竜の花嫁

第1話

　結界。

　一言でそれだけが言われたとき、それはヴァルマール国の結界を意味する。

　不可視のそれは彼の国をあまねくおおい、守り、魔物の侵入を許さず、敵の侵攻を妨げ、あらゆる災害をはねつけると言われている。

　事実、結界の発現の後、彼の国は目覚ましい発展を遂げた。周囲が魔物の被害に苦しむ中、ただ一国、豊かさと平和を貧民でさえもが享受しているのだという。

　小さい頃から父に連れられ行商で旅から旅への生活であったルゥでさえ、彼の国の結界については寝物語にあれこれと聞いた覚えがある。

　魔を寄せ付けない隣国のそれは神の奇跡であり、自国のために神の現し身である竜へ「花嫁」として身を捧げた乙女により支えられているのだという。

　かつて１度だけ壊れてしまったことのある「結界」。それは乙女の逃亡による事件で、結界の素晴らしさ尊さと共に語られる物語だ。花嫁となるのを嫌がり恋人と手を取り合って逃げた乙女によりもたらされた結界の崩壊と、その乙女の代わりに我が身を捧げた乙女――王国の気高き王女の献身による結界の再生。

　それを思いだすだけで、手に汗がにじみ出す。

　……これ、バレないよな……バレたら死ぬんだが……。

　ルゥは目深に被ったヴェールの奥でそっと歯を食いしばった。

　ルゥは奴隷だ。いや、奴隷という制度のないヴァルマール国においては、一応、身分の上では、奴隷ではない。しかし父を殺した盗賊に捕らわれて貴族に売り払われ、自身の売値を全て自身の借金として紐付けられた挙げ句借金完遂まで滅私奉公を義務づけた印を刻まれた身の上は、まったくもって、実質的な奴隷だった。

　一応賃金は支払われているらしいが、ルゥの手には銅貨一枚渡ってこない。全額自動的に借金の返済に充てられているらしい。だが支払われている金額の明細は一切伏せられ、聞いた話では子供の駄賃よりなお低い――らしい。つまり完遂は不可能、終身奴隷というわけだ。全部「らしい」なのは上長である使用人頭から嫌味混じりで聞かされただけの内容だからだ。

　なおこれら全てはこのヴァルマール国の法律に則り定められた内容のため、違法ではない、とのことだった。

　酷い話過ぎて笑うことも出来ない。

　それでもこれまでは、衣食住は最低ラインとは言え保障されているし、外出不可な上結婚も出来ないなど人として扱われていない、一切逆らえない様にされている、など難点は多々あれど、殺されることはないからまだマシだと己の不遇を慰めていたのだ。

　だがしかし。現状、もう本当にどうしようもない状況に陥っている現在を思うとため息しか出ない。

　今ルゥが身につけているのは純白の衣装だった。引きずるほどに裾の長いドレスは着用者の体型をあまり問わず目立たせないシンプルなデザインだ。頭に被ったヴェールも相まってルゥの傷だらけの身体を綺麗に覆い隠している。胸の詰め物がずれなければ、取りあえず女には見えるだろう。上質な絹織物だろうドレスは非常に手触りが良く、これまで身につけたことのあるどんな服よりも暖かく軽く、素晴らしい着心地だった。

　顔には薄化粧に見える厚化粧が施され、ルゥ本来の容姿を覆い隠していた。化粧でここまで人相を変えられるとは思わなかった。化粧、すごい。ちゃんとお嬢様に見える。

　竜の花嫁。

　物語では聞いていた。

　ただ、ルゥはヴァルマールの隣国出身で、その国の行商人の子供だった。だから、自分とは縁もゆかりもない寝物語の出来事と登場人物だと思っていた。

　行商の旅の途中で賊に襲われ、父を殺され、荷は全て奪われて、自身はヴァルマール国の貴族に売り飛ばされた。

　奴隷身分は廃止されている癖に人の売り買いは合法なこの国（ヴァルマール）は、他国人であっても容赦がない。子供であったこともあり、ルゥは自分を買った貴族の持ち物として登録され、他の縁（えにし）を失った。

　紋を刻まれ、逆らうことを封じられ、ボロボロにされた身体で、最後に押しつけられたのがこの「花嫁の代役」だ。

　ルゥを所持する貴族の娘がその身に内包する魔力の高さ故に花嫁として抜擢されのが切っ掛けだった。それを嫌がった娘は、物語の中の娘のように逃げ出した――のではなく、父親によってかくまわれた。父親は娘の代わりにルゥを娘のように着飾らせて差し出したのが今というわけだ。

　輿に乗せられ、担がれて、行列は静かに動き出す。ルゥの持ち主はルゥの乗った輿の横で馬に跨がり、悲しげに目を伏せていた。内面はどうかしれないが、ちらりと横目で伺えば、頬が緊張に引きつっていたから、恐らくルゥとさして変わりのない心情なのかもしれない。少なくとも、バレずに輿入れが済むまでは。

　ルゥが無事花嫁となってさえしまえば後はどうとでもなると思っている……だろう。たぶん。大切な娘の代わりに貴族にとっては二束三文で買い取った奴隷１人を差し出すだけで済むのなら、大層安く上がるだろうし。

　僕は、どうなるんだろうな。

　どっちにしても不自由だ。

　…………さして変わりないかな。