第一章 月季と霊耀 ②
腰に
霧が薄らいで、幽鬼の姿が見える。その姿はさきほどとは違い、白い面に整った鬟の、生きた女のようであった。
黒衣の彼女がふり向く。その目は霊耀に向けられている。うっすらと微笑を浮かべていた。つややかな黒髪は
董月季。霊耀がつねに
月季は優雅な足どりで霊耀に歩み寄ると、膝をついて顔を
「怪我をしてらっしゃるわ。あなたはそうやって、すぐ無理をなさるのだから」
涼やかでやわらかい声が響き、霊耀の頰に
「ご安心なさって、清潔なものよ」
再度、手巾を霊耀の頰に押しあてると、霊耀の手をとり、その上から押さえさせた。
「董……董
男が這うようにしてこちらに近づいてくる。例の幽鬼から逃げていた中年男である。顔は汗と涙にまみれ、頭に
「あれは……あれは消えたのでしょうか。もう襲ってはきませんか」
震える声で尋ねる。月季は立ちあがり、彼に向かってにこりと笑った。どこか冷ややかな笑みだった。
「もう大丈夫でございます。彼女は楽土へと旅立ちました。あなたのもとへ現れることはないでしょう」
ああ! と男は喜色を浮かべ、月季を伏し拝んだ。
「ありがとうございます、ありがとうございます……! あの幽鬼が現れてからというもの、もう生きた心地もなく──」
どうやら月季はこの男からさきほどの幽鬼を
とうの月季は観衆の目も声もまるで気にするふうがない。何度もうれしげに礼を述べる男を冷ややかに見おろしていた。依頼を無事終えたのに、さして喜ばしそうでもない。不可解な思いで霊耀が月季を眺めていると、彼女はつと顔をあげ、前方に目を向けた。霊耀もつられてそちらを見る。鳥が一羽、月季のもとへと飛んできた。
「市の東壁南角にある両替商の
男はぽかんとした顔で捕吏を見あげた。「はあ、さようでございますが……」
「密告によりおまえの屋敷の庭を掘り返したら、女の
男の顔から血の気が引いた。ぱくぱくと口を動かすが、声は出てこない。
「さあ、立て」
捕吏が両側から男を立ちあがらせる。男は震えあがっていた。
「ちが、違うんだ、あれは、聞いてくれ、あの女が勝手に死んで──」
わめきながら引っ立てられてゆく男を、霊耀はあっけにとられて眺める。ふと視線を月季に向けると、彼女はそんなものには興味もなさそうに、細い指で燕の背を
「……どういうことだ?」
霊耀が立ちあがると、月季は燕を肩に乗せ、
「あの豪商は、夜な夜な
霊耀は眉をひそめた。「では──おまえがそれを密告したのか?」
月季は答えず、ほほえんだだけだった。霊耀は幽鬼が消えたあたりを見やり、尋ねた。
「おまえは最後、あの幽鬼になんと言ったんだ?」
これには、月季は答えた。
「『あの男はちゃんと破滅するから、あなたは安心して楽土へお渡りなさい』──そう言ったのよ」
そうか、と言い、霊耀はもうひとつ尋ねる。
「あの幽鬼は、無事に楽土へ行けそうか?」
月季はじっと霊耀の顔を見つめたあと、花のような笑顔を見せた。
「ええ、きっと」
若、と寒翠が駆けよってくる。「ご無事ですか? わっ、怪我を!
「かすり傷だ。黙っていればわからぬ。──それより」
霊耀は空を見あげた。夕焼けに染まっている。
「朱墨を買いそびれたな。いまからでは遅い」
そろそろ閉門を告げる
「まあ、お買い物だったの? 巻き込んで、悪いことをしてしまったわ」
月季は小首をかしげる。
「いや、首を突っ込んだのは俺のほうだ」
──できることなど、なにもないのに。
内心、落ち込む。月季が困ったような顔をした。
「朱墨なら、わたしが余分に持っているから、お屋敷のほうへお届けしましょうか」
気遣うように言う。買いそびれたことに気落ちしているとでも思ったのだろうか。変な女だな、と霊耀は思う。霊耀に気を遣ってもなんの得もないだろうに。
「いや、べつにその必要はない」
「あら、そう」
月季はどこか落胆したような顔を見せて、口をつぐむ。気遣いを無にされたことが気に入らなかったのだろうか。
でも、と月季はふたたび口を開いた。
「でも、ちょうど明日にでもあなたのお宅に伺おうと思っていたのよ。あなたに頼みたいことがあって」
「頼みたいこと? なんだ?」
「それは明日お話しするわ」
にこやかに告げる月季に問い
「あいかわらず、仲のよろしいことで」
市門に向かって急ぐさなか、寒翠がそんなことを言う。
「どこをどう見てそう言えるんだ?」
「花街に足を向けもしない若があれだけ親しく口をきける乙女は、あのかたくらいでしょう」
「それは──口をきかぬわけにもいかないだろう」
苦々しい思いで霊耀は言う。
「
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