第5話

 紋は綺麗に解除された。真っ白に戻された傷だらけの腹を撫でると、なんだか不思議な心地だった。ずっとここに刻まれていた、赤黒い色がないことの幸福と不安を噛みしめた。


「まぁこの場所自体、隔絶した空間だからね。紋の効力はここには及ばないし、つまり命令も届かない。元から刻まれた命令だって、扉を潜ったときに消えてたはずだけど」

「は? そうなんですか?」

「そうだよ? でなきゃ、自死の命令だろ? もっと早くに君は自分の命を断っていたと思うけど」


 とは言え、もしも契約を代々受け継がれたりしてしまったら、君が外に出たときに何か悪い影響が出るかもしれないから、消したのは別に悪いことでも無駄なことでもないんだよ。悪意のない笑顔で言い切られて、ルゥは「はぁ」と曖昧に頷いて、ありがとうございます、と礼を告げた。


「どういたしまして。さて、今日は色々あって疲れただろう? 子を迎えるのは明日にしようね。竜の所へ連れて行ってあげるよ」

「あの、それなんですけど……僕、男なんですが、その……妊娠、するのは、ちょっとどうかと……」

「大丈夫大丈夫。肝要なのは魔力量だけだから。一応過去に1人か2人くらい? 男の花嫁もいたはずだよ。多分」

「たぶん」

「私が見た感じだと魔力量は十分だし、平気だよ。きっと良い子が授かるよ」

「えええええ……」


 それは男として喜ぶべき所なのかどうなんだろうか。

 結界的な意味で言うなら、喜ぶ方が良いのだろうか?


 服は脱いだ。荷は何も持たされていなかったけれど、どうやら事前に運び込まれていたらしい。なんでも花嫁の準備にと、1度だけ事前に扉がひらくらしい。1度? と思ったが、扉の開閉には色々と複雑な規則があるようだった。

 荷が女物の服ばかりなのにウンザリしていたら、レストが自分の服のお下がりをくれた。残念ながら彼女の方が背が高いこともあり、長さが圧倒的に余ってしまうが。取りあえずまくり上げて簡単に縫い止めた。……後できちんと裾を処理しよう。いや、身長が伸びるかもしれないことを考慮するなら、このままが良いだろうか?


 化粧も落としてすっきりすれば、レストから夕食に呼ばれた。

 嫌じゃなければ一緒に食べよう、と。嫌だなんて思うわけない。礼を言って一緒させてもらった。


 夕食はなかなかに豪勢だった。湯気の立つ焼きたてのパンに山ほど具材の入ったスープ、ソテーされた肉は暴力的なほどの良い匂いだった。外で食べていたものとは比べものにならない。これから比較するなら、あれらは石コロと色水だ。

 食前の祈りはするかと聞かれて首を傾げれば笑われた。嫌な笑いではなく、年長者が年若いものの失敗を許すような、穏やかで温かな笑いだった。

 ルゥは祈りはしなかったが、レストは胸の前で手を組むと小さく何かを呟いていた。神に祈りを捧げているというよりは、目の前の美味しいご飯に感謝を告げているように見えた。

 じゃ、早速食べようかと言われて、元気よく「はい!」と返事をし、テーブルに積まれたパンを頬張った。


「こうして見ると、普通に男なんだなぁ」

「普通に男ですよ。歳は17。…………あの、今更ですけど、僕って魔力があるんですか? 奴隷なのに? この国の出身でさえないんですけど」

「あるよ。結構多い。……え? だから選ばれたんだよね?」

「いえ。僕はあなた同様身代わりで――」


 ざっくりと経緯を説明した。

 レストが食事を前に、頭を抱えた。


「……ちょっと待って。流石にそれはない……」

「僕も大分酷いと思います」

「いや酷い以前の問題で、下手したら100年前の再来だった。君は良くそんな何でもない顔をしてもりもり食えるな」

「食べれる時に食べなきゃ食べれなくなるが信条なので」


 信条というか、親の教えというか、奴隷時代で心底身に染みさせられた価値観というか。人間食べてなんぼだし、食えるときに食わないなんては、それが許された一部の人間だけの特権なのだ。

 あと本当に美味しい。何もかもすごい美味しい! 柔らかいパン最高すぎるし温かくて腹にたまるスープも素晴らしい!


「不幸中の幸いか、更なる不幸か、君にはちゃんと花嫁に耐えられるだけの魔力はあるよ」

「なんで幸いで更に不幸なんです?」

「幸いは、生存おめでとう、の幸い。花嫁になれるということは、竜の子を身ごもれるということだ。これで君は死なずに済んだ」

「不幸は?」

「……まんまと君を送り出したヤツらの狙い通りに事が運んで、そいつらが外で高笑いしてそうってところと、花嫁としての人生が確定した、ってところかな。長生き確定は良し悪しだけど、この閉鎖空間でたった1人で90年を過ごすんだから」


 たった1人で?

 ふと、彼女の横に視線をずらす。そこには彼女の娘のルコラがいて、声もなく静かにスープを食べていた。食事の速度はひどくゆっくりと緩慢で、表情の変化は特にない。

 1人じゃなくて2人では? と言いかけて、そう言えば子とは即ち竜の写し身なのだと思いだした。純粋な意味では、ではなかった。

 なるほど。確かに、1人だ。


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