第8話 魔獣・火熊


「もうすぐ頂上を越えるかな」


 手紙から伸びる糸をたどって、まっすぐに歩き続ける。

 山道を安全に抜けるには、目印を定めて一心不乱に進むことが重要だ。鬱蒼とした木々による視界不良や、勾配のきつい不安定な足場は、人の方向感覚を容易に狂わせてしまう。


 その点、アンバーには絶対の指針が──手紙を書いた差出人と受取人を繋ぐ縁の糸がある。地図を広げるまでもないわけだ。まあ、この山を安全に抜けるための地図が存在しているとも思えないが。


「なるほど、かなりの近道には違いないな」


 男の声に喜色が滲む。

 慣れない山歩きに、もう体力的な限界が近づいてきていたのだ。

 アンバーも、知らずのうちに歩調を早めている。


「急ごう。早く飯屋でお腹いっぱい食べたい。おさかな定食……ミックスフライ……」


 長逗留だったため、あの港町の安くて美味くて盛りのいい食堂はすでにいくつか心当たりがあった。お気に入りのメニューを思い浮かべて、アンバーはよだれを垂らさんばかりにウットリとしている。


 アンバーの食べ物談義をジィナは無視し、男は呆れ声で言った。


「うわ……干し芋食いながら食べ物の話かよ」

「それはそれ、これはこれだ」

「意味がわからん……というか、あんた本当に手紙を運ぶ以外のことはしないつもりか?」


 男の質問に、アンバーは首を傾げた。


「それ、どういうこと?」

「そのままの意味だよ。魔女は魔法でなんでもできるって思ってたんだが、見てれば、荷物運びも、火起こしも、果ては戦うのも、全部そっちのお嬢ちゃ……いや、機械人ぎょ……えっと……」

「ジィナです」

「……全部、ジィナがやってるだろ」


 ごもっともな指摘である。

 だが、アンバーは至極不服そうな顔で男を睨んだ。


「随分なことを言ってくれるね。これでも、けっこう魔術は使える方なんだけれど」

「いや、俺は見てないし」


 山を越えるために、互いに協力して歩いてきたことで、アンバーたちと男との関係はかなり砕けてきた。


「ジィナ、なんとか言ってやってよー」

「…………」

「また無視するんだからー」


 ジィナに小さく悪態をついて、アンバーは手紙に目を落とす。

 金色に輝いていた縁の糸は、すっかりくすんでしまった。

 ……だが、まだ間に合う。


 男の父親──遺書をこの手紙として、息子に送り届けようとした人間の命は、まだ尽きてはいない。

 山を下りれば、半日とかからずに港町に到着する。

 夜間の移動は、本来であれば避けるべきだ。しかし、魔女と人型自立キカイの少女にかかれば男ひとりを安全に故郷まで送り届けることは造作もない。

 実際、ジィナたった一人で不意に遭遇したイカイの軍事兵器ギデオンの大群すらも退けることができるのだ。


 えにしの糸をたよりにして、まっすぐに進めばいい。

 問題ない、はずだった。


 ──予想外の事態が起きなければ。

 ずぅん、と腹の底を揺らすような地鳴りが響いた。

 瞬間、ジィナが男の前に飛び出した。


「危ない、下がってくだ──」

「え」


 ジィナが、大きな背嚢ごと真横に吹き飛ばされた。

 岩がちな山の斜面に叩きつけられ、ジィナが地面に倒れ伏せる。


「ぐっ」

「な、なんだよ! またギデオンか!?」

「……違う、もっと悪い」

「もっと?」


 その殺気は、荒事に慣れていない男にも感じ取れるものだった。

 周囲に嫌に生臭い空気が充満する。

 ……生物の呼気だ。

 低い唸り声が、鼓膜にねばりつく。


 ──熊だった。

 だが、その大きさは異常だった。


 身の丈といい、横幅といい。

 ケートラックすらも凌ぐほどの、巨大な熊だった。


「これは参ったよ。絶滅したはずの大型魔獣だろ、これ」

「魔獣!?」

「さっき話した、魔力を体内に蓄積する能力を持った生き物だね。胸元に紅の三日月文様……こいつは」


「グオオォ!」


 巨熊が天に向かって吠える。

 その獰猛な口元から、火柱が上がった。


「──火熊ヒグマだ。それも、大型の」

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