第一章 月季と霊耀 ⑥
「なぜおまえひとりなんだ?」
船着き場に現れた月季を見て、霊耀はいぶかしんだ。月季はいつもの黒衣に、さして大きくもない革袋ひとつ肩に下げただけで、侍女も下僕もつれていない。肩には烏衣が乗っているが。
これから一日かけて連絡船で川をくだり、楊柳島へ向かうという朝だった。
「長旅でもなし、荷物はそうはないのだし、荷運びの下僕はいらないでしょう。春草は董家の大事な
「身の回りのことはどうする」
「いやあね、自分でできるわ。たいそうな装束を着るわけじゃないんだもの。髪だってひとりで結える
月季はあきれたように言う。「物見遊山に行くのじゃないのよ。身軽にしないと」
霊耀は気まずい思いで背後をちらとふり返る。寒翠のほか、荷運びの下僕もふたりほどつれていた。ひとりは
「金は──」
「島に着けば依頼主が面倒を見てくれるから、そうはいらないわ。布帛も驢馬も邪魔になるから帰して。銅銭は、そうね、ひと緡残してあとは
飛銭は銅銭代わりになる紙である。重い銅銭と違って旅には便利だ。現地で銅銭と交換することになる。
「従者をつれてゆくのは、とめはしないわ」
暗に、そうでないと身の回りの世話に困るだろうと言われているようで、霊耀はカチンときた。
「いや、俺もひとりでいい。──寒翠、おまえはここで帰れ」
「ええ? 大丈夫ですか、若」
「自分のことくらい自分でできる」
「そうですかねえ……」
不安げな寒翠から、荷物をなかば奪うように受けとる。「大丈夫だ。幼子でもあるまいし」
「無理しなくていいのよ」と月季にも心配そうに言われて、霊耀は屈辱を覚えた。
「董のお嬢様とはぐれないようにしてくださいよ、若。旅先で迷子にでもなったら、きっと若は生きていけませんよ」
「馬鹿にするな」
「心配してるんですよ。坊っちゃん育ちなんだから」
どういう点が『坊っちゃん育ち』なのかわからない。だから黙っていた。
「子供のころは、わたしが迷子になって、霊耀が助けてくれたのよ」
なつかしげな目をして月季が言った。覚えていたのだな、と霊耀は思う。
「だから霊耀は、案外たくましいと思うのだけれど」
「『案外』とはなんだ。おまえは俺を護衛のためにつれていくんじゃないのか」
「そういうたくましさとはべつの意味よ。用心棒としては、もちろん頼りにしているわ」
霊耀の全身は、しなやかな筋肉で包まれている。その辺のごろつきに
──子供のころのほうが、俺は勇敢だった。
そう思う。怖いものなどなかった。なんでもできると思っていた。なにもできないと知るまでは。
「霊耀──」
月季が霊耀を促す。「そろそろ船が出るわ。乗りましょう」
船に乗ると、水上の冷たい風が頰を打った。
「あなたのことは、ほんとうに頼りにしているのよ。そうでなかったら、同行を頼まないわ」
慰めるように言われると、かえって気が
「あら、ねえ見て」
月季が船着き場のほうをふり返り、霊耀の
「あれは……」
「巫術師に
鈍色の袍の男たちは、放下郎という、冬官府に勤める祭祀官だ。
「祀典使じゃないかしら。ほら」
月季が指さす。幕が風に
「このあたりで今日、
「さあ」
祀典使は祀りを行う役目を負う。冬官府に所属する禁中巫術師と
現在の祀典使と冬官は、どちらも少数民族の出らしいと聞くが、霊耀も月季も会ったことはない。
船は岸を離れ、黒い一行は遠くなる。霊耀と月季の意識は、すぐに川の景色に引き寄せられた。なにせふたりとも、京師をはじめて離れるのである。
「楊柳島がどういう島だか、知ってる?」
吹きつける風に鬟が乱れぬよう押さえながら、月季が言った。
「すこしなら」と、霊耀はうなずいた。
ふたつの川に挟まれた東西に細長い小島、それが楊柳島だ。
「楊柳島ではね、昔からある一族が幅を利かせているの」
月季はうっすらと笑う。
「
「ああ、なるほど……」
霊耀は船上を眺める。乗船客が多い。すべて楊柳島へ行く客ではないだろうが。
「どちらかというと、男の遊び場ね。朝、京師を
「へえ」
月季はにこりと笑う。「あなたには
霊耀は顔をしかめた。「誰に言ってる」
「だから、一応よ。念のため。万が一ってことがあるでしょう」
「ない」
月季は声をあげて笑った。水しぶきがはじけて陽に輝くような笑顔だった。
「ええと……それで、どこまで話したかしら。そう、島は歓楽街で……その元締めがさっきも言った鼓方氏。依頼主も鼓方氏の一族なのよ。本家からは独立して、旅館をやっているひとなのだけれど。古い一族によくあることだけれど、分家が多くて、なにかと
「分家か。──依頼主に
「よく覚えているのね」月季はうなずいた。「ご明察。そのとおり、分家の娘らしいのね。ただ、依頼主は彼女には数えるほどしか会ったことがなくて、会ったといってもほんとうに顔を合わせた程度だと」
「それが事実とは限るまい」
月季は黙って微笑した。
「あとは、島に着いて依頼主と会ってからの話ね」
霊耀はその依頼主に会ってもいないし、直接話を聞いてもいないので、着いたさきでなにが起こるのか見当もつかなかった。
いや、会っていたところで、このさき起こった一連の悲劇を、予見できはしなかっただろう。
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