剣と筆_9・上
灰色の思い出は、いつまで経っても色褪せない。浅い呼吸、痺れる足、その感覚をルークスは覚えている。十年前のあの日、魔族の追手を振り切るために母親と走ったときの感覚だ。当時と違うのは、ルークスはすっかりと成長しており、その感覚に耐えることができることだ。あの日は歩みを止めてしまったが、今度は止まらない。暗黒街を駆け抜けて、ルークスは叔父の住まう館へ向かっていた。
館は都市の中心部にある。武断的な領主の性格もあってか訓練場が隣接しており、日中は戦士たちの声によって賑わっている。しかし、日が落ちて戦士たちが街へくり出せば、打って変わって静かになる。
館の前には二人の守衛がいた。もちろんルークスは顔見知りであったが、彼らの前を素通りして、少し離れた塀をよじ登り敷地内に侵入した。正面から入ることもできたかもしれないが、今は自分が生きていることを説明する時間すら惜しい。
館を目の前にし、首元に張り付いた汗を服の袖で拭うルークス。じっとりと粘り気のある湿度のみが残った。雨が近い。
静かに館に侵入するルークス。広い玄関ホールには誰もいなかったが、あちこちに人の気配がある。使用人の休憩所からは談笑が聞こえてくるが、ルークスに気がついた様子はない。
「……何だこれは!」
玄関ホールに並べられた調度品を見て思わずつぶやくルークス。そこにある花瓶、彫像、ソファ、そのどれもが見たことがあるものだった。元々それらの調度品は、両親から受け継いだ屋敷に置いてあったものだ。自分の屋敷にあったものが、どうして叔父の屋敷にあるのかルークスにはわからない。
疑問を胸に抱えながら、ルークスは領主の居室を目指して階段を登る。
そして、階段を登った先にあるものを見て、ルークスは膝が崩れ落ちそうになった。
「……どうして……お母様の絵が……」
階段を登ってすぐの壁、階段を登った者が誰でも目にする位置に、ルークスの母親であるマーサの肖像画が掛けられていた。その絵はとある昔に父親のパテルが描いて、マーサに送ったものだった。芸術的な価値はほとんど無いが、ルークスの一家にとって家宝にも等しい絵だった。間違っても叔父の屋敷にあって良いものではない。
(理由が分からない……!)
ルークスの額から粘り気のある汗が吹き出し、胃がキリキリと痛み出す。まるで違う世界に迷い込んでしまったような、そんな不安がルークスを襲う。
(遺言はどうなったんだ……!?)
ルークスは両親の遺産を継ぎ、そして魔族への復讐を誓ったとき、万一に備えて遺言を残していた。それは財産に関するもので、ルークスが戦死した場合、遺産は教会が運営する孤児院へ寄付、領地は国王に返還することになっていた。一年近く死んでいたのだから、
(財産が無くなっていることは覚悟していた……無くなったとしても納得はできる……しかし! 叔父上、どうして!)
平民が公証人役場で作る遺言とは違い、ルークスたち貴族の遺言はときの王が直接的に証人となる。つまり、遺言をその通りに実行しないことは、王に対する反逆を示していた。そんな危険なマネまでしてどうして遺産を求めたのかルークスにはわからなかった。
疑問の答えはすぐ近くにある。ルークスは重い足取りでパトルスがいる執務室を目指した。
扉は来訪者を拒む素振りを見せず、少し開いていた。空気の移動する気配を感じる。部屋の窓も開けて風の通り道を作っているのだろう。
ルークスは音を立てることもいとわず、扉を押した。
「誰だ? こんな時間にノックも無しに……」
執務机の前に座りながら書類に目を通すパトルス。扉が開いた音に反応して、目線だけを動かした。たちまちに表情は驚きに変わり、口からは意味を持たない言葉の幕開きだけが漏れ出る。やがて、頭の中で状況が整理できたのか、椅子から立ち上がりルークスの元へ駆け寄る。
「……ルークス、生きていたのか……! 本当に、本当に良かった……!」
「叔父上、戻るのが遅くなってご心配おかけしました……あの戦いで重症を負い、近隣の村で療養をしていたのです」
ルークスはあらかじめ考えていた嘘の話をした。当然のことながら魔族に手当を受けていたなんてことは口が裂けてもいえない。
「そうか、そうか! 連絡があれば迎えを出したというのに、お前というやつは全く。もっと手間をかけさせてくれ!」
パトルスは両手をルークスの肩に置くと、その存在を確かめるように優しく力を込めた。そして、ようやく何かに納得したのか、手を離すと豊かな口ひげを弄り始める。
「……まあ、色々と積もる話もあるだろう。夕飯は済ませたか? 何か用意させよう」
「いえ、済ませたので結構です」
「ガッハッハ! そうか、そうか!」
窓から風が吹き、重石が乗った書類の束がはためき、ルークスとパトルスの間に冷風が流れる。パトルスはその風を止めようと、窓辺に寄って窓枠に手をかけた。
「……そうだ、ルークス。お前が生きていることを知っている人はいるのか?」
「叔父上以外にいませんよ。療養していた村には旅の戦士で通していましたし、ここに戻ってからも人々を混乱させないよう素性は隠していました」
「そうか、そうか! では、追って皆にもルークスが生きていたことを伝えなければな!」
ルークスとパトルスの間にまた風が吹く。パトルスは窓を閉めずにじっと外の夜景を見ていた。そこには夜空の星々のように漆黒の中で輝く町並みが広がっている。そんな叔父の背中を見て、ルークスは口を開く。
「獣の牙」
「……巷を騒がせている傭兵集団の名前だな。それがどうかしたのか?」
「その構成員がこの館で働く庭師を狙っているようで、どういうことか問い詰めました」
「……そうか、良くやった」
「ごまかさないでください! 獣の牙は叔父上、あなたが作ったんですよね!? 無法者たちを組織して表沙汰にはできないことをさせる。一体どういうおつもりなのですか!?」
「……ルークス、領主というのはあらゆる手段を使って領民を導かなければならない……たとえそれが非合法な手段であってもだ。お前もそのうち分かる……!」
「では、あの廊下に飾った母上の絵はなんですか? どうして我が家の財産がここにあるんですか? 遺言では孤児院に寄付されるはずだったのに! 非合法どころか、王への反逆とも取られかねない行為です。どうして!?
「……それは」
「叔父上……私は、あなたのことがわからなくなりました……」
「……」
ぴしゃりとパトルスは窓を閉じた。そして、ルークスの方へ身体を向けると、まっすぐに目を交差させる
「……これは、ある男の話だ。名家に生まれた男は何不自由なく生活し、勉学や武芸に励み功績を上げ、国内有数の実力者になった。しかし、地位も名誉も手に入れた男だったが、満たされることはなかった。男には自分よりも出来のいい兄がいたんだ。周囲の男に対する評価は常に、出来のいい兄の弟だった。
そして、男には愛する女がいた。美しく、気立てが良く、そして強かな女に男は入れ込んだ。しかし、男は選ばれなかった。選ばれたのは男の兄だった。
自分のプライドを常に傷つけられ、さらには愛する者を奪われた男に最後に残されたものは、復讐だけだった。
復讐は入念に準備された。悪事をこなせる腕の立つ者を集め、魔族に扮する訓練を受けさせ、あらゆる情報網を活用して男の兄が無防備になる機会を調べ上げた。
そして、決行した。魔族にカムフラージュした一団で、領地の視察中の兄を襲って、ついに男はこの手で復讐を果たしたのだ」
無表情でそう言い放ったパトルス。それを聞いたルークスはまるで頭を打たれたかのようにふらつき、膝を床につける。
(……叔父上は一体何を言っているんだ……?)
パトルスの言葉は耳を通して確かに頭へと届いたが、肝心の頭がその内容を理解することを拒んだのだ。
「……叔父、上は……父上と、母上を……手にかけたの……ですか……?」
「そうだ」
「では……十年前の……魔族の襲撃は……叔父上が仕組んだことなのですか……」
「そうだ」
「……私の目の前で……母上を殺したのは……あなたなのですか……? 魔族に扮して……?」
「そうだ」
絞り出した言葉は強く、静かに肯定された。
(叔父上が……仇? なら、今までの……この十年は何だったんだ?)
両親亡き後のルークスを引き取ったのは紛れもなくパトルスだった。そして、両親を殺したのは魔族だと伝えたのも、魔族に復讐する力を与えたのもパトルスである。それが指し示すことはひとつしかない。
死霊のようなうめき声を上げ、ルークスは頭を抱えた。やがて、うめき声は嗚咽へと変わり、嗚咽と共にルークスの中にあった全てが流れ出した。
そして、空虚になった心には後悔のみが残った。
執務室の外から騒がしい足音がいくつも聞こえてくる。
「パトルス様!」
執務室になだれ込んできたのは、領主の兵士たちだった。パトルスは窓から夜景を見るふりをして、兵士の詰め所へと合図を送っていたのだ。
「そこにいる者は、亡き我が甥のルークスを語るどころか、この俺の命まで奪おうとした賊だ! ひっとらえて処刑しろ!」
「かしこまりました!」
結局のところパトルスはルークスの真面目さに漬け込んで利用していただけだった。元々殺す気でいて、生き残ってしまった。利用できたから殺さなかった。利用できなくなった今、真実をごまかす必要も無ければ、生かしておく意味もなかった。
ひとりの兵士が剣を構えてルークスに近づく。ルークスは抵抗するそぶりすら見せない。
「手間をかけさせるなよ」
兵士はそう小さく呟くと、ルークスのうなじに一旦剣を添え、そのまま振りかぶる。パトルスはその様子をじっと見つめていた。
そして、刹那。地面に何かが転がる音がした。落ちたのは兵士の首だった。
突然の出来事に一瞬おののくパトルスと兵士たちだったが、そこは歴戦の勇士。すぐに我に返るとパトルスは剣を抜き、兵士たちはルークスを取り囲み四方から攻撃し始めた。
しかし、ルークスは兵士たちの攻撃をいにかえさずを意に介すことなく、近づく兵士からなぎ倒していく。
ルークスの身体を動かしたのは、皮肉にも戦場で魔族を殺していくうちに身についた経験と技だった。ルークスが剣を振るうのに戦意は必要ではなかった。必要なのは相手の敵意と殺気だった。思考を介していない剣は普段よりも鋭く、まさに技そのものだった。
普段から膂力の強い魔族を相手取るルークスにとって、人の兵士はひどく脆かった。また一人、また一人と兵士が執務室の床に転がっていく。
「ルークスっ!」
兵士だけでは埒が明かないと判断したのか、パトルスはルークスに斬りかかる。鋭く重い一撃はルークスの動きを止めるには十分だった。剣を打ち合う鈍い音が執務室に何度も響く。
(どうして俺は戦っているんだ……?)
朦朧とする意識の中、ルークスはそう思った。
(そう、そうか……俺は復讐のために戦っていた……復讐の相手は……父上と母上を殺したのは……魔族ではなく、叔父上だ……。だから、殺さなければならない……後悔してるヒマなんかない……!)
ルークスは心に残った後悔を焚べて、復讐の炎を再び灯した。幽鬼のようだった表情に生気が宿り、身体に力が蘇る。
「おおおおおお!」
パトルスの攻撃をいなして、雄叫びを上げながら首を狙うルークス。パトルスは寸前のところで躱すと、返す手でルークスの腹を蹴り上げる。すでに二人の周囲に息をする者はおらず、兵士だったものが転がっている。
剣を構え直すルークス。それを見てパトルスも珍しく剣を構えた。
勝負は一瞬だった。パトルスが真っ向から斬りかかると、ルークスは渾身の一撃でパトルスの剣をかち上げた。そして、全体重を乗せて、無防備になったパトルスの腹部目掛けて剣を突き立てる。
うめき声を混じらせながら、パトルスの口から鮮血が流れ落ちる。パトルスの手に握られた剣は軽い金属音を響かせながら床に落ちる。ルークスの刃はパトルスの内臓を突き破っていた。
「ルークス……」
「叔父上……」
目と目が交差する。ルークスは徐々に生気を失っていく叔父の目を見た。その目は先ほどまでの戦いが嘘だったかのように凪いでいた。
パトルスはルークスの肩に手を置くと、何回か優しく叩いた。
「お前は本当に……本当に……」
喉から絞り出すようにパトルスは言葉を紡ぐ。ルークスは剣伝いに弱まっていく鼓動を感じながらそれを聞いた。
「本当に……強くなったな……!」
そういって微笑むと、パトルスはそれから動くことはなかった。そして、ズルリと滑り落ちるように身体を床に沈ませる。ルークスは腹部に刺さった剣を抜いた。
ルークスは両親の仇を討ったのだ。復讐を果たしたのだ。
「きゃああ!」
ルークスが復讐を達成した実感を感じようとした正にそのとき、執務室の外から悲鳴が聞こえた。目をやると兵士が全開にした扉から、使用人の女が顔を出していた。その顔はひどく青ざめており、怯えた目をしていた。
ルークスはその目を見たことがあった。それは魔族に襲われた人々が持つ目だった。
「あ、ああ……!」
怯えた目に射抜かれたルークスは、うわごとを漏らしながら脱兎のごとく駆け出した。その先は使用人がいる扉の方ではなく、窓だった。かろうじて人ひとり通れるであろう窓を身体をぶつけて割ると、そのまま飛び出した。
執務室があるのは二階である。着地した衝撃で身体のどこかが歪むが、ルークスは意に介すことなく走り続けた。外はしとしとと雨が降っており、血塗れの金髪を徐々に洗い流す。
ルークスは駆けた、都市の大通りを。ルークスは駆けた、舗装された街道を。ルークスは駆けた、森の中を。
家も無く。親も無く。慕っていた師も無く。ルークスは何も無くなって、泣いた。しかし、何も無いので涙は出ない。だから、雨が代わりに泣いてくれた。
喉をかすめる息継ぎ、はち切れそうな心臓、それらは延々と走り続けことはできないことを物語っていた。やがて、ルークスの足は止まった。
(どこで間違えたんだろう……)
ほんの少しだけ冷静になった頭でルークスは考える。敬愛する叔父をこの手にかけたことは、本当に望んだ結末だったのだろうか。そもそも、どうして復讐しようとしたのか。復讐以外にも選択肢はあったはずなのに。
(何もわからない……もう疲れた……今は、寝たい……)
極限まで疲労した心身はまぶたを重くした。ルークスは姿勢を低くすると、そのまま泥の中に座り込んだ。
そこで、右手に握っているものに気がついた。剣だった。こびりついた血はすでに雨によって注がれているが、それによって刃こぼれや傷が異様に目立った。あと一回でも振るえば折れてしまうだろう。
ルークスは剣を地面に置こうとした。何年も使い続けてきた相棒なのだから、優しく置こうとした。しかし、右手が凍りついたように動かない。意識的に力を抜こうとするが、右手はカチコチに固まり、いうことを聞かなかった。
諦めてため息をつくルークス。剣をじっと見つめた。そして、おもむろに剣を自分の腹に突き立てると、まぶたを閉じて力をこめた。
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