第9話 討伐


 山奥で人知れず生き延びていた大型魔獣・火熊がアンバーたちににじり寄ってくる。かつて、魔獣は人を圧倒し、この世界を支配していたと言われている。

 火熊の口元からはよだれが垂れ続けている。

 呼吸が荒い。興奮状態であることは明白だった。


「ひっ」


 男は恥も外聞もなく、アンバーに縋る。


「ど、どうするんだよ」

「そんなの簡単なこと」


 自信たっぷりに、魔女は答える。


「逃げて、隠れよう」


 たん、たん、と乾いた音が炸裂する。

 瞬間、火熊の注意が音のほうに逸らされた。

 火熊に不意を突かれて跳ね飛ばされたジィナが、ハンドガンを構えている。


「……熊さん、こちら。です」


 ジィナは折れた片腕を庇いながら、火熊の注意を引きつける。

 どうやら短機関銃を構える余裕はなかったようで、片手で難なく扱える武器で巨大な魔獣に立ち向かう。


 自分たちから火熊の意識がそれた好機を、アンバーは見逃さなかった。


「ほら、今だよ」

「だ、だが」

「ジィナの尊い犠牲を無駄にするな」

「ほら! 今、犠牲って言っただろ!」


 それには返答せず、アンバーはさっさと近くにある岩穴に潜り込んでしまった。男は少しだけ逡巡してから、その背中を追いかける。


 死にたくはなかった。

 自分の帰りを信じてを送り出してくれた大切な家族のために。

 そして、今から会いに行く、自分が帰らないと知ってなお遺書を魔女に託した、かつての家族のために。


 ──……どれくらいの時間が経ったのか。

 人間二人が入るには、あまりに狭い岩穴にアンバーと男は身を寄せ合って隠れている。穴の外からは銃声が断続的に聞こえている。

 

 その状況から判断できることは、二つ。

 ジィナはまだ無事であること。

 そして、火熊の脅威はまだ去っていないことだ。


「ここなら、火熊は入ってこられないね」

「……そうだろうが、事態はよくはないだろ」

「そう。なぜなら、図体の大きな火熊の直接的な攻撃はこの穴の中には届かないけれど……あいつがこの穴に向かって火を吹いたら、私たちは仲良く丸焼きだもの」

「言うなよ、ハッキリと!」


 男は続ける。

 ずっと疑問に思っていたことだ。


「っていうかさ、あんた魔女なんだろ? 魔女ってのは越境戦役のときに、イカイのやつらを指先ひとつでなぎ払ったとか言われてるんだろ?」


 少し大げさだ、という一言だけでアンバーはその噂を否定はしなかった。

 ……ならば。


「戦えないのかよ? 魔獣だかなんだか知らないけどさ、あんた強いんじゃないのかよ」

「それは──」


 男の言葉に、アンバーはゆっくりと口を開く。


「……戦えるさ。でも、今はできない」

「だから、なんで!」

「手紙だよ」

「は?」


 先程よりも黒くくすんだ糸の伸びる封筒。

 その一端は男に、そしてもう一端は山を越えた先にある港町にいる男の父親のもとに伸びている。

 手紙を男の目の前につきつけて、アンバーは言った。


「魔術は、一度にひとつしか使えないんだ。この封筒から縁の糸を伸ばしている限り、他の魔術は使えない」

「は? じゃあ、一度その手紙の魔法をやめて、安全になってからやり直せばいいだろ」

「ダメだ。一度、術を解除してしまった場合は縁の糸は切れてしまう」

「やり直しはできない、ってことか?」

「そう」


 アンバーは頷く。

 手紙と人を繋ぐ魔法を使えるのは、魔女である彼女をもってしても一度だけ。

 

 ただでさえ、人の縁を可視化するのは、物事の理をねじまげる高度な魔法だ。小手先の「術」の範疇を、ほんの少しだけはみ出しているのだ。

 ──奇跡は二度も望めない。


「それに『手紙を届ける』という誓いを破れば、術者である私はその代償を払わなくちゃいけない」

「代償?」

「まあ、数ヶ月ほど死ぬほどの体調不良で伏せることになるかな」

「……あの熊と戦うどころじゃないな」

「そういうことになるね。だから、この術を解除するためには手紙を届ける必要がある。あるいは依頼人に配達の破棄を宣言してもらわなくちゃいけない……まあ、これは難しいことじゃない。受取人は目の前にいるわけだから」


 アンバーのすみれの砂糖漬け色の瞳が、貸本屋の男をとらえた。

 男は頷く。

 集落を離れて故郷への道を歩くうち、父親の遺言を受け取るくらいの心づもりは形成されていた。


「ただし……もうひとつ問題がある」


 アンバーは続ける。


「今の状態で糸がなくなれば、私たちは進むべき道標を失うわけで……あなたの父上の死に目に間に合わないどころか、最悪の場合は遭難することになる」


 つまり。火熊による脅威を退けられたとしても、その後に山を無事に下山できる可能性が低くなる。そういう状況だった。

 男はごくりと喉を鳴らす。正真正銘の、窮状だった。


「ん、待て」

「なんだい」

「あんた、さっきから一度も負ける前提の話をしてない」


 貸本屋の男の言葉に、アンバーは目を瞬かせた。

 何を、妙なことを言い出すのだろうと。

 そういう、表情だった。


「当たり前じゃない。魔女は、旧くは魔獣を狩る者と呼ばれてたし」

 

 だから、とアンバーは言う。


「……負けるはず、ないじゃん。たかが火を吹くデカい熊に」


 嘘ではない、と男は思った。

 彼女はきっと、不要な嘘なんてつかない。


「イカイの銃が効かないんだぞ?」

「アレは人殺しに特化した道具だから、当然だ」

「バケモノみたいに強い嬢ちゃんが、防戦一方だ」

「あの子の名前はジィナだよ」


 男は、決めた。

 ──この女にならば、この魔女にならば。


「……俺が、親父にあてた手紙がある」


 日の差し込まない、小さな岩穴の中。

 男は身につけていた包みを開いた。


 その中には、手紙が入っていた。

 一通だけではない。

 何通も、何通も、数え切れないほどに。


「……いいのかな」

「何がだよ」

「その手紙、出せずにいたのでしょ」


 ずっとアンバーたちに、この手紙の存在を告げずにいた。

 この手紙を父親に渡すべきか、まだ決心をつけられずにいたのだろう。


「だって、私は手紙の魔女。預かった手紙は必ず届ける」


 構わない、と男は答えた。

 そうして、ふにゃりと笑った。

 ずっと張り詰めていた彼が、幼子のように──本好きの少年のように、笑った。


「誰にも届かない手紙なんて、貸本屋として看過できんよ」

「……そう」


 読まれない本を、誰かに届ける。それが彼の選んだ道だ。

 届かない手紙を抱え続けることに耐えられるはずがない──ならば。


 アンバーは手紙を貸本屋の男に差し出す。

 彼の父親の遺言を……息子の到着を待つかのように、まだ生きることを諦めていない縁の糸が伸びる手紙を。 


 男はそっと、その封筒を指先で受け取った。

 縁の糸がふわりと空中に解けていき──、一本の麦金色の髪となって、はらりと落ちた。


「魔女の手紙屋のご利用、誠にありがとうございました」


 アンバーは立ち上がり、外に出る。

 硝煙の匂いが鼻をついた。

 狭い岩穴のなかで強ばってしまった筋肉をほぐして、大きく息を吸い込んだ。


「……さて。火熊くん」


 アンバーの声に、火熊の咆吼が応える。

 周囲にあった植物が、ところどころ焼け焦げている。

 このわずかな間にすべてが燃え尽きている。火熊が吐く炎の猛々しさを物語っている。


「うちの護衛に、ずいぶんと乱暴してくれたね」

「……遅いですよ、アンバー」


 負傷したジィナが善戦したのだろう、火熊の毛皮にわずかに血が滲んでいた。岩穴の隙間から様子を窺う男が、固唾を呑む。

 ──一体、どんな激しい攻防が繰り広げられるのだろうか。

 ちょっとした好奇心もあった。

 イカイ軍を単騎で退けるという超常の存在が、一体どんな戦いをするのか。


 けれど。

 幕引きは、あまりにあっけないものだった。

 火熊がアンバーに向かって突進した、刹那。

 

「悪いけど、先を急いでるんだ」


 ぱちん、と。

 アンバーが指を鳴らした。


「グ」


 ただ、それだけだった。

 悲鳴すらあげずに、火熊は絶命したのだ。


「……な、な」


 岩肌の目立つ山道。

 その地面から、するどい鉱石の槍が無数に出現し、火熊の全身を貫いた。

 アンバーが、たったひとつ指を鳴らしただけで。

 ただ、それだけのことで。


「これが、魔女……」


 圧倒的だった。

 イカイ軍の侵略兵器ギデオンを難なく制圧したジィナすら、防戦することしかできなかった魔獣──火熊を、いとも簡単に屠る。

 荒事には疎い貸本屋の男にも、よくわかる。


 ──アンバーという女の、底知れなさが。

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