いつまでも輝く母へ ~「子供の将来の運命は、その母の努力によって定まる」~

四谷軒

01 アジャクシオのマリア

 紺碧の地中海が朱に染まっていく。

 傾いていた日が、ゆっくり、ゆっくりと沈んでいく。


 一八世紀、コルシカ、アジャクシオ──

 その夕暮れはとても美しく、マリアは思わず料理の手を止め、見入ってしまうほどだった。

 だがその見入りも、すぐ息子の大声で中断されてしまうのだ。


母さんマンマ母さんマンマ!」


「何だいルチアーノ! 母さんは今、手一杯なんだよ!」


 マリアはごつごつとした、力強い腕を――料理をしているため、片方で――振り回して、ルチアーノに自制を求める。


「そうは言っても母さんマンマ、兄ちゃんが……」


「兄ちゃん?」


 マリアは作りかけのブイヤベースに向かってため息をついた。

 それから振り向くと、


「兄ちゃんって、ジュゼッペの方かい?」


「……そうじゃない方」


「またかい?」


 ルチアーノには、二人の兄がいる。

 上のジュゼッペはどちらかというとのんびり屋だが、下の方は――。


母さんマンマ!」


 台所にもう一人の闖入者ちんにゅううしゃがあらわれた。

 ジュゼッペだ。


「何だいジュゼッペ! あんたまで!」


「あいつが……また喧嘩を売りやがったんだ! 石鹸工場の奴らと! しかも石鹸工場の奴らを、嘘をついて波止場に呼び出した上での騙し討ちだよ、母さんマンマ


「そうだよ母さんマンマ、船に隠れてフロンドパチンコで次から次へと工員をやっちゃってさあ!」


 ジュゼッペの方は憤懣やるかたない雰囲気だが、ルチアーノの方は若干得意気だった。


「……まったく、あの馬鹿は!」


 マリアはブイヤベースの入った鍋をガンと叩きつけ、腕をまくった。

 中年女にしては筋骨たくましい腕があらわになる。


「さあ行くよ! 馬鹿息子を捕まえに!」


 まったくあの子は。

 ことあるごとに、兄のジュゼッペと張り合って。

 おおかた、今回の喧嘩も。


母さんマンマ、あいつは多分、ルチアーノが石鹸工場の奴らにからかわれるのを見て」


 ジュゼッペがそうささやいてルチアーノを見ると、ルチアーノはこくんとうなずいた。


「……そんななあわかってるよ! さあ案内しな! コルシカの闘士、マリア・レティツィアが、駆けつけてやろうじゃあないか!」


 ……一時間後、マリアは息子のナブリオに拳骨をくれて、石鹸工場の工員に謝らせた。

 ただし同時に工員たちにもルチアーノへの非礼を詫びさせた。

 意気揚々と引き揚げるその姿に、アジャクシオの街の誰もが指差し、口笛を吹いた。


「あれを見ろよ、またマリアさんだぜ」


「いつ見ても威風堂々だな」


「ちがいねえ! たとえ相手が王でもあんな感じだぜ、あの人は!」


 町の衆の喝采に手を振ったり帽子を上げたりして応えながら、一家は家へと戻る。

 ただし、ナブリオだけは小突かれていた。


「痛いよ、母さんマンマ


「うるさいよ! いいかい、いつも言ってるだろう? どんなことがあっても、名誉と約束だけは重んじるのだよ!」


「わ、わかってるよ、そんなことは」


 ナブリオーネ、通称ナブリオは、小突かれた頭を痛そうに撫でながら、それでもつよい視線で「僕は間違っていない」と言った。

 マリアは横目でナブリオを見て、そして「フン」と鼻で息をした。


「……まあ、ルチアーノを救おうとした。そこは評価してやるよ、ナブリオ。今夜のブイヤベースは、お前が一番に好きなだけすくい取って、食べるがいいさ」


「……本当?」


 マリア特製のブイヤベースは、この時代にはまだ珍しい、トマトが入っていることが特徴だ。

 そしてそのブイヤベースは、誰もが垂涎ものだった。


ありがとうグラッツェ母さんマンマ!」


 ナブリオは駆け出した。

 それを見て、ジュゼッペもルチアーノも駆け出す。


「待て、ナブリオ! おいルチアーノ、あれはしっかり見てないと、おれたちの分まで母さんマンマのブイヤベースを食べるつもりだぞ!」


「えっ。ひどいよナブリオ兄ちゃん!」


「へへん、早い者勝ち! ここまでおいで!」


 ナブリオがいち早く路地裏へ向けて駆けていく。

 ジュゼッペもルチアーノは後を追う。

 マリアはため息をついた。


「……まったく。さっき言ったこと、もう忘れてるじゃないか、ナブリオ」


 だがマリアの表情は、悪くないと言っていた。

 マリア・レティツィア・ディ・ブオナパルテ、旧姓ラモリノ。

 彼女こそが──ナブリオ、のちのナポレオン・ボナパルトの母であり、彼をして、「子供の将来の運命は、その母の努力によって定まる」と言わしめた女性である。

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