第一章 月季と霊耀 ③

 月季が霊耀の許婚にと定められたのは、おたがいが十歳のときだった。霊耀は父につれられ、董家を訪れたのを覚えている。董家は封家とともにじゆつの二大名家だった。現王朝の初代皇帝・えんていに巫術師は迫害を受け、その存在はほとんど絶えたも同然であったのを、三代目皇帝および今上帝とともに再興したのが董家と封家だった。その両家の縁談である。

 あいさつを交わした月季はおとなしく、伏し目がちで、表情も口数も乏しかった。いまとはずいぶん違う。彼女はその半年前に董家に養女として引き取られていた。もとは董家の遠縁の家柄だという。いきさつは知らないが、おそらく月季の才を見込んで、董家当主は彼女を引き取ったのだろう。すでにその歳で月季は護符も使わず幽鬼を祓うことができた。結界は堅固で、弱い幽鬼であれば結界に用いられるひもに触れただけで消えせた。彼女のあの黒い羽根が飛ぶ術はいったいどういうものなのか、ほかのどの巫術師にも使えぬ術だった。

 はじめて顔を合わせた数日後のことだったと思う。霊耀は市でひとりでいる月季を見つけた。燕がその頭の上にとまっていた。侍女も下僕もつけず、市の片隅でぽつんとうずくまっていたので、霊耀は声をかけた。霊耀は寒翠のほか、大人の従者もつれていた。月季は、ひとりで市に来て、迷ってしまったと疲れた様子で答えた。なぜひとりで市に来たのかは言わなかったし、霊耀もきそびれた。いま思えば、よくひとさらいなどに目をつけられなかったものだと恐ろしくなる。霊耀は半べそをかいている月季をつれて董家に送り届けた。その途上のことである。

 霊耀たちは、幽鬼にあとをつけられた。市で拾ってきてしまったらしい。人混みでは、そういうことがある。幽鬼は己に気づいた者にこうとする。

 市の門を出て、大通りを歩いているとき、月季がそれに気づいた。

「うしろから、幽鬼がついてきてる」

 そのころ月季は幽鬼をひどく恐れていて、顔をひきつらせ、震えていた。対して霊耀は巫術師の家に生まれ、幼いときから幽鬼など見慣れていたので、さして怖いとも感じなかった。くるりとふり返ると、通りを行き交う人波や馬車の向こう、たしかに幽鬼がいた。霊耀の母とおなじくらいの年頃に見える女だった。一見すると生者と変わりない。しかし青白い顔に生気はなく、視線も定まらない。赤い衣を着ているようだった。ほとんど足が動かず、ゆっくり歩いているように見えるのに、疾走しているかのように近づいてくるのが妙に早い。

「案じることはない。父上からもらった護符がある」

 霊耀はふところをたたいた。それでも月季は不安げに何度もうしろをふり返っていた。

 大通りから董家の屋敷がある通りへと入ったとき、それまで月季の頭の上にのっていたつばめが、急にばたばたと羽ばたいて上空を旋回した。かと思えばひゅうっと足もとをかすめて飛び、霊耀たちは驚いてけた。月季が声をあげてその場にうずくまり、泣きだした。怖い、怖いと言って泣く。霊耀は困惑してその背を撫でてやった。気づいたときには、背後に幽鬼がいた。

 ふところから護符をとりだす間もなく、霊耀の総身は氷をあてられたように冷たくなった。思えばこのとき、霊耀は幽鬼に取り憑かれたのだろう。のどが冷えて息をするのも痛く、血流が鈍り、鼓動が弱まるのを感じた。死ぬのだろうか、とは思わなかった。そう思うよりさきに、月季に助けられたからだ。

 月季は霊耀の胸に手をあてた。その瞬間、体のこわばりがとれて、冷たさがふっと消えた。月季の大きな目が霊耀を見つめていた。まつが涙にれていたが、もう彼女の目に恐怖の色はなかった。周囲に黒い羽根が舞い散っていた。それが霊耀の背後に集まる。ふり返ると、羽根は幽鬼を覆い隠すところだった。幽鬼は目をみはり、なにか叫ぼうとしてか大きく口を開いていたが、そこに羽根が詰まり、声は出なかった。幽鬼は羽根に包み込まれ、それが霧と化したときには、消えていた。影も形もなかった。

 月季の力を見たのは、そのときがはじめてだった。圧倒された。護符もなく、じゆごんもなく、剣も使わず、幽鬼を消し去った。

 ──才とは、こういうものなのだ。

 と、子供ながら霊耀は思い知った。このとき助けてもらった礼をちゃんと告げたかどうか、霊耀は覚えていない。しつのにじんだ目でにらんだかもしれない。夢でもこの光景は幾度も見るが、霊耀はいつでも嫉妬に駆られている。

 ──あの才が己にあったならば。

 そう思うたび、いやでたまらなくなる。なぜ彼女が許婚なのだろう。いや、わかっている。

 ──俺に才がないからだ。


「若、旦那様がお呼びですよ」

 寒翠に呼ばれて、霊耀は父のもとへと向かった。予告どおり、月季が訪ねてきていた。今日の月季はふだんの黒衣ではなく、良家の子女らしい上等のじゆくんに身を包んでいる。高く結いあげた髪には、きらびやかなかんざしや花が挿してあった。

「そこに座りなさい」

 父は月季の隣を示した。霊耀は言われたとおりに座る。月季は霊耀を見て顔を傾け、にこりと笑った。いやな予感がする、と霊耀はなんとなく思った。

「月季殿は、依頼を受けて明日にもさく州のようりゆうとうへ向かうそうだ。霊耀、おまえは彼女に同行するように」

 父らしい、端的でわかりやすい説明だった。──が。

「同行? なぜですか」

 幽鬼をはらうのであれば月季ひとりでじゅうぶんだろう。霊耀が同行する意味がわからない。

「董家当主からの頼みだ。いくらなんでも、若い娘ひとりで京師から出すわけにはいかぬと」

「はあ……」

 若い娘といったって、月季ではないか。祓えぬものなどないというたいの巫術師ではないか。そう思っているのが顔に出たのか、父は深いため息をついた。

「おまえ……考え違いをしていないか。月季殿は巫術師としては優秀だが、若い娘には変わりない。剣は持っていてもそれは巫術に用いるものであって、剣術ができるわけでもなければ、腕っ節が強いわけでもない。索州は京師からそう遠くもないが、ひとり旅をさせるわけにもいくまい」

「護衛を雇えばよいのでは」

「どこの馬の骨とも知れぬ者を同行させたくはないと先方は言うのだ」

「私であれば許婚だからちょうどよいと」

「気がすすまぬのであれば断ってもよい」

 さらりと父は言う。父のこういうところがいやだ、と思う。断れるわけがない。霊耀が封家の跡継ぎでいられるのは、月季が許婚だからだ。破格の力を持つ月季を妻に据えることで董家との均衡を保つ、それが霊耀の役目である。

 父は亡き祖父の養子だ。祖父もまた養子だった。巫術の才を見込まれてのことだ。封家は血筋ではなく能力で跡継ぎを選んできた。いま霊耀が跡継ぎなのは、ただ父が己の血を継いだ息子に跡を継がせたいという欲があるからだ。

「……同行するあいだ、祀学堂はどうします」

「座学くらい、おまえならあとからすぐに追いつけるだろう」

「わかりました。同行します」

 半ば投げやりに答えた。「話がそれだけなら、失礼します」言うや否や、霊耀は席を立った。

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