第一章 月季と霊耀 ②

 腰にいた細身の剣は、さやは黒漆、つかにはふかの皮を巻き、金具は金銅、ところどころに水晶がめ込まれている。彼女はその柄に軽く左手を置き、幽鬼の前に立った。手を柄から離し、右手とともにゆっくりと顔の前に持ってくる。優美な仕草であった。両手の指を軽く合わせて、唇を近づける。ふう、とそこに息を吹きかけた。あたりに漂っていた黒い羽根が、一陣の風を受けたかのように揺らめいて吹かれ、幽鬼を取り巻いた。羽根は美しく輝き、ゆらりと溶けてかすむ。幽鬼は薄墨の霧に囲まれ、見えなくなる。幽鬼の咆哮が弱々しくこだました。いや、それは咆哮というより、すすり泣きの声だった。

 霧が薄らいで、幽鬼の姿が見える。その姿はさきほどとは違い、白い面に整った鬟の、生きた女のようであった。れんな若い女である。それがすすり泣いている。掲げていた両手をおろすと、彼女はすすり泣く幽鬼に近づいた。身をかがめ、何事か幽鬼の耳元でささやく。幽鬼は泣きれた顔で彼女を見あげると、礼を言うように地にぬかずいた。その姿が、ゆっくりと薄れてゆく。風が吹いた。地面から砂が巻き上がったと思ったときには、幽鬼の姿は消えせていた。

 黒衣の彼女がふり向く。その目は霊耀に向けられている。うっすらと微笑を浮かべていた。つややかな黒髪はそうかんに結いあげ、そこに黒い羽根飾りを挿している。透き通るような青白い額に形のよいまゆ、その下にある目はきようにん形で、まつが長いのが数歩離れたこの距離でもわかる。弧を描く唇は、紅をひいたわけでもなさそうであるのに赤い。総じてわく的な顔立ちをしている。ことにその目つきが。霊耀は目をそらすのも悔しく、じっと見返していた。

 董月季。霊耀がつねにいらちとともに思い浮かべるのは、彼女だった。

 月季は優雅な足どりで霊耀に歩み寄ると、膝をついて顔をのぞき込んだ。衣に香をきしめているのか、いいにおいが漂う。間近に見る月季のひとみは濡れたように輝き、吸い込まれそうだった。

「怪我をしてらっしゃるわ。あなたはそうやって、すぐ無理をなさるのだから」

 涼やかでやわらかい声が響き、霊耀の頰にしゆきんがあてられる。ぎょっとした霊耀は、身をよじって月季から離れた。月季は驚いたように目をみはるが、すぐに笑みを見せる。

「ご安心なさって、清潔なものよ」

 再度、手巾を霊耀の頰に押しあてると、霊耀の手をとり、その上から押さえさせた。

「董……董こう!」

 男が這うようにしてこちらに近づいてくる。例の幽鬼から逃げていた中年男である。顔は汗と涙にまみれ、頭にかぶったぼくとうも乱れて、豪奢な服もつちぼこりにまみれている。どれだけ必死にあの幽鬼から逃げていたかわかる。

「あれは……あれは消えたのでしょうか。もう襲ってはきませんか」

 震える声で尋ねる。月季は立ちあがり、彼に向かってにこりと笑った。どこか冷ややかな笑みだった。

「もう大丈夫でございます。彼女は楽土へと旅立ちました。あなたのもとへ現れることはないでしょう」

 ああ! と男は喜色を浮かべ、月季を伏し拝んだ。

「ありがとうございます、ありがとうございます……! あの幽鬼が現れてからというもの、もう生きた心地もなく──」

 どうやら月季はこの男からさきほどの幽鬼をはらうよう、依頼を受けていたようだった。遠巻きに成り行きを見ていた観衆が、ざわめくのが聞こえてくる。あれが董月季か、当代きっての巫術師だという──そんな声が聞こえる。

 とうの月季は観衆の目も声もまるで気にするふうがない。何度もうれしげに礼を述べる男を冷ややかに見おろしていた。依頼を無事終えたのに、さして喜ばしそうでもない。不可解な思いで霊耀が月季を眺めていると、彼女はつと顔をあげ、前方に目を向けた。霊耀もつられてそちらを見る。鳥が一羽、月季のもとへと飛んできた。つばめである。月季が白い手を差し伸べると、燕はそこにとまった。月季が飼っている燕だった。そのあとを追うように、騒々しい足音が近づいてくる。数人の捕吏が走ってくるのが見えた。市を管理する市署の捕吏である。騒ぎを聞きつけてやってきたのか、と思ったが、違った。

「市の東壁南角にある両替商のか?」

 男はぽかんとした顔で捕吏を見あげた。「はあ、さようでございますが……」

「密告によりおまえの屋敷の庭を掘り返したら、女のなきがらが出てきた。話を聞かせてもらおう」

 男の顔から血の気が引いた。ぱくぱくと口を動かすが、声は出てこない。

「さあ、立て」

 捕吏が両側から男を立ちあがらせる。男は震えあがっていた。

「ちが、違うんだ、あれは、聞いてくれ、あの女が勝手に死んで──」

 わめきながら引っ立てられてゆく男を、霊耀はあっけにとられて眺める。ふと視線を月季に向けると、彼女はそんなものには興味もなさそうに、細い指で燕の背をでていた。霊耀と目が合うと、にこりと笑う。

「……どういうことだ?」

 霊耀が立ちあがると、月季は燕を肩に乗せ、そでで口もとを隠してささやいた。

「あの豪商は、夜な夜なめかけを痛めつけるのが趣味だったの。ついには妾をいじめ殺して、埋めたのよ。それで妾は幽鬼になって、彼を殺そうとしたの」

 霊耀は眉をひそめた。「では──おまえがそれを密告したのか?」

 月季は答えず、ほほえんだだけだった。霊耀は幽鬼が消えたあたりを見やり、尋ねた。

「おまえは最後、あの幽鬼になんと言ったんだ?」

 これには、月季は答えた。

「『あの男はちゃんと破滅するから、あなたは安心して楽土へお渡りなさい』──そう言ったのよ」

 そうか、と言い、霊耀はもうひとつ尋ねる。

「あの幽鬼は、無事に楽土へ行けそうか?」

 月季はじっと霊耀の顔を見つめたあと、花のような笑顔を見せた。

「ええ、きっと」

 若、と寒翠が駆けよってくる。「ご無事ですか? わっ、怪我を! だん様に𠮟られるなあ」

「かすり傷だ。黙っていればわからぬ。──それより」

 霊耀は空を見あげた。夕焼けに染まっている。

「朱墨を買いそびれたな。いまからでは遅い」

 そろそろ閉門を告げるの音が聞こえてきそうだ。もう帰らねば居住区の坊門も閉まってしまう。

「まあ、お買い物だったの? 巻き込んで、悪いことをしてしまったわ」

 月季は小首をかしげる。

「いや、首を突っ込んだのは俺のほうだ」

 ──できることなど、なにもないのに。

 内心、落ち込む。月季が困ったような顔をした。

「朱墨なら、わたしが余分に持っているから、お屋敷のほうへお届けしましょうか」

 気遣うように言う。買いそびれたことに気落ちしているとでも思ったのだろうか。変な女だな、と霊耀は思う。霊耀に気を遣ってもなんの得もないだろうに。

「いや、べつにその必要はない」

「あら、そう」

 月季はどこか落胆したような顔を見せて、口をつぐむ。気遣いを無にされたことが気に入らなかったのだろうか。

 でも、と月季はふたたび口を開いた。

「でも、ちょうど明日にでもあなたのお宅に伺おうと思っていたのよ。あなたに頼みたいことがあって」

「頼みたいこと? なんだ?」

「それは明日お話しするわ」

 にこやかに告げる月季に問いただそうとするも、市鼓が鳴りはじめて、霊耀はあわただしく立ち去るしかなかった。

「あいかわらず、仲のよろしいことで」

 市門に向かって急ぐさなか、寒翠がそんなことを言う。

「どこをどう見てそう言えるんだ?」

「花街に足を向けもしない若があれだけ親しく口をきける乙女は、あのかたくらいでしょう」

「それは──口をきかぬわけにもいかないだろう」

 苦々しい思いで霊耀は言う。

許婚いいなずけなのだから」

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