第二章 楊柳島の幽鬼①
陽が山の端にかかったころ、楊柳島が見えてきた。残照に浮かびあがるのは、いくつもの高楼だ。陽が沈むにつれてあたりには
夜行が禁じられている京師であれば、門という門が閉まり、にぎやかさの消えるときである。いや、そんな京師の城内にも、にぎやかな一角はあった。花街だ。つまりこの島まるごと、花街のようなものなのだろう。島に城壁はないようだ。城門もない。対岸と島とを隔てる川がその役割を果たしているのか。
港に着いて船を降りると、霊耀と月季は『
「董師公でございますか」
『師公』は高位の巫術師に対する敬称である。
「お迎えに参りました。
依頼主は旅館『清芳楼』の主人で、この男はそこの使用人だという。霊耀は月季とともに男のあとについていった。港は宵でも昼間であるかのような活気に満ちている。そこここに提灯を手にした出迎えの者、客引きの者たちがいて騒がしい。すでに酔っ払いがくだを巻いて、明かりの届かぬ地べたに寝そべっていた。
港から街へは石畳の敷かれた坂道で、両脇に料理屋や酒屋がひしめきあっている。軒先にやはり提灯が吊されているので、通りはまぶしいほどに明るい。通りのさきに見えるひときわ大きく立派な高楼は、
──いるのだ。
幽鬼が。
港からここまでの、浮ついた華やかな雰囲気にいくらか
使いの男に通された一室には、三十代くらいの男が座っていた。押し出しのいい
しかし霊耀の注意は彼にではなく、その後方に向いている。洪の斜め後ろ、部屋の隅に、女が
霊耀は無意識のうちに腕をさすっていた。室内に入ったときから、肌を刺すような冷気があった。その源はあの女であろう。
「近づいているのです」
あいさつもそこそこに、鼓方洪は震える声で言った。
「おわかりになるでしょう。そこにいます。うしろに。以前はもっと遠かった」
洪は視線を前方の床に固定し、けっしてふり向くまいとしているかのようだった。固く握りしめた両手が震えている。
「……彼女が分家のお嬢さんというのは、やはり間違いありませんか」
月季は静かに尋ねた。しかし洪を落ち着かせるには至らず、「そうです!」と彼は叫んで頭を抱えた。
「
月季は幽鬼のほうへ向き直ると、ゆっくりと近づいた。二、三歩手前で立ち止まり、幽鬼の顔をじっと見据える。
「東鼓寄娘」
月季の
──姓名がわかっているにもかかわらず、幽鬼が呼びかけに
月季は霊耀の表情を見て、軽くうなずいた。「あのとおり、呼びかけに応えないの。だから、実は別人なのかも、と思ったのだけど」
やはり正体に間違いはないというなら、ほかに呼びかけに応えぬ理由があるということだ。よほど執着する事柄があるとか、恨みがあるとか。
だが──と霊耀は幽鬼を眺める。彼女の佇まいからは、恨みの念を感じない。恨みを吞んで死んだ者の
「あなたのもとへ現れる理由を調べましょう。まずはそこからです」
月季は淡々と告げ、洪へ護符をさしだした。
「以前にもお渡しした護符です。そう害のない幽鬼に思えますが、念のため、予備に持っていてください」
「……ありがとうございます」
洪は護符を押しいただくようにして掲げ、ふところにしまった。
明日から調べをはじめることにして、霊耀と月季は寝泊まりする部屋へと案内される。さきほどの使用人が、ふたたびふたりのさきに立った。どうやら旅館の一等いい部屋を使わせてくれるらしい。高楼の最上階へと導かれた。その階の一室へと通される。
広々とした一室が、
「こちらは眺めもようございますので──」と開けられた格子窓からは、提灯の明かりが灯る花街を一望できた。
「お弟子さんにはこちらをお使いいただければ」
帳で区切られた、寝台くらいしかない狭いひと間を見せて使用人が言った。自分に言われているのだと、ひと呼吸置いてから霊耀は気づいた。霊耀は祀学堂の制服姿で、これは言わば巫術師見習いの服であるので、そう思われたのも無理はない。
「彼は弟子じゃないわ」
月季がにこりと笑う。「
「へっ、許婚──」使用人はぽかんとする。
説明が面倒だから、弟子ということにしておけばいいのに、と霊耀は思う。案の定、使用人は困った顔をしていた。
「はあ、そうしますと、お部屋はどういたしましょう。べつのお部屋を──ああ、でもほかに空いている部屋があったかどうか」
「部屋はここだけでじゅうぶんよ。遊びに来ているわけじゃなし、おかまいなく」
「さようでございますか」
使用人は
「面倒だから、弟子とでもしておけばいいだろう。あるいは助手だとか」
言って、霊耀は荷物を寝台の上に置く。側仕えの使用人向けのものなのだろう、主人用の寝台とは違って飾り気がない。しかしいい部屋だけに粗末でもなかった。本来なら別室が望ましいが、無理は言えないし、これだけ広い部屋で、衝立や帳で区切られてもいるから、もはや別室と考えていいだろう。そう自分を納得させた。
「噓をつくほうがあとあと面倒よ。わたしはともかく、あなたには向いてないと思うわ」
「腹芸ができぬと?」
「そうは思ってないけど、じゃあ、あなた、わたしに『師匠』だの『先生』だの言って弟子のふるまいができるの?」
「…………」できると断言はしがたいものがある。
「ほら、ごらんなさい。ね、正直に言っておいてよかったでしょう」
得意げに言われると
「遊びに来たわけじゃないと、おまえがさっき言っていたんだぞ。明日に備えてさっさと寝ろ」
「ああ、あなたはあちらの寝台を使えばいいわ。体の大きさからいって、それが妥当でしょう」
月季は主人用の寝台を指さす。
「俺はこちらでいい。同行者に過ぎないんだから」
「変なところにこだわるんだから。そちらじゃ窮屈でまともに寝られないでしょう。ちゃんと寝て、元気でいてくれないと困るわ。遊びじゃないんですからね」
ぽんぽんと、実によく舌がまわる。霊耀は口達者なほうではないので、返す言葉がすぐには出てこない。
「はい、じゃあ決まりね。あちらへ行って」
月季は寝台から霊耀の荷物をのけると、腰をおろした。なんだかんだで霊耀は、月季にいつも押し切られている気がする。
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