剣と筆_9・下
「ルークスが帰ってこない……」
小屋の中でウィリデはそうつぶやいた。
昨日の朝、目を覚ますと珍しくベッドの上にルークスがいなかった。部屋の中にも、部屋を出た先にあるダイニングにも、小屋の外にも影も形もない。
そういう日は大抵、小屋の近くで剣の訓練をしており、昼前には帰ってくる。しかし、昨日は帰ってこなかった。それどころか、日が沈んでも、また日が昇ってもルークスが帰ってくることはなかった。共同生活が始まってもう一年近く経つが、初めてのことだった。
「うーん、まさか……トラブルに巻き込まれたとか? この辺りは誰も住んではいないけど、集落も遠いわけじゃないし……」
ウィリデがまず考えたのは、ルークスが魔族と出会い、トラブルになってしまった可能性だ。凄腕の戦士であるルークスだからこそ最悪の事態になりかねない。万一のことを考えるとすぐに薬を持って探しにいかなければならないだろう。
しかし、ウィリデがそうしないのは、ルークスは魔族と出会っておらず、トラブルは起きていないと考えたからだ。日課の野草摘みに出かけた際、辺りに血の匂いを始めとする戦いの痕跡は感じなかったし、薬を届けた集落で人の戦士が出没したという情報は全く聞かなかった。そもそも、ウィリデが住まう小屋は森の深くにあり、わざわざ魔族が立ち寄る場所でもない。現に、もう何年も森の中でほかの魔族を見たことはなかった。
トラブルに巻き込まれた可能性がない以上、ルークスは自らの意思で小屋を離れたのだ。それが意味することはひとつしかない。
「ルークス……ちゃんと帰れたかな」
帰ったのだ。ウィリデとの約束を破って、ルークスは元々自分がいた場所へ帰ったのである。
これでウィリデの、人に絵を描いてもらうという目的は果たせなくなった。しかし、ウィリデはルークスに対して失望も怒りも感じなかった。
そもそも、身体の治療を盾にした不公平な約束だ。折を見て改めて絵を描いてもらえるよう頼み込むつもりであったから、ウィリデの中で約束はすでに形骸化しており、効力を失っていた。
加えて、魔族と人が共に過ごすこと自体が異例なことで異常なのだ。水と油のように決して交わることはない。いつか破綻するのはわかっていたし、そのいつかが今だったというだけだ。
ただ、失望も怒りも感じなかったウィリデだったが、少しだけ悲しかった。ルークスと過ごした日々は、ウィリデにとって楽しかったのだ。
絵の保存方法、古い書籍の手入れ方法、肉の切り方にカトラリーの使い方、綺麗にさえずる鳥の名前、聞いたことのない人の言葉、ルークスはたくさんのことを教えてくれた。どんなに小さく些細なことでも、一日にひとつでも新しいことを知ることができるのは楽しかったのだ。
だから、ルークスがいない生活に戻るのは悲しくて淋しい。悲しくて淋しいとはいえ仕方がない。自分とルークスは魔族と人だ。この一年がただ特別な日々だったのだ。ウィリデはそう自分にいい聞かせた。
「はあ……」
傾いた麦畑の絵を直しながら、大きくため息をつくウィリデ。願わくば、わがままが許されるのならば、もう一度ルークスの顔を見たかった。言葉は交わさなくていい。遠くから見守るだけでいい。ただ、ルークスが元気でやっているのか確認したいのだ。そう、これは経過観察。ルークスの治療が上手くいったかどうか、身体がちゃんと治ったかどうか最後に確かめるだけなのだ。これは薬師として当然の、やらなければいけないことなのだ。
ウィリデはそうやっていい訳をすると、足を小屋の外へ向けた。
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『それで……あなたたちは金髪の戦士に返り討ちにあったんですね?』
『ええ、そうです。全く、あんな凄腕が護衛してるなんて聞いていませんよ。これじゃあ商売あがったりです!』
『それなら、盗賊まがいのことはこれっきりにすることです』
しばらくして、ルークスを追うウィリデは魔族の一団と共にいた。彼らは皆武装しており、人の街道から少し離れた丘陵に野営していた。話を聞いてみると、どうやら昨日、人の隊商を襲ったらしい。
しかし、彼らは失敗したようだ。野営地にいるほとんどの魔族は重症な上、端には何かを隠すように寝藁が積まれている。
『……その隊商はどの方角に進みましたか?』
『薬師さん、あの隊商を追うのですか? それはやめた方がいい。我々は十四名もの戦士で襲いましたがこの有り様です。あなた一人でどうにかできるものではない』
『別に襲いにいくわけでは……』
『まあしかし、治療もしていただいたことですから、お教えしますけどね。あの隊商は東の街道を進みましたよ』
『東の街道……? それはつまり……』
『そう、”あの”都市ですよ。一年前、同胞が大攻勢をかけようとした、あの大都市です』
ウィリデの予想はやはり的中していた。
ルークスを追うと決めた後、次に考えるのは彼がどこへ行ったかである。彼は戦士であり、一年前の大都市を狙う魔族と人の戦いに参加していたと考えると、そこに住んでいたと考えるのが妥当である。ゆえに、ウィリデは東の大都市を目指して、ルークスを追い、この魔族の一団と会ったのである。
今すぐにこの野営地を後にすれば、ルークスに追いつけるかもしれない。しかし、今ウィリデは野営地を発つことはできなかった。野営地には怪我をした戦士が多すぎるのだ。彼らの中に医療の心得を持つ者がいないのか、あるいはあの寝藁の中にいるのか定かではないが、応急処置で済ませている者しかいない。薬師として、この状況は看過できない。
それに、元々は彼ら魔族の戦士たちの自業自得ではあるが、傷をつけたのはルークスだ。一年も共に暮らした元同居人として、そのおこないはできる限り正したかった。
そういった思惑があり、ウィリデは野営地の魔族一体一体に治療を施すことにした。
『薬師さん、我々はね、あの戦いに直接参加できなかったんです。後詰めとして待機していて、あの激戦があった平原にはいなかったのです。敗残する同胞を見て、我々がどう感じたかわかりますか?』
『……いえ』
『我々も”ああ”なりたかった、と思ったのです。負けるなら、戦って負けたかった。戦わずに負ける、これほど屈辱的なことはありません』
『だからあなたたちはこんな盗賊まがいのことをして、その鬱憤を晴らしているのですか? それに何の意味があるんですか?』
『薬師さんはあの戦いに参加していなかったそうですね。それならば、我々の気持ちは理解できないでしょう。しかし、意味を考えると……意味などないのかもしれません。だけど、何かをせずにはいられないのです』
まあその結果が今の惨状なので目も当てられませんが、といい終えるとその魔族は黙り込んでしまった。そして、ウィリデもその話題について口を出すことはなかった。
やがて、ウィリデは野営地にいる者の治療を一通り終えた。日はすっかりと傾いており、今から野営地を発っても、しばらくすれば寝床を確保しなければいけない時間になる。ルークスとの距離は広がるばかりだった。ルークスが都市に入ってしまえばそれ以上は追えなくなる。焦れるウィリデだったが、最後まで魔族たちの前でその姿を見せることはなかった。
『薬師さん、何から何までありがとうございました』
『いえ、薬師として当然のことをしたまでです。……では、そろそろ私はここを発ちますね』
『本当にありがとうございました。あなたが何をするために、あの隊商を追っているのかはわかりませんが、武運を祈っています』
『……ええ、ええ。私もあなた方が無事に故郷へ帰れるよう祈っています』
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丸一日後、ウィリデはある森の中にいた。ウィリデが暮らす森と比べれば林に近かったが、漆黒の闇が森を大きく見せていた。
ルークスはそんな森の中心にいた。幸いなことにルークスは都市の中にいなかったのだ。しかし、どうも様子がおかしかった。理由は定かではないが、なぜか泥まみれで地面に座り込み、うなだれているように見える。口元はかすかに動いているようだが、雨が地面を叩く音で何をいっているのかは聞き取れない。見えるけれど聞こえない。二つの距離はそれくらいだった。
(さて……どうしようか。そもそもここまで来てしまったけど、しゃべりかけていいものか。イヤイヤ! ここまで来たんだから何か話したいな。どういう調子で話しかけようか……いつものようにおどけた調子で……? イヤイヤ、仮にもルークスはボクとの約束を破ったんだ。厳しい態度でいかなきゃこっちの面目が丸つぶれだよ。でもそれはそれで、ルークスもバツが悪いだろうし……)
ルークスを目前にして考え込むウィリデ。すると、ルークスの方で動きがあった。
右手に持った剣を腹に突き立てると、そのまま力を込めようとしたのだ。
「え?」
あまりにも自然で不可解な動きにウィリデは一瞬動揺してしまった。しかし、背中を伝うピリピリとした悪寒で我に返り、何かを考える前に駆け出した。
(何やってんの!? 何やってんだ!)
四肢を使った全力疾走でも間に合わない距離。ウィリデはそれがわかっていても駆け出さずにはいられなかった。そして、ウィリデと同じく、ルークスも剣に力を込めることをせずにはいられなかった。
剣の切っ先がルークスの腹を確かに捉えた。
ウィリデは間に合わなかった。
間に合わなかったが、ルークスの身体は傷つかなかった。腹に突き立てた剣は力を込められた拍子に、まるでガラスが砕けるかのように破砕したのだ。摩耗しきった刀身はそのまま重力に従って、泥の中に落ちた。
そして、ウィリデがルークスの元に間に合った。
「何やってんのさ!」
「……お前は……どうしてここに?」
急に現れたウィリデを見て、まるで何も見えていないかのようにルークスは眉ひとつ動かさなかった。
「そ、そんなことはどうだっていいんだ! キミは……一体何をしているんだい!?」
「俺は……何をしたいんだ?」
「え?」
「何をしたかったんだろう……?」
支離滅裂な返答をするルークスに、ウィリデは困惑した。いつもの理知的な表情は見る影もなく、たどたどしくて弱々しい。瞳の焦点は合っておらず、ウィリデを見ているようで見ていない。どこか迷子の子どもを彷彿とさせるような表情だった。
そこでウィリデはひとつの病に思い当たる。
(死に至る病……!)
それは大昔に人の医者が発見した病である。内傷や外傷が無いにも関わらず徐々に生気が失われていき、そのまま自らの手で死を選んでしまうと伝えられている難病だ。長い研究の末、精神性の疾患ということまでは判明したが、治療方法はまだ確立されていない。
しかし、ひとつだけわかっているのは治療に当たる者は一挙手一投足、ちょっとした会話にも気を配らなければならないことだ。過去の文献によると、『がんばって治療していきましょう』の一言で患者は死に至ったという。
(死に至る病については素人だけど……どう診てもルークスの症状は末期だ。今まさに死のうとしていたことがその証拠……! まずは何としても死ぬのを止めないと!)
そのためなら実力行使も辞さない。ウィリデはそんな腹づもりだった。
ウィリデはルークスの側に寄ると、剣の破片を隠すように陣取った。死をできるだけルークスから遠ざけるためにだ。そして、所在なさげなルークスの腕をとると、包み込むように手のひらを握り、まるで何かを教え諭すように口を開いた。
「じゃあ、ボクの小屋を出てから何があったか教えてくれるかい?」
ルークスはぽつぽつと口を開いた。
ウィリデの小屋を後にして街道に着いたこと、街道で出会った隊商の護衛をして魔族を追い払ったこと、都市に着いて両親の仇が叔父であると知ったこと、そしてその叔父を自らの手で殺したことを。
そして、ウィリデとの出会いから遡って、戦争で多くの魔族を殺したこと、魔族を殺すために昼夜問わず剣を振り続けたこと、剣を振るのは魔族に復讐するためだったこと、両親を魔族に殺されたと思っていたことをまるで濁流のように、口から吐き出す。
それを聞いてウィリデはなぜルークスが一流の戦士なのに芸術の造詣が深いのかわかった気がした。両親から受け継いだ、芸術に向けられていた想像力をすべて魔族へ復讐することに注いだのだ。その想像力は剣を鋭く振るイメージへと昇華されたのである。
それがわかると同時に、ウィリデの胸は締め付けられるように痛んだ。
(ボクは……なんて酷いことをしてしまったんだ。両親を魔族に殺されたと思っていたルークスに、絵を描いて欲しいだなんて……。絵を描く約束をしたとき、ルークスはどんな気持ちだったんだろう……)
きっと、それは憎くて憎くてたまらなかっただろう。そんな相手の言葉で、死に至る病を止められるだろうか。
(あっ……)
そこでウィリデは気がつく。ルークスの死に至る病を止められる、唯一の言葉を自分が持っていることに。その言葉はすでに価値を失っていたが、ルークスには効果的だろう。なにせ、ルークスは十年近くも復讐を続けるくらい生真面目なのだから。
しかし、その言葉はあくまで一時しのぎであり、欺瞞でもある。この言葉によって将来的に死に至る病がより悪化する可能性もある。
だから、ウィリデは選択した。
「ルークス、キミはすごく頑張ったんだね。そんなキミを労いたいんだけど、何かできることはあるかい?」
「……わからない。今はとにかく寝たい……」
「そっかそっか。じゃあ身体をきれいにして温かい場所で寝なくちゃね」
「……そうだな」
「じゃあ、さ。良かったらボクの小屋に来ないかい? 近くに身体をきれいにできる川もあるし、温かい寝床もあるよ」
「……それは……できない……もうこれ以上誰かに迷惑はかけられない」
ルークスの反応はウィリデの予想通りだった。勘違いで魔族を殺し続けてきたので、これ以上は魔族の手を煩わせるわけにはいかないと考えているのだろう。どこまでも律儀で、どこまでも生真面目だった。だからこそ約束という言葉が刺さるのだ。
「おやおや、ルークス、キミはそんなことをいえる立場なのかい?」
「……どういうことだ?」
「ルークス、ボクは悲しいよ。キミとボクが結んだ約束を忘れてしまうなんて……!」
「……あ」
「キミの身体の治療の代わりにボクに絵を描く、忘れたとはいわせないよ! 診たところ、キミの傷はまだ治っていないようだね。だったら、まだボクが約束を守る番だ。さあ、帰るよ!」
ウィリデの言葉を聞いたルークスは困ったように微笑みを浮かべる。
「ああ、そうだ、そうだったな……」
ルークスはそういうと、安心したのか全身の緊張を解いて、泥の中に倒れ込んだ。ウィリデはそれを優しく抱き上げると、そのまま運び出した。
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