第二章 かぐわしき死の香り③
春草の選んだ
「ごめんなさい、お待たせして」
「いや、昨日の今日で疲れているだろう。こちらこそ突然来てすまない」
月季は霊耀の顔を眺めた。
「なんだ?」と霊耀はけげんそうにする。
「だって、なんだかとてもやさしいことを言うから……どうしたのかしら、と思って」
霊耀はムッとした様子で
「
「そうね、ごめんなさい。──どうもありがとう」
いくらか驚きつつもそう言うと、霊耀は黙って茶をすすった。
彼はいつもの祀学堂の制服ではなく、濃紺の
「今日は、祀学堂はお休み?」
「ああ」と霊耀は短く答える。
祀学堂は五日に一度半日休みがあり、十日に一度休日がある。
「渓はどうしているの?」
「さあ。あいつもたまにはひとりになりたいだろう。いつも俺と一緒だからな」
「右も左もわからない京師に来たのだから、あなたと一緒なら心強いでしょう。あなたはほんとうに面倒見がいいわね」
「おひとよしだと言われたぞ」
言われたときのことを思い出したのか、霊耀は不満げな顔になった。彼がおひとよしであるのは、月季も否定しない。一見冷徹そうに見える霊耀だが、実際のところはすこぶる親切である。
「それで、今日はどうなさったの?」
月季が問うと、霊耀はしばし考え込むように黙った。どう切り出そうか悩んでいるふうでもあった。
「……おまえは、あの幽鬼を
はっと、月季は息を
「いますこし事態に余裕があれば、幽鬼の身元をつきとめて、穏便に楽土へ送ってやれたかもしれない。だが、あの場では無理にでも祓うしかなかった。そうせねば、徐は死んでいただろう」
霊耀の口ぶりは淡々としていたが、おそらく月季を慰めているのだろう。
「そうね。あのときは、徐さんを助けるので精一杯だった」
月季はそう言い、そのさきの言葉を吞み込んで、口を閉じた。
──幽鬼までも助けようだなんて、きっと思いあがりだ。
大事なのは、生きている者を助けることだ。月季にはそれができるのだから。
「だが、おまえはあの幽鬼のことも助けたかったのだろう?」
霊耀は、月季が吞み込んだ言葉を口にする。月季は黙ったまま、答えなかった。結果として助けられなかったのだから、なにを言ったってしかたない。
うつむく月季を眺め、霊耀は自身のかたわらに手を伸ばした。
「あっ……」
月季は小さく声をあげた。それは、あの白磁の香炉だった。なかに入っていた灰や香木のかけらのたぐいはなく、きれいに
「どうしたの、これ。まさか、あなたもこれが欲しくなったの?」
もう幽鬼は祓ったのだから、魅入られるということはないだろうが──。
それでも心配になって
「徐家から引き取ってきた。あの幽鬼の正体をさぐるには、これが必要だろう」
となんでもないように答えた。
「さぐる? でも、もう──」
「どういった経緯であの幽鬼が香炉に
それに、と彼は付け加える。
「あの幽鬼が何者で、どうしてこの香炉に取り憑いていたのか、それを知ろうとしてやれるのは──そこまで幽鬼に心を寄せてやれるのは、おまえくらいだろう」
霊耀の声音は低く落ち着いたもので、冷ややかにも思えるくらいだが、言葉は
彼の言葉を受けて、月季も素直に思う。
──わたしは、知りたい。
楽土へと送ってやれなかったあの幽鬼が、どこの誰で、どんなふうに生きて、どんな死にかたをしたのか。なにを思い、どうして香炉に取り憑いていたのか。なぜ男たちを殺していったのか。
それを知るのは、彼女を消し去ってしまった月季の責務であるようにも思えた。
「わたし、あの幽鬼のことを知りたい」
口に出すと、霊耀はうなずいた。
「では、まずは范家店からだな」
月季は霊耀とともに、家を出た。
「ああ、その香炉……」
范家店の女主人は、月季の説明とともに霊耀が卓上に置いた香炉を見るなり、顔をしかめた。女主人は五十がらみで快活そうな、
「忘れもしないよ、たしかにその香炉だった。一年ほど前だったね。うちのひとが異様に気に入ってしまって──」
入手したあとはほかの持ち主とおなじく、日ごとやつれて衰弱し、死んでしまったのだ。
「うちのひとが香炉をどうやって手に入れたかって? もらったんだよ。泊まり客から。西のほうの
その品のなかに、香炉があったのだという。
「あたしは赤絵の
女主人は割合平気そうな、さばさばとした口調で話していたが、
「ただ──気味が悪いと思ったことはあるよ」
ふいにそう言って、眉をひそめた。
「気味が悪い?」
月季が問うと、
「においがね」
と、女主人は香炉を見やる。
「香炉に使う香木は、あたしが用意してやってたんだよ。あのひとは香なんてからきし趣味じゃなかったから、全然知らなくてね。どのにおいが好みかわからなかったから、いろいろと種類は取りそろえていたんだ。でも、どれを
「においがおなじ……」
「もうあんまり覚えてないけどさ。甘いような、あたしはあんまり好きなにおいじゃなかったね」
月季は、徐の部屋で
においについてそう説明すると、「ああ、そうそう。そんな感じのにおいだったね」と女主人はうなずいた。
「どれを薫いてもそんなだから、なんとなく薄気味悪くてね……」
──あのにおいは、香炉に憑いた幽鬼のにおいだったのだろうか。
香炉の出所である豪商の名を訊くと、さいわい、女主人は覚えていた。
「
礼を言って宿屋をあとにする。月季も霊耀も考えに
たくさんの積み荷を運び込む人足や、それを確認する店の雇い人たちで、店先はごった返していた。取り次ぎを頼んでやってきた店の主人、郭氏は、
「白磁の香炉?」
月季が説明しはじめてすぐに、郭氏はひどく顔をしかめた。
「知らないよ、そんなものは。私には関係ない。帰ってくれ」
とりつく島もない。だが、知らないから邪険にするというより、知っていて話したくないからそうした態度をとっているようだった。
郭氏はさっさと店の奥へと引っ込んでしまう。月季は周囲を見まわして、雇い人のひとりがちらちらとこちらを気にしてうかがっていることに気づいた。五十代の半ばくらいだろうか、雇い人のなかでも上役らしい風格の男である。月季は霊耀に目配せする。霊耀も彼に気づいて、月季に軽くうなずいた。ふたりはおとなしく店を出る。店から離れてしばらくすると、「もし……」と背後から声がかかり、足をとめる。ふり返れば、さきほどの雇い人である。なにか言いたげだと思ったが、やはり追いかけてきた。
「なんでしょう?」
霊耀が問いかける。
「さきほど、白磁の香炉がどうとか話しておられるようでしたので、気になりまして……」
男は抜け目ない顔つきをしている。すばやく月季と霊耀の身なりを確認し、その身分や立場を推し量っているようだった。
「郭さんのお宅にあった香炉のことです。先代のご当主がお亡くなりになったさいに、枕元にあったとか。ご存じですか?」
月季が言うと、男は、「ああ」と大きくうなずいた。芝居がかった大仰な仕草である。彼はちらと左右に目を走らせ、声をひそめた。
「ちょっとここでは……。内密のお話ですので」
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