烏衣の華
白川紺子/角川文庫 キャラクター文芸
第一章 月季と霊耀 ①
──
人々はそう噂した。
幽鬼も
その名を
まだ
「
雑踏のなか、その声にふり返った封
「従者をつれてお買い物か? 自分で来ずとも、使用人がいくらでもいるだろうに」
霊耀は護符に用いる朱墨を買うため、
「そのとおり、買い物だ」霊耀は軽くうなずいて問いに答え、「さきを急ぐので失礼する」と、さっさとその場を離れようとした。
「おい、封家の者だからって──」
霊耀は静かに向き直り、相手の目を見据えた。彼らよりも霊耀は上背があり、体も鍛えている。
今度こそ霊耀はきびすを返し、その場を離れた。うしろから「巫術の才もないくせに、えらそうに──」という捨て
「げんこつのひとつくらい、お見舞いしたってよかったんじゃありませんか、若」
従者の
「そんな真似をして、父上から
「でも、腹が立つじゃありませんか。若の苦労を知りもせず」
「面と向かってつっかかってくるだけ、やつらはましだろう」
同輩たちの多くは、霊耀に冷ややかな視線を向けるだけだ。あるいは、聞こえぬようにひそやかな陰口をたたくだけ。なぜなら祀学堂の学長は霊耀の父だからだ。追い出されてはかなわないから、ほとんどの者ははっきりと
「祀学堂なんておやめになったらいいでしょうに……いくらでもよい師がお屋敷まで教えに来ますよ」
寒翠はぶつぶつと文句を言っている。彼は霊耀の
「ひとりで学ぶのでは、己と他者の力量の違いがわからぬ」
「若は
冬官は祭祀を
「祭祀と巫術は切っても切れぬ。祭祀官だからといって巫術をなにも知らぬというわけにはいかない。それがわからぬのであれば口を出すな」
霊耀は寒翠をじろりとにらんだ。さすがに差し出口が過ぎると当人も思ったか、寒翠は「申し訳ございません」と謝った。
「……いい。急ぐぞ。市門が閉まる前に買い物をすませて帰らねば」
日没とともに市門は閉まり、翌朝まで開かれない。いま陽はだいぶ西へと傾いている。
「市門が閉まったら、その辺の宿屋に泊まればいいですよ。なんなら、花街へ繰り出して」
「馬鹿を言うな」
「お固いですねえ、十七歳とは思えない」
ふたたびじろりとにらむと、寒翠はにやついた笑いを浮かべ、肩をすくめただけだった。霊耀はため息をつき、寒翠の軽口につきあうのをやめて歩を速めた。
己に巫術の才がないことを霊耀が自覚したのは、十歳のときだ。
幽鬼は見える。その声も聞こえる。座学ならば同輩の誰にも負けぬという自負はある。しかし祓う力がない。護符はなんら役に立たず、結界も用を成さない。
──なにより、彼女だ。
その名を聞くたび、あの顔を思い出すたび、霊耀は知らずしらず、
董月季。
彼女にはじめて会ったときに、霊耀は己の無力を思い知った。
ほんの十歳のときから彼女は美しく、また無敵であった。
考えまいとするほど彼女の顔が浮かぶのを、霊耀は頭をふって追い払う。前方の騒ぎに気づいたのは、そのときだった。
固いものが割れる音に、逃げ惑う足音、
幽鬼がいる。四つん
もはや逃げ惑っているのは男ひとりではなく、あたりは大混乱に陥っていた。逃げてくる人々に突き飛ばされそうになり、霊耀は脇に
「若、危ないですよ、こっちに──」
寒翠が店舗のあいだにある細い路地を指さす。
「おまえはそこに隠れていろ」
「えっ、若は」
霊耀は寒翠を路地に押しやり、幽鬼から目をそらさず、ふところをさぐった。護符をとりだし、人々のあいだを縫って幽鬼に近づいてゆく。幽鬼に追いかけられている男は、転んだのか地べたを這っていた。ひいひい泣き叫んでいる。
幽鬼が屋根の上から男を見おろし、跳躍した。
──まずい。
霊耀は男に駆けよるとその体を突き飛ばし、幽鬼に向かって護符を突きつけた。しかし幽鬼が腕をひとふりすると護符はあっけなく燃えあがり、灰となる。霊耀は幽鬼の腕に
──やはり、俺では役に立たぬか。
四つん這いになった幽鬼は
幽鬼の
──彼女の術だ。
と悟ったと同時に、霊耀の横を黒衣が通り過ぎた。黒い薄衣には花鳥文が織り出されている。おなじく黒で染めた上等の袍に、白い腰帯、その上に革帯を締めているのは祀学堂の制服とおなじようで、まるで違う。薄墨の制服は半人前のあかしで、黒衣は一人前のあかし、すなわち
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