03 いつまでも輝く母へ
すべては過ぎ去った夢のようだった。
ナポレオン・ボナパルトは一八一四年、地中海エルバ島へと追放された。
この島はコルシカ島とイタリア半島の中間点に位置し、ナポレオンとしては、故郷を眼前にする位置であり、必然的に、冒頭のような感慨を持つようになった。
「――人間、栄華を失えば、周りは残酷なものだ」
ムリーニ小宮殿といわれる邸宅に移り住んだナポレオンだったが、それについて来る者は少なく、つつましいものだった。
当然ながら、
「……
海浜の散策をしているうちに、ふとナポレオンはそう思った。
鍋にフェンネルや玉ねぎを入れて炒め、ふんだんに魚介を入れて。
白ワインを入れて、塩を振り、トマトも入れて煮込む。
サフランやディル、ローズマリーで風味をつける。
「こうしてこの
われながら、埒もない感慨だ。
ナポレオンは苦笑した。
母を邪険に扱ってきたくせに、何ということを考えている。
敬意こそ失っていなかったが、次第に疎ましくなり、エルバ島追放直前には、ほとんど会うことが無かった。
そこまでした相手に、何を期待している。
「……これ以上、地中海の海のにおいをかいでいると、おかしくなりそうだな」
ナポレオンは
*
よりによって、とナポレオンはため息をついたが、地中海のこの地方では定番のレシピ。
文句を言う筋合いはない。
黙って食堂に向かい席に着くと、「ほらよ」と皿がダンと置かれた。
「おい! いくら退位したからといって、このナポレオンをそこまでぞんざいに……」
ナポレオンは給仕をにらんだ。
次いで、驚愕した。
「ぞんざいに……何だい? ナブリオ? 早く食べたいだろうから、急いで置いてやったのにさ」
ナブリオとは、ナポレオンのコルシカ名ナブリオーネの愛称である。今、それを敢えて使ってナポレオンを呼ぶ者は。
「
マリア・レティツィア・ボナパルトは、フーシェの勧めに従い、ローマへ亡命した。
そこでほとぼりが冷めるのを待ち、このエルバ島に来たのだという。
「……しかし
「……いいから食べな。話はあとだ」
ナポレオンは、はふはふ言いながらも、匙を一瞬たりとも止めずにブイヤベースをかき込んだ。
この味。
このにおい。
まさしく、
懐かしい。
旨い。
*
「……お前が一番、困ってるんだろ? だったら放っておけないさ」
ナポレオンが三杯もおかわりをしたあと、ブロッチュ(コルシカのフレッシュチーズ)を出しながら、マリアはふと、そう
「
「うん、やっぱりこっちで仕上げたブロッチュの方が旨いね」
砂糖とマール酒を和えながら、ちょいとつまみ食いをするマリア。
それを見たナポレオンも、手を伸ばしてブロッチュを食べた。
「ああ、やっぱりコルシカの味だ」
「だろう?」
母子は笑い合った。
そして母の方は、おもむろに懐中から書状を取り出し、息子に押し付けた。
「……
「お前にやるよ、ナブリオ」
書状を開くと、そこには少なからずの金額の金銭や宝石の明細が書き記されていた。
預け先はコルシカやジェノヴァといった、
「……一体、いつの間に?」
「お前が律儀にも、このうるさい私に渡しつづけたお金や宝石さ。何にもなければ、どこぞに喜捨でもしようかと思ってた奴さ。だから遠慮なく使いな」
「……
ナポレオンはむせび泣いた。
マリアはそれを黙って受け入れ、胸に抱いた。
彼女もまた、目に光るものがあったが、それは誰にも気づかれることはなかった。
……こうしてナポレオンはかつての部下や家族を支援し、やがてエルバ島を脱出して再び皇帝に返り咲くことになる。
その天下は――百日天下と呼ばれ、その結末において、ナポレオンは大西洋、セントヘレナという島に流されてしまうことになるが、それはまた別の話である。
*
さて、最後にわれらがマリア・レティツィア・ボナパルトがどのように生涯を終えたかを語り、この物語を締めようと思う。
マリアは百日天下の終焉により、再びローマへと亡命した。
その後、実弟のジョゼフ・フェッツェと共に暮らし、ナポレオンが一八二一年に死去した後も生き、八十六才まで生きた。
そして一八三六年――晩年には目が見えなくなったものの、頭の良さと度胸に衰えは見えなかったという。
「……どうやらナブリオが呼んでいるみたいだよ。すまないね、そろそろ行くよ」
その最後には、ジョゼフやリュシアンといった子どもたちに囲まれて、安らかに逝ったう。
彼らは、いつまでも輝く母への感謝を、やはりいつまでも語っていたという。
……それはきっと、ナブリオも同様であろう。
【了】
いつまでも輝く母へ ~「子供の将来の運命は、その母の努力によって定まる」~ 四谷軒 @gyro
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