第一章 月季と霊耀 ④

 中庭に出て植えられた梅の木を眺めていると、「霊耀」と声をかけられる。月季である。当初は『封の若君』と呼んでいたのを、煩わしいのであざなで呼ぶように求めた。

「これを」

 月季は手にしていた小さな木箱を霊耀にさしだした。「お約束の朱墨よ」

「いらぬと言ったが」

「でも、ないと困るでしょう?」

 月季は手を引っ込めようとはしない。霊耀はため息をついて受けとった。月季はほっとした表情を一瞬見せる。小さな木箱ひとつといっても、わざわざ持ってきてくれたのだ。意地になって月季の親切心を突っぱねていたのが子供じみた行為に思えて、霊耀は自らを恥じた。

「……正直、助かった。ありがとう」

 そう言うと、月季ははっと目をみはり、はにかんだような笑みを浮かべた。

「わたしのほうこそ、同行を引き受けてくださって、どうもありがとう。ひとり旅は不安だったの」

「噓をつけ。どうせ、俺が同行せねば京師からは出さぬと言われて、しかたなくだろう」

 月季は心外そうな顔をする。

「お父様には、あなたが同行しないのであれば許可はしないとは言われたけれど、ひとりで行きたければかまわずひとりで行っているわ」

 それはそうか、と霊耀は思う。月季は自由奔放である。

「わたしだって、祀学堂を休ませてまで同行させるのはどうなのかしら、と思ったのよ。そこまでさせては悪いでしょう。あなた、真面目だもの。でも、お祖父じい様がそれもいいんじゃないかとおっしゃるものだから──」

「董ろうこうが?」

 霊耀は驚きとともに一歩前に踏み出した。月季はされたようにうしろにさがる。

「ええ、そう。座学で学べぬものもあるだろうって。とくにあなたには」

「……董老公がそうおっしゃるのであれば、俺に異存はない」

 月季は苦笑した。

「いやあね。みんな、お祖父様のおっしゃることには一も二もなく賛成するんだもの」

「当然だろう。あのかたなくしていまのじゆつはない」

「お祖父様自身は巫術師ではないけれど」

「もと冬官だ」

 偉大なる冬官である。月季の祖父は──月季は養女なので血縁としては祖父ではないが──、冬官でありながら絶える寸前であった巫術師を再興したのだ。そうめいで清廉潔白、いまでも巫術師やさい官からの尊敬を一身に集める人物である。むろん、冬官を目指す霊耀にとっても理想と敬う相手だった。

「あなたはほんとうに、お祖父様のこととなると目の輝きが違うのだから」

 月季があきれたようにつぶやく。

「なにか言ったか?」

「いいえ。楊柳島での仕事がすんだら、お祖父様にお会いになるといいわ。お祖父様もお喜びになるでしょう」

「そういえば、肝心なその楊柳島での依頼内容を聞いていなかったな」

 俺が祓うわけでもないのだから、聞かずともいいか、とも思ったが、やはりそういうわけにもいくまい。そう考え直して、いた。

「楊柳島で大きな旅館を営む主人がいるのだけど、彼に女の幽鬼がいているのよ。取り憑いているのはわかるのだけど、どうもおぼろげで、恨みがあるふうにも見えないし──昨日みたいな幽鬼だとわかりやすいのだけどね──、その幽鬼に主人は心当たりがあって、しんせきの娘じゃないかというの。なんでも数日前に島の川でおぼれて死んだのですって。無理に祓うのも気の毒でしょう。だから島へ行って、いくらか調べてみようかと思ったのよ。その主人には護符を渡して、一度帰ってもらったわ」

 月季は幽鬼を強引に消し去る祓いかたを好まない。幽鬼自ら楽土へと旅立てるようにする。しかしそんな方法がとれるのは、月季にそれだけの余裕があるからだ。多くの巫術師は選択するだけの力がない。ただ祓うだけで精一杯なのだ。

「報酬は半分、前金でもらっているの。あとの半分は幽鬼を祓えたら。前金をもらっている以上、しっかり働かなくてはいけないわ。あなたもどうかお願いね」

 真面目な口ぶりで言う。霊耀にとって月季は、なにを考えているかわからないところのある少女だが、幽鬼を祓うことにかけてはしんであるのは知っている。

「あら、ご覧になって」

 ふいに、月季は梅の木を指さした。見れば、枝につばめがとまっている。月季の燕だ。

はこの木が気に入ったみたいよ」

「……いいかげん、もっとちゃんとした名前を考えてやったらどうだ」

 月季はこの燕を『烏衣』と呼ぶ。烏衣は燕の別名である。『燕』と呼んでいるのと大差ない。

 月季は軽やかに笑った。「あなたって、妙なことをいつも気になさるのね」

「妙なこととはなんだ」

「だって、燕の名前を思いやるなんて──おやさしいわ」

「馬鹿にしてるのか」

「どうしてそんなふうに受けとるのかしら」

 月季は不服そうな顔を見せる。

「どうしてもなにも、そうとしか聞こえん」

 やれやれ、と言いたげに月季はため息をついた。

「それはともかく、烏衣は烏衣でいいのよ。この子はこの名を気に入っているのだもの」

「燕の気持ちなどわかるものか」

「気に入らなかったら、呼んだって来ないわ。ためしに違う名で呼んでごらんなさいよ。来ないから」

 なるほど、月季の燕らしい。

「しかし巫術師の飼う鳥を烏衣とは……洒落しやれかと思ったが」

 黒のほうに白い腰帯の風体から、巫術師は俗に『烏衣』と呼ばれる。

「わたし、それほど風流ではなくてよ」

 月季はころころと笑った。そこにかつておびえて震えていた少女の姿はもうない。見慣れた黒衣でないせいもあって、霊耀は妙な気分だった。

「どうかなさったの?」

「いや……。今日はどうして黒衣じゃないんだ?」

「仕事でもないのに、おかしいでしょう。許婚いいなずけとして訪問したんですもの、失礼のないかつこうでなくては」

 月季は彩り豊かな花模様がなつせんされたくんをつまんだ。「すこし派手だったかしら。しゆんそうはこれくらい華やかなほうがいいと言っていたのだけど」

 春草は月季の侍女である。

「さあ。俺は婦女子の恰好の善し悪しなどわからん」

「好き嫌いくらい、おありでしょう。金糸銀糸は派手過ぎるとか、赤が好きとか嫌いとか」

 考えたこともなかったので、まるでわからない。

「どうでもいい」

「どう──」

 月季は絶句した。いくらか傷ついたような顔をしたので、霊耀は面食らった。

「おまえ自身の好き嫌いならともかく、俺の好き嫌いがどう関係あるんだ?」

 そもそも月季は自分の好き嫌いを基準に日々を過ごしている女である。すくなくとも霊耀にはそう見える。

 月季はめた目を霊耀に向けた。

「いくらわたしに興味がなくたって、許婚の恰好には気を配ったほうがいいと思うわ。董家の面目というものがあるのですからね」

 言い捨てて、月季は庭から去っていった。そのあとを烏衣がすい、と飛んでついてゆく。

 董家の面目。それはたしかに軽んじてはいけない。いくら家の決めた許婚だからといって。

 ──実際のところ、月季は不満なのだろう。

 だが養女という立場からして、不満であっても表には出せまい。月季であれば、巫術の才あふれる男に嫁ぐことも、はたまたそのぼうから高官に嫁ぐこともできる。巫術の才もなく、彼女が許婚でなければ跡継ぎの座も危うい霊耀のもとに嫁がずとも。

 家が決めたことでなければ、月季は霊耀を選びはしないだろう。それでも彼女は霊耀の許婚として、つねにそつなくふるまっている。その態度の奥深くにある心情を、うかがい知ることはできない。

 月季の心情について思いをせると、霊耀は寒々しい気分になる。ため息をついて、梅の木のそばを離れた。

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