第3話 ヒッチハイク
──『ヒガン』。
『イカイ』からの侵攻を受けたその日から、この世界はそう呼ばれている。
自分たちの生きる世界が、たったひとつの、唯一無二のものだとすれば、そもそも世界に名など必要なかったのだ。
二つの世界の住人は、人が住む世界はひとつではないと知った。
侵略してきた彼らイカイ人は、『ヒガン』と、この世界を繰り返しそう呼んでいた。日々イカイから侵攻される混乱の中、この世界の人間も暫定的に自分たちの世界を『ヒガン』と呼びはじめたわけだ。
自分たちの世界を脅かす敵によって定義された呼称を嫌って、別の呼び名を推奨する人たちもいる。
けれど、すでに広まっている言葉ひとつを正すために労力を割けるほどには、この世界は回復してはいない。
生まれた場所で生きるので精一杯。
それが、今のヒガンである。
◆
「……あらま、
大きな溜息とともに、アンバーが呟いた。
旅装に身を包んだアンバーは、長い杖を手にしている。
彼女の身の丈ほどの長さで、よく乾かした香木を滑らかに削り出して作った杖の先には、輸送用の文箱がくくりつけられている。 遠くから見ると、十字架を手に歩いているようにも見える。
その箱の中には手紙の封筒が入っており、かなたに伸びる金色の糸が伸びている。
伸びる糸の先は、見渡す限り何もない平原である。いくつかの町を通り過ぎ、一夜の宿を求めた。だが、手紙から伸びる糸の示す先にはまだまだ到着しそうもない。
つば付き帽子を押し上げて遠くを眺めるアンバーが指差した先には、遠く、小さく、塔がそびえている──超高層の、空を衝く
足元に目を落として歩いていたジィナが少し目をあげて呟いた。
「まだ糸の先は見えませんね」
「はー、案外遠くまで家出したもんだな」
金色の糸を遙か南の方向に伸ばしている封筒をくくりつけた杖にもたれて、アンバーが小さく舌打ちをした。
すでに、滞在していた港町を出てから丸二日歩き通しだった。
かなり険しい山を迂回したのも、時間をくった。
旅に必要な大荷物はすべてジィナが背負っているとはいえ、なかなかに疲れているというのが正直なところだった。
「
海街でしこたま買い込んできた揚げ菓子を頬張りながらアンバーがぼやくと、ジィナがこくりと頷いた。
「そうですね。向こうの世界への違法越境を疑われては面倒です」
「むぐむぐ、ほんとにそうだ。豚箱のメシは不味くて少ないから」
「……食べたことがあるんですね」
「まあ、昔ね。少なくとも糖蜜フィリングたーっぷりで、ふわふわの揚げ菓子なんて食べられなくなっちゃう」
アンバーは、糖蜜フィリングがたっぷり詰まった
遠くに霞んでいる尖塔は、イカイとヒガンの境界だ。
ヒガンのあちこちに出来ていた、二つの世界を繋ぐほころびのほとんどは「境界戦役」の終結をきに塞がれたり、厳重に封鎖されたりした。しかし、もっとも大きな穴であり、最初のほころびである塔は、様々な影響を考慮して取り壊すこともできずに残すことになったのだ。
なぜ、二つの世界の境界に綻びできてしまったのか。
どうして、あのときだったのか。
二つの世界は、どういう関係にあるのか。
根本的な原因はわからないまま、時が流れた。様々な説が浮かんでは消えたけれど、何もかも推測の域をでないままだ。
ただ、侵略が行われ、まったく違う文明を築いてきたよく似た姿の人同士が殺し合い、そしてお互いに得るものがないままに決別した──その悲劇の歴史の象徴が、空を衝く
まだまだ、目的地である『手紙の受取人』には到達しそうにない状況に、アンバーが弱音を吐いた。
「キャブなら少しは移動も楽なのになー」
「オートキャブはヒガンの遺物です。簡単に手に入るものではありませんし、所持していることで様々な危険に遭遇する確率が増します」
涼しい顔でジィナが応答する。
アンバーはちょっと頬を膨らませた。
「ご正論、どうもありがと。別に本当にオートキャブに乗りたいわけじゃないよ。あれ、後ろに乗るとお尻痛いし」
「後ろ……。ジィナに運転させる気だったのですね」
「当然でしょ。私、キャブの運転の仕方なんて知らないし」
オートキャブとは、イカイからの侵略者たちがこの世界に持ち込んだ乗り物だ。エンジンと呼ばれる動力機関で動かす二輪車だ。
イカイでは非常にありふれた工業製品らしく、ヒガンにも多く持ち込まれた。
だが、二つの世界が分かたれた今は、このヒガンにおいて貴重品だ。
イカイから何らかの手段で動力源──ガソリンと呼ばれる可燃性の液体──を密輸しつつ、現役でオートキャブを乗り回している者もいる。特にありふれたモデルで、耐久性と走破性能に優れた小型オートキャブは、運送や郵送に使う足として重宝されており、それらは単純に『キャブ』と呼ばれている。
「しかし。どれだけ遠くに家出したのかね、依頼人の息子殿は」
「家を出てから、もう何年も経過していると言っていました。理論上は海を渡っている可能性もあります」
「海って、日没海のこと? だとしたら、この配達は骨だなー」
アンバーたちが滞在していた港町が面していた海からは、毎朝太陽が昇ってくる。そして、どこまで沖に出ても海が続くばかり。
だが陸地を挟んで反対側に、毎日太陽が沈んでいく海がある。
その海を越えると、広大な陸地の広がる『大陸』にたどり着くことができる。もちろん海の旅は生存率は非常に低い。だが、近頃は越境戦役で荒れ果てた土地を見限って、新天地を求めて大陸に渡る者も多いと聞く。
アンバーは今回の手紙の受取人である老婆の息子がすでに大陸へ渡ってしまっている可能性を考え、渋い顔をした。
預かった手紙の配達が不可能になるから──ではない。
アンバーは、どのような状況であっても、必ず手紙を届ける。
単純に、船旅が嫌いなのだ。
「はぁ。船に乗ることになるなら、しばらく食い溜めしとかなきゃね」
「また食べ物の心配ですか」
──そのときだった。
ぶろろろ、と低く唸るモーター音が聞こえた。
音の方を振り返ると、まさしく『イカイ』の侵略者たちがこの世界に残していった遺物が走行しているところだった。
「ケートラックだ!」
荷台付きのケートラック。小型の運送車だ。
遠くからこちらに向かって走ってくるケートラックを確認して、ジィナが動いた。
背負っていた短機関銃を素早く身体の前面に回して、射撃姿勢をとった。
旅の荷物を詰め込んだ大きな背嚢のほかに、ジィナはいくつもの武器を装備している。
そのうちのひとつが、キャブやケートラックと同じく『イカイ』からもたらされた短機関銃である。ジィナがもっとも取り出しやすい形で携行しているのは、取り回しのいい
「ちょっと、ジィナ。物騒な真似はしないで」
「どうしてです?」
「敵じゃないかもでしょう」
「……
アンバーの手を引いて近くにある遮蔽物になりそうな岩の近くに移動しつつ、ジィナは接近してくるケートラックを注視した。
「……運転も慣れているし、整備が行き届いているようですね」
「ヤミで整備してるんだろうねー」
「あるいは、イカイの連中の残党か」
イカイの残党の中には、いまだヒガンに残って略奪活動をしている者たちもいる。戦闘手段を持たない一般人が遭遇してしまえば最後、されるがままに奪われ、傷つけられるのが現状だ。
「じゃあ、直接確かめてみよう」
アンバーが、ふらふらと岩陰から出て行く。
「何しているんですか、アンバー!」
「運がよければ、乗せてくれるかも」
「悪い奴だったらどうするのですか」
「ぶっ飛ばす」
簡潔かつ不穏なアンバーの返答に、ジィナはじとっと主人を見つめる。
「そのぶっ飛ばすっていうのは、誰がやるのです?」
「もちろん、ジィナが」
港町の老婆から預かった封筒入りの文箱がくくりつけられた杖の先をつきつけて、アンバーがにっと笑った。
「あんはっぴぃ……」
溜息をもらすジィナに返事はせず、アンバーは接近してくるケートラックに向けて大きく手を振った。
「おーい、こーんにーちはー! 旅の魔女を助けてみませんかぁー!」
午後の平原に、アンバーの太平楽な声が響いた。
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