第2話 依頼人ーショールの老婆ー
魔女の手紙屋。
それがアンバーの仕事である。
『魔女の手紙屋。
宛てなき手紙、届けます。
いつでも、誰にでも、どこへでも。』
行き着く街でアンバーが貼るチラシには、そう書いてある。
超常の魔女は、その力で運ぶのだ。
──分断された世界で、どうしても届けたい言葉を。
かつて、突如として『イカイ』と呼ばれる世界との境界がゆらいだ。
イカイとの接触により、相対的にこの世界は『ヒガン』と呼ばれるようになる。わざわざ、自分たちの世界に呼び名を付けるものなどいない──他に世界があることさえ、知らなければ。
やがて始まった『越境の厄災』と呼ばれるイカイからの侵略、そして多大な犠牲と被害を出した両者による最大の軍事衝突である『越境戦役』により、この世界は衰弱した。
二つの世界同士の衝突は、多くの犠牲を産んだ。
やっとのことで互いの世界への不干渉と境界の引き直しという着地点を見出し、いったんの終結を見せたのだ。
だが、戦争の傷跡は、世界の在り方を変えてしまった。
あちこちに存在するかつての戦場には、狩る者のいなくなった魔獣や、『イカイ』から持ち込まれたまま放置された無人兵器が彷徨っている。
町と町は分断され、流通は機能不全に陥った。
ほとんどの人間は、産まれた町で一生を終える。そして、一度町を出ていった者とは、住まう場所がわからなければ手紙のひとつも交わすことはできない。
そんな世界で、アンバーは手紙を運ぶ。
宛先がどこであろうとも、
──神秘の薄らいで久しいこの世界で、そんな御伽噺のような貼り紙を頼ってやってくる人間が、どの村にも、町にもひとりはいるのだ。
「……この手紙を、息子に届けてくださいませんか」
そんなひとりである老女は、一通の封筒をアンバーに差し出した。
宛名には、息子であろう男の名前。
そして、裏側には──。
「父より、ですか」
横から覗き込んだジィナが呟いた。
ショールの老女は、力なく頷く。
父より。
差出人の名はなく、ただ、そう書いてあった。
「あの子の父親は潮風で胸を病みました。医者にかかっていますが、もう長くないとか……」
彼女の目の下のクマは、看病疲れというわけだろう。
アンバーは「ふむ」と唸って、封筒の表書きを見つめる。
「その手紙は遺言状です」
「遺言状」
「はい。主人がそう言っていました。でも、本当はそんな大層なものではないかもしれませんね。あの人は、ただ……」
ほとり、ほとり。ゆっくりとした口調で老婆は語った。
かつて彼女は夫との間にもうけた一人息子を、この世の誰よりも愛していた。
けれど、彼が成長してから、父と息子の間にすれ違いが起きた。
息子は読書が好きだった。
父は息子に、自分と同じ道を歩ませたかった。
この街に産まれて、漁師として生きる──だが、息子は書物の世界に自分を見出していた。数年に一度、町を訪れる移動図書館に夢中になった。
移動図書館で廃棄処分になった古い本や破損した本をもらい受けて、それを宝物にしていた。
父親は、それが気に入らなかったのだろう。
──この街で生きていく漁師に、本など必要ない。
──人生で一度も読書などしなくても、立派に家族を養っている。
──『イカイ』の侵略者がいないから、軟弱なことを言っていられる。
繰り返し、繰り返し。
息子に対して、そんな言葉をぶつけるようになった。
そんなことで事態が好転するはずもなく、息子の心は頑なになっていった。
「息子の心が離れていくことに、あの人は焦ってたのでしょう。だから、あんな間違った選択をしてしまった……!」
口論の末に、息子が大切にしていた本を焼いたのだ。
彼が所有することを許された、たった数冊の本を焼いたのだ。
燃える暖炉に放り込んで。泣き叫ぶ息子の声に、耳も貸さずに。
その日から、親子の間には修復できない溝ができてしまった。
「私が持ち帰った魔女の手紙屋のチラシを見た夫が、病床でどうにか書き上げました。喧嘩別れしてしまった息子に……どうしてもと……」
老女は、膝の上できゅうっと拳を握りしめた。
「あの人は、ただ──息子に謝りたいのだと思います」
老女の震える声に、アンバーは応えた。
「配達料金、安くないけれど。それでもいいの」
老女は頷いた。
いくらでも金は用意する、と言い切る。
その後に、ふと我に返ったかのように質問してくる。
「……張り紙には『時価』と書いてありましたが、おいくらで?」
「ジィナ、宿の勘定をとっておいで」
無言で部屋をあとにしたジィナが、ほどなくして勘定を持ってくる。
「……こちらです」
アンバーたちがこの宿に逗留して、すでにひと月以上が経過していた。
少しは前金を預けてあるとはいえ勘定書きの料金はかなり膨らんでいる。
だが、勘定を一瞥したショールの老女はもう一度、迷いなく頷いた。
「お支払いします」
アンバーはジィナと顔を見合わせた。
「即決ですね、あんびりーばぼー」
「そんなにも届けたい手紙ってことだ」
手紙の魔女は麦金色の髪の毛を一本よりわけて、白い指先で弄ぶ。
「いいだろう、引きうけた」
結論から、手短に。アンバーは受け取った封筒に、口づけを落とした。
それから麦金色の髪の毛を一本抜いて封筒に結びつけた。それは輝く光の糸となって──遙か彼方に、伸びていく。
「──今、
手紙の魔女。
アンバーは、そう宣言した。
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