烏衣の華

白川紺子/角川文庫 キャラクター文芸

第一章 月季と霊耀 ①

 ──しよう京師みやこには、たいじゆつがいる。

 人々はそう噂した。

 幽鬼もじゆもたちどころにはらい、護符は霊験あらたかで、たいがこぞって屋敷に招く。皇帝陛下の覚えもめでたく、禁中巫術師をさしおいて、さいには彼女を呼んだ。

 その名をとうげつ

 まだよわい十七の、うら若きぼうの乙女であるという。


ほう家の若様じゃないか」

 雑踏のなか、その声にふり返った封れい耀ようは、聞こえぬふりをしておけばよかったと後悔した。いたのはがくどうの同輩ふたりだった。揃いの薄墨色のほうに白い腰帯、その上から革帯を締めている。霊耀もおなじ装いだ。祀学堂──巫術のまなの制服である。同輩たちは小馬鹿にするようなうすら笑いを浮かべていた。

「従者をつれてお買い物か? 自分で来ずとも、使用人がいくらでもいるだろうに」

 霊耀は護符に用いる朱墨を買うため、いちを訪れていた。従者をつれているのは、ひとりで市に来ると家の者がうるさいからだ。そうしたことをいちいち説明するのも面倒だし、説明したところで霊耀にも同輩たちにもなんの益もない。

「そのとおり、買い物だ」霊耀は軽くうなずいて問いに答え、「さきを急ぐので失礼する」と、さっさとその場を離れようとした。にもかけぬその態度に同輩たちはムッとした様子で、ひとりが霊耀の腕をつかんだ。

「おい、封家の者だからって──」

 霊耀は静かに向き直り、相手の目を見据えた。彼らよりも霊耀は上背があり、体も鍛えている。せいかんで、黙っているだけで不機嫌だと誤解される端整な顔立ちでもある。したがって、ただ上から黙って見おろすだけで、たいていの相手はひるんだ。今回の相手も同様にぎくりとした顔で手を離し、あとずさった。

 今度こそ霊耀はきびすを返し、その場を離れた。うしろから「巫術の才もないくせに、えらそうに──」という捨て台詞ぜりふが聞こえても、ふり返らなかった。

「げんこつのひとつくらい、お見舞いしたってよかったんじゃありませんか、若」

 従者のかんすいが口をとがらせる。

「そんな真似をして、父上から𠮟しつせきを受けるのは俺だぞ。くだらん」

「でも、腹が立つじゃありませんか。若の苦労を知りもせず」

「面と向かってつっかかってくるだけ、やつらはましだろう」

 同輩たちの多くは、霊耀に冷ややかな視線を向けるだけだ。あるいは、聞こえぬようにひそやかな陰口をたたくだけ。なぜなら祀学堂の学長は霊耀の父だからだ。追い出されてはかなわないから、ほとんどの者ははっきりととうしない。巫術の才もないくせに、巫術師の名門・封家の嫡男として大きな顔をしている、と。

「祀学堂なんておやめになったらいいでしょうに……いくらでもよい師がお屋敷まで教えに来ますよ」

 寒翠はぶつぶつと文句を言っている。彼は霊耀の乳母めのとなので、従者というよりは幼なじみに近いものがあり、他人の前ではさすがに慎んでいるが、ふたりで話すときにはずいぶん気安い口をきく。それを霊耀も許している。ほかに気心の知れた友人がいないせいかもしれない。

「ひとりで学ぶのでは、己と他者の力量の違いがわからぬ」

「若はとうかんになりたいんでしょう。それならなにも巫術を学ばずともいいじゃありませんか」

 冬官は祭祀をつかさどる冬官府の長官である。

「祭祀と巫術は切っても切れぬ。祭祀官だからといって巫術をなにも知らぬというわけにはいかない。それがわからぬのであれば口を出すな」

 霊耀は寒翠をじろりとにらんだ。さすがに差し出口が過ぎると当人も思ったか、寒翠は「申し訳ございません」と謝った。

「……いい。急ぐぞ。市門が閉まる前に買い物をすませて帰らねば」

 日没とともに市門は閉まり、翌朝まで開かれない。いま陽はだいぶ西へと傾いている。

「市門が閉まったら、その辺の宿屋に泊まればいいですよ。なんなら、花街へ繰り出して」

「馬鹿を言うな」

「お固いですねえ、十七歳とは思えない」

 ふたたびじろりとにらむと、寒翠はにやついた笑いを浮かべ、肩をすくめただけだった。霊耀はため息をつき、寒翠の軽口につきあうのをやめて歩を速めた。

 己に巫術の才がないことを霊耀が自覚したのは、十歳のときだ。

 幽鬼は見える。その声も聞こえる。座学ならば同輩の誰にも負けぬという自負はある。しかし祓う力がない。護符はなんら役に立たず、結界も用を成さない。

 ──なにより、だ。

 その名を聞くたび、あの顔を思い出すたび、霊耀は知らずしらず、けんしわが深くなっている。

 董月季。

 彼女にはじめて会ったときに、霊耀は己の無力を思い知った。

 ほんの十歳のときから彼女は美しく、また無敵であった。

 考えまいとするほど彼女の顔が浮かぶのを、霊耀は頭をふって追い払う。前方の騒ぎに気づいたのは、そのときだった。

 固いものが割れる音に、逃げ惑う足音、ろうばいした男の叫び声。視線をあげると、人混みをかきわけ走るかつぷくのいい中年男の姿が見えた。男は必死の形相だ。周囲の人々は戸惑っている。彼がなにから逃げているのかわからないからだ。市は道の両側に店が軒を連ね、その手前にも商人が屋台を出してものを売っている。振り売りの行商人もいる。そのあいだを買い物客が行き交うのだから、たいそうな混雑である。その混雑のなかを、男はひきつった顔で逃げ惑う。身分いやしからぬ風体をしている。官人ではない。おそらく裕福な商人だ。高級官吏は市に出入りできぬ決まりであったし、低級官吏ならばああもごうしやな絹の服は着られない。男はしきりにふり返り、店の屋根のほうに目を向けていた。霊耀もそちらに視線をずらす。すると、理解した。男がなにから逃げているのか。

 幽鬼がいる。四つんいになった幽鬼ががわらを踏み割り、としながら男を追っている。もとは女だったのだろうとまげじゆくんから察するが、手足は青黒く変色し、長い爪は瓦を突き通すほどで、見開かれたまなこは赤く、耳まで裂けた口からはつばの滴るきばがのぞいている。屋根から落ちてくる瓦に、人々が悲鳴をあげて逃げていた。なかには幽鬼が見える者もいるようで、恐怖を顔に張りつかせて腰を抜かしている。

 もはや逃げ惑っているのは男ひとりではなく、あたりは大混乱に陥っていた。逃げてくる人々に突き飛ばされそうになり、霊耀は脇にけた。

「若、危ないですよ、こっちに──」

 寒翠が店舗のあいだにある細い路地を指さす。

「おまえはそこに隠れていろ」

「えっ、若は」

 霊耀は寒翠を路地に押しやり、幽鬼から目をそらさず、ふところをさぐった。護符をとりだし、人々のあいだを縫って幽鬼に近づいてゆく。幽鬼に追いかけられている男は、転んだのか地べたを這っていた。ひいひい泣き叫んでいる。

 幽鬼が屋根の上から男を見おろし、跳躍した。

 ──まずい。

 霊耀は男に駆けよるとその体を突き飛ばし、幽鬼に向かって護符を突きつけた。しかし幽鬼が腕をひとふりすると護符はあっけなく燃えあがり、灰となる。霊耀は幽鬼の腕にね飛ばされ、爪が頰を裂いた。痛みとともに血が滴る。

 ──やはり、俺では役に立たぬか。

 四つん這いになった幽鬼はのどを反らし、ほうこうをあげた。それは獣のとおえのようでいて、もの悲しいどうこくのようでもあった。

 幽鬼のそうぼうが霊耀をとらえる。ひざをついて身構えたとき、ふと、黒い羽根が数枚、ひらひらと舞うのが視界に入った。

 ──の術だ。

 と悟ったと同時に、霊耀の横を黒衣が通り過ぎた。黒い薄衣には花鳥文が織り出されている。おなじく黒で染めた上等の袍に、白い腰帯、その上に革帯を締めているのは祀学堂の制服とおなじようで、まるで違う。薄墨の制服は半人前のあかしで、黒衣は一人前のあかし、すなわちじゆつである。なかでも文様を織り出した絹の黒衣を身にまとえる高位の巫術師は、そうはいない。彼女はそれを許されている。

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