第二章 楊柳島の幽鬼①

 陽が山の端にかかったころ、楊柳島が見えてきた。残照に浮かびあがるのは、いくつもの高楼だ。陽が沈むにつれてあたりにはうすあいかげが落ち、それに呼応するように、ぽつりと高楼に明かりがともった。軒先につるされたちようちんが、ひとつ、またひとつと、灯ってゆく。薄藍から濃紺へと、暗くなるごと明かりは増え、陽が沈みきるころには、すみれいろの空の下、赤い提灯がこうこうと輝く島の姿があった。

 夜行が禁じられている京師であれば、門という門が閉まり、にぎやかさの消えるときである。いや、そんな京師の城内にも、にぎやかな一角はあった。花街だ。つまりこの島まるごと、花街のようなものなのだろう。島に城壁はないようだ。城門もない。対岸と島とを隔てる川がその役割を果たしているのか。

 港に着いて船を降りると、霊耀と月季は『せいほうろう』と書かれた提灯を提げた初老の男に声をかけられた。

「董師公でございますか」

『師公』は高位の巫術師に対する敬称である。

「お迎えに参りました。あるじが待ちわびておりますので、ご案内いたします」

 依頼主は旅館『清芳楼』の主人で、この男はそこの使用人だという。霊耀は月季とともに男のあとについていった。港は宵でも昼間であるかのような活気に満ちている。そこここに提灯を手にした出迎えの者、客引きの者たちがいて騒がしい。すでに酔っ払いがくだを巻いて、明かりの届かぬ地べたに寝そべっていた。

 港から街へは石畳の敷かれた坂道で、両脇に料理屋や酒屋がひしめきあっている。軒先にやはり提灯が吊されているので、通りはまぶしいほどに明るい。通りのさきに見えるひときわ大きく立派な高楼は、ろうであろう。『清芳楼』の使いはその門をくぐり、さらに通りの奥へと進んだ。奥へ向かうほど土地が高くなり、建物も豪壮になる。使いの男はそうした建物のひとつ、『清芳楼』の額が掲げられた高楼へと霊耀と月季を招き入れた。ずらりと吊された提灯のほか、『酒』と書かれた青いのぼりもある。入ってすぐは食堂で、幟のとおり酒も出されているようだが、たちの悪い酔客はいない。客筋はいいらしい。渡り廊下を歩いて主人の住まいらしき棟に入ると、なかは妙にひんやりとしていた。湿地でもないのに、湿っぽいにおいもする。霊耀はけげんに思って月季を見ると、彼女は軽くうなずいた。

 ──いるのだ。

 幽鬼が。

 港からここまでの、浮ついた華やかな雰囲気にいくらかまれていた霊耀は、気を引き締めた。

 使いの男に通された一室には、三十代くらいの男が座っていた。押し出しのいいわかだんといったふうぼうなのだが、顔は青ざめ、精彩を欠いている。彼が依頼主である『清芳楼』の主人、鼓方こうだった。

 しかし霊耀の注意は彼にではなく、その後方に向いている。洪の斜め後ろ、部屋の隅に、女がたたずんでいた。部屋の隅はしよくだいとうろうの明かりも届かず暗いのに、女の風体は光をあてたように浮かびあがって見える。結いあげたこうけいに、上等そうな織りのじゆくん。全身ぐっしょりとれており、藻にまみれている。うつむいた顔には影が落ち、表情は判然としない。

 霊耀は無意識のうちに腕をさすっていた。室内に入ったときから、肌を刺すような冷気があった。その源はあの女であろう。

「近づいているのです」

 あいさつもそこそこに、鼓方洪は震える声で言った。

「おわかりになるでしょう。そこにいます。うしろに。以前はもっと遠かった」

 洪は視線を前方の床に固定し、けっしてふり向くまいとしているかのようだった。固く握りしめた両手が震えている。

「……彼女が分家のお嬢さんというのは、やはり間違いありませんか」

 月季は静かに尋ねた。しかし洪を落ち着かせるには至らず、「そうです!」と彼は叫んで頭を抱えた。

とう家の末の娘、じようです。東鼓家の者に確認してもらいましたから、間違いありません。数日前に船から落ちて、おぼれ死んだんです。どうして──どうして私のところに」

 月季は幽鬼のほうへ向き直ると、ゆっくりと近づいた。二、三歩手前で立ち止まり、幽鬼の顔をじっと見据える。

「東鼓寄娘」

 月季のりんとした、澄んだ声が響く。幽鬼は身じろぎもしない。月季は再度、おなじように呼びかけたが、幽鬼の反応はなかった。月季は表情を変えることなくもとの場所へ戻ってくるが、霊耀はまゆをひそめた。

 ──姓名がわかっているにもかかわらず、幽鬼が呼びかけにこたえない。

 じゆつが幽鬼をはらおうというとき、いちばん厄介なのはどこの誰だかわからないときだ。姓名がわかれば呼びかけることもできるし、ばつじよの儀式を行うこともできる。

 月季は霊耀の表情を見て、軽くうなずいた。「あのとおり、呼びかけに応えないの。だから、実は別人なのかも、と思ったのだけど」

 やはり正体に間違いはないというなら、ほかに呼びかけに応えぬ理由があるということだ。よほど執着する事柄があるとか、恨みがあるとか。

 だが──と霊耀は幽鬼を眺める。彼女の佇まいからは、恨みの念を感じない。恨みを吞んで死んだ者のまがまがしさは、あんなものではないはずだ。それこそ、先日出くわした女の幽鬼のように。

「あなたのもとへ現れる理由を調べましょう。まずはそこからです」

 月季は淡々と告げ、洪へ護符をさしだした。

「以前にもお渡しした護符です。そう害のない幽鬼に思えますが、念のため、予備に持っていてください」

「……ありがとうございます」

 洪は護符を押しいただくようにして掲げ、ふところにしまった。


 明日から調べをはじめることにして、霊耀と月季は寝泊まりする部屋へと案内される。さきほどの使用人が、ふたたびふたりのさきに立った。どうやら旅館の一等いい部屋を使わせてくれるらしい。高楼の最上階へと導かれた。その階の一室へと通される。

 広々とした一室が、ついたてとばりでいくつかに区切られていた。透かし彫りやでんの美しい衝立、帳は薄絹もあれば、きんらんどんもある。卓や寝台はたんで作られており、日々丁寧にいているのだろう、上品なつやを帯びている。銅製のきやしやな香炉からは細い煙がたなびき、芳香が漂っていた。卓上には薄紅色をした一重のも生けてある。

「こちらは眺めもようございますので──」と開けられた格子窓からは、提灯の明かりが灯る花街を一望できた。

「お弟子さんにはこちらをお使いいただければ」

 帳で区切られた、寝台くらいしかない狭いひと間を見せて使用人が言った。自分に言われているのだと、ひと呼吸置いてから霊耀は気づいた。霊耀は祀学堂の制服姿で、これは言わば巫術師見習いの服であるので、そう思われたのも無理はない。

「彼は弟子じゃないわ」

 月季がにこりと笑う。「許婚いいなずけよ」

「へっ、許婚──」使用人はぽかんとする。

 説明が面倒だから、弟子ということにしておけばいいのに、と霊耀は思う。案の定、使用人は困った顔をしていた。

「はあ、そうしますと、お部屋はどういたしましょう。べつのお部屋を──ああ、でもほかに空いている部屋があったかどうか」

「部屋はここだけでじゅうぶんよ。遊びに来ているわけじゃなし、おかまいなく」

「さようでございますか」

 使用人はあんと不安が入り混じった顔をしたものの、「そうしましたら……」と立ち去っていった。

「面倒だから、弟子とでもしておけばいいだろう。あるいは助手だとか」

 言って、霊耀は荷物を寝台の上に置く。側仕えの使用人向けのものなのだろう、主人用の寝台とは違って飾り気がない。しかしいい部屋だけに粗末でもなかった。本来なら別室が望ましいが、無理は言えないし、これだけ広い部屋で、衝立や帳で区切られてもいるから、もはや別室と考えていいだろう。そう自分を納得させた。

「噓をつくほうがあとあと面倒よ。わたしはともかく、あなたには向いてないと思うわ」

「腹芸ができぬと?」

「そうは思ってないけど、じゃあ、あなた、わたしに『師匠』だの『先生』だの言って弟子のふるまいができるの?」

「…………」できると断言はしがたいものがある。

「ほら、ごらんなさい。ね、正直に言っておいてよかったでしょう」

 得意げに言われるとしやくに障る。黙っている霊耀にかまわず、月季は「なんだかお腹がいてきたわ。食堂は夜遅くまでやっているのよね。それとも浴場のほうに行こうかしら。浴場って、どんなふうかしらね」などとしゃべっている。『清芳楼』は大きな共同浴場があるのが売りのひとつらしい。

「遊びに来たわけじゃないと、おまえがさっき言っていたんだぞ。明日に備えてさっさと寝ろ」

「ああ、あなたはあちらの寝台を使えばいいわ。体の大きさからいって、それが妥当でしょう」

 月季は主人用の寝台を指さす。

「俺はこちらでいい。同行者に過ぎないんだから」

「変なところにこだわるんだから。そちらじゃ窮屈でまともに寝られないでしょう。ちゃんと寝て、元気でいてくれないと困るわ。遊びじゃないんですからね」

 ぽんぽんと、実によく舌がまわる。霊耀は口達者なほうではないので、返す言葉がすぐには出てこない。

「はい、じゃあ決まりね。あちらへ行って」

 月季は寝台から霊耀の荷物をのけると、腰をおろした。なんだかんだで霊耀は、月季にいつも押し切られている気がする。

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