第一章 月季と霊耀 ⑤
月季は董家の屋敷に帰ってくると、まっさきに祖父の住む棟へと向かった。屋敷は庭を囲んでいくつかの棟があり、最も陽当たりのいい東側の棟の一室が祖父の部屋だった。渡り廊下を歩いていると、塀の向こうから若者の笑いさざめく声がかすかに聞こえてくる。屋敷の隣には董家の祀学堂があって、董家のもとで巫術を学びたい者はここに集う。かつて屋敷内に董家の子弟のために設けた私塾がもとだ。封家には封家の祀学堂があり、またほかの祀学堂もあるが、いずれも董家か封家を頂点としていた。巫術師は董家か封家の免状をもらうことで活動できる。現状、これが巫術師の質を保つ最善策だと父は言う。
──巫術師の質ではなく、禁中巫術師の質でしょうに。
と、月季は苦々しく思う。優秀な巫術師は皆、冬官府に所属して、禁中巫術師になることを望む。それが名誉だからだ。
だったら、自分は市井の巫術師でいよう。月季はそう決めた。市井の人々を救いたい、という崇高な思いがあるわけではない。月季が救いたいのは、たぶん、小さいころの自分だ。継母の幽鬼に怯え、震えていた自分。
──あのとき、わたしを見つけてくれたのは、霊耀だった……。
彼はそんなことをすこしもわかっていないだろうけれど。
「お
室内に飛び込むと、書物を広げていた祖父は顔をあげ、柔和な笑みを浮かべた。
「おや、ずいぶんご機嫌だ。霊耀は元気だったかい」
「ご機嫌に見える? ちっともそうじゃないわ。霊耀はあいかわらずよ」
月季は顔をしかめて言い、椅子に座る祖父のかたわらにしゃがみ込み、その
祖父は月季の頭をやさしく
「あのひとがうれしそうにするのはね、お祖父様の話をするときだけよ」
祖父は愉快そうに笑った。髪も
「おまえの恋敵は私か。それはたいへんだ」
「笑い事じゃあないのよ、お祖父様。わたしの悩みは真剣なのよ」
「まあまあ、機嫌を直しておくれ。いまにお
そういえば甘いにおいが漂っている。棗や
「お祖母様は、楊柳島へ行ったことがあるかしら」
「さあ、どうだろう。あの島の話は、彼女から聞いたことがないが」
楊柳島は
「島へ行くときには、
「ええ、そうするわ。お祖母様のお菓子は霊耀も好きだから」
月季は祖父の膝に頭をのせて、目を閉じた。祖父の手がやさしく頭を撫でる。
「お祖父様……また
祖父が冬官であったころには、烏妃という存在が宮中にいた。巫術師でなくとも巷間で知る者は多い言い伝え。黒衣に銀髪の、美しき最後の烏妃。いまの巫術師の装束は、彼女に由来するという。祖父──董
「彼女もお菓子の好きなひとでね……」
やわらかな祖父の声に月季は
思い出すのは、熱だ。熱い。熱した
いまだに当時の夢を見て、飛び起きることがある。火箸の熱さ。あれは忘れられるものではない。継母は月季の顔や手には傷をつけなかった。露見を恐れてのことだ。ひそかに月季の背を
いちばんこたえたのは、継母の機嫌が悪ければ、食事も
継母の悪事が露見したのは、彼女が死んだからだ。あの日、よほど虫の居所が悪かったらしく、継母は月季を蔵につれてゆき、火箸で目を
虎が出たのだろう。継母の死は、そう結論づけられた。虎の足跡のひとつもなく、目撃談さえなかったのに、それくらいしか理由づけができなかったのだ。人のできる技ではなかった。月季の証言もあった。月季は見ていた。『なにか大きな化け物』のようなものが、継母に襲いかかるのを。それは黒い影で、月季は恐ろしさに目をつむってしまったので、継母の悲鳴や骨の折れる音らしきものを聞いただけだった。自分も殺されるのだと思っていたが、月季にはなにも起こらなかった。
月季の体に複数の傷が見つかり、継母のしてきたことも知られることとなった。月季は遠縁だという董家に引き取られることが決まった。ほんとうに遠縁なのかどうか、知らない。ただ月季の実父や屋敷の者たちが、月季を恐れていることはわかった。月季には、なにか恐ろしい力が備わっている、人を殺せるような──そう恐れていたのだ。
悪夢に目を覚ましたあと、月季はいつも、己の手を見つめる。暗闇のなか浮かびあがる白い手を。ほんとうのところ、どうなのだろう。月季の力は、継母を殺したのだろうか。あのころ、月季は声を聞くことがあった。
──殺してやろうか。
そう軒先から響くことも、
──殺してやろうか。
井戸の暗い底から響くこともあった。男の声なのか、女の声なのかも判然としない、奇妙な声だった。
継母は死んだ。あの声の主が、殺したのだろうか。
だが、そんな疑問を考える暇もなくなった。董家に引き取られたあと、継母の幽鬼が現れたからだ。すぐそばに現れるのではない。遠くから、じっと月季をにらんでいる。衣は真っ赤に染まっている。もがれた四肢をむりやりくっつけたような姿で、体は傾いでいる。まだ
あのとき、ふらふらと市に迷い込んだのは、継母の幽鬼から逃げようとしてのことだった。どこをどう歩いているのだかわからなくなって、疲れて、しゃがみ込んだ。途方に暮れていた。烏衣は慰めるように月季のそばを離れなかった。そういえば、烏衣はいったいいつから月季のかたわらにいるようになったのだったか。覚えていない。
しゃがみ込む月季を見つけたのが、霊耀だった。彼は数日前に会っただけの月季を人混みのなかで見つけ、助けてくれた。あのとき、どれだけ心強かったか。継母の幽鬼があとをつけてくるなか、霊耀は月季を励ました。追いつかれて、彼が
霊耀が月季を疎んじているのはわかっている。ふたりは家同士の決めた
──きっと実ることのない、望みだろうけれど。
それでも月季は、あのとき月季を見つけてくれた霊耀を、真面目で不器用な彼を、慕っている。
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