場所なんだ。今の季節の今日みたいによく晴れた日はこんなに綺麗な夕焼けが見れるんだよ」
しみじみとそういうウィリデだったが、その言葉はルークスに届いていなかった。
ルークスは目の前の夕焼けに目だけでなく、心も奪われていたのだ。
それはなんだか懐かしくて、暖かくて、優しかった。大昔にも同じような気持ちを抱いたことがあるとルークスは気がついた。ただ、それがいつなのかは思い出せない。少なくともわかるのは両親が殺される前だということだけだ。
「ルークス、大丈夫?」
「……あ、ああ、大丈夫だ」
ウィリデのささやきで我に返るルークス。今度は落ち着いて目の前の景色を眺める。
「ホント……いい景色だよねえ。麦畑の絵の元になった景色もこんな感じだったのかなあ」
麦畑の絵。その言葉をきっかけにルークスの中に思い出が染み出してくる。
この採取地の景色を見て感じた感情は、父親が所有する別荘にいたときに感じたものと同じだった。別荘の側にある美しい湖畔も空と水平線が交わるコントラストが美しかった。そのコントラストに惹かれて、大切な人に見せたくて、知ってもらいたくて、ルークスは湖畔の絵を描いたのだ。
ルークスの中にまるで湧き水のように思い出が溢れて、涙が溢れた。
沈みゆく太陽に一歩近づき、何かを掴み取ろうと手を伸ばすルークス。手の甲の輪郭に沿って、うっすらと血潮が見える。
「大丈夫?」
先ほどと様子の違うルークスを心配して、ウィリデはそう声をかけた。
しばらくすると、ルークスは太陽に背を向けてウィリデの方を向いた。
「ああ、大丈夫だ」
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