02 皇太后のマリア

「ローズ……じゃない、ジョゼフィーヌ? 呼び方なんてどうでもいいよ。何だいあの女は。 所帯を持つ? クラリー家のデジレさんの方が良かったのに」


「皇帝になるだって? 何だいそりゃあ? リュシアンは反対してるよ! ……は? そんなのいいから戴冠式に出ろ? うるさいよ! リュシアンに会いに行ってくる! 戴冠式でも何でも、勝手にやってな!」


「私が皇太后? 御料が出る? 御料……ああ、お金のことかい? 要らないよ、そんな大金」


「大陸封鎖令とやらのせいで、天然ソーダが入って来ないよ! これじゃ石鹸が作れないじゃないか!」


 ……マリア・レティツィア・ボナパルトは、息子のナブリオ――ナポレオンが立身出世を遂げ、美女ジョゼフィーヌと結ばれ、やがて登極しフランス皇帝となっても、その言動を変えようとしなかった。

 思ったとおりのことを直言し、駄目と判じたことはやらない。

 それがマリアの「在り方」で、それはコルシカ独立戦争の兵士だった頃、コルシカからマルセイユに移り、夫と死別して女手一つで子どもたちを育てていた頃と、何ら変わりなかった。

 だが皇帝となったナポレオンからすると、うるさいし、鬱陶しいことこの上なかった。

 ある時、とうとうその小言に我慢の限界を感じて、


「予はフランス皇帝なるぞ!」


 と怒鳴った。

 すると、


「私はその皇帝の母なるぞ!」


 そう即座に返って来た。

 ナポレオンは苦虫を噛み潰した表情をして、母を睨んだ。

 ジュゼッペ──ジョゼフ・ボナパルトもルチアーノ──リュシアン・ボナパルトもそうだが、ナポレオンの親族は総じて奔放だ。

 それに、我が強い。

 何よりの証拠が、そのたる母──マリア・レティツィア・ボナパルトのこの態度だった。

 しかしナポレオンは母を疎ましく思うが、遠ざけることもなく、「要らない」と言われても、金銭を出しつづけていた。


「あの母が無ければ、今の僕──予は無かった」


 マリアは、夫であるカルロ・ディ・ブオナパルテに伴ってコルシカからマルセイユに居を移した。

 カルロがコルシカ独立派からフランスに鞍替えした結果の転居である。

 このとき、カルロは鞍替えの見返りとして、フランス貴族としての地位を得た。

 そのおかげで、ナポレオンはフランスの士官学校に進むことができた。

 当時、フランスの士官学校は、貴族の子弟でないと、入れなかった。


 ……ところがこのタイミングで、カルロが病死してしまう。


「ここで母が誰かと再婚していたら、貴族としての地位を失っていたのやもしれぬ」


 実際、母は

 腕っぷしは強いし、気風きっぷがあり、美人である。

 そういう母が、貧しい生活の上、何より八人も子がいるのだ。

 好いた惚れたは置いておいて、誰かに嫁いで楽をするという選択肢もあったはず。

 それでもそれをしなかったのは、ナポレオンを士官学校に通わせ、そして通わせつづけるためだ。


「……ジョゼフリュシアンは、母は父への貞節を守っただの、愛を貫いただの言っている。が、ちがう。いや、それだけではないのだ……」


 ナポレオンだけは、その意図を見抜いていた。

 当事者なだけに。



 ある日のこと、マリアが故郷のコルシカのフレッシュチーズ、ブロッチュを作ろうとしていた。

 ブロッチュは、羊や山羊の乳でまずチーズを作り、その際に発生する乳清ホエーに、さらに羊あるいは山羊の乳を足して作る。


「そして塩をパラパラ入れて……と、あとは熱して」


 鍋に入れた乳清ホエーと山羊乳が熱せられ、表面に蛋白質のかたまりが浮いてくる。

 それを藺草いぐさかごすくって水を切れば、それがブロッチュだ。

 塩をかけて、十五日以上も寝かして熟成させる派もいるが、マリアは断然、すぐに砂糖とマール酒(葡萄の搾りかすの蒸留酒)をかけて食べる派だ。


「……うん? どうにもちがうね?」


 マリアが豆腐にも似た食感のブロッチュを賞味すると、故郷のコルシカのそれとはちがう味がした。

 どうしたものかと悩むマリアの背後から、声がかかった。


「コルシカとパリでは風土がちがいます、皇太后陛下」


「……なるほど、おんなじ山羊でも、南仏コルシカと北のパリじゃあ、ちがうってことかい、ムッシュ・フーシェフーシェの旦那?」


「お料理中、背後うしろから御意ぎょいを得ます。お赦しを」


 マリアがちらと後ろを見ると、そこには青白い顔をした、痩せぎすの男が立っていた。

 男の名はジョゼフ・フーシェ。

 ナポレオン政権下で警察卿として辣腕を振るい、「同時に何ヶ所にも存在する」と恐れられた男である。

 フーシェが慇懃に礼をほどこすと、マリアも振り向いて、前かけで手を拭いてから、カーテシーで応じた。


「……何、構わんさ。年寄りの郷愁の手慰みさ、遠慮することはない。どうだい、ひとつ?」


「いただきます」


 フーシェは遠慮なくマリア手製のブロッチュを食した。

 「ちがう味だ……が、旨い」とつぶやき、おもむろに口上を述べた。


「陛下」


「まだるっこしいのは嫌いなんだ。早く要件を言いな」


「ではお言葉に甘えて。皇帝ナポレオン陛下は、退なされました」


「……そうかい」


 この時、ナポレオンはヨーロッパ諸国に追い詰められ退位し、地中海エルバ島に追放となった。

 マリアはひとつため息をつき、フーシェに問うた。


「……で、警察卿閣下は、私を逮捕に?」


 このエルバ島追放の立役者こそフーシェであり、マリアはそれを見抜いていた。

 でなければこのように、平然と皇帝の退位を告げに来まい。


「滅相もない」


 フーシェは彼女に亡命を勧めた。

 彼は、ナポレオンを追放したもの、命を取るまではしなかった。

 ましてや、その一族の、母となれば、なおさらのこと。

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