第二章 楊柳島の幽鬼④

 月季は娘の肩に手を置き、

「お嬢さんが怯えはじめる前に、なにか変わったことはあった?」

 と、なだめるようにやさしい声で訊いた。

 娘は両手を顔から離し、思い出すように宙を見つめる。涙と鼻水で顔はぐっしょりとれていた。

「変わったこと、といったら……湖の色が変わったくらいで」

「え? 湖?」

「西のはずれのほうに、湖があるんです、せいという。澄んだきれいな青い湖なので……。鼓方一族のびようがその近くにあって。嵐のあった翌日だったかに、湖の色が変わってるって噂になって──黒く変色したって。あたしは見たわけじゃありませんけど、そういえば、お嬢様が怯えだしたのは、ちょうどそのころでした」

「噂を聞いたあと? 前?」

「ええと……たぶん、あとだったと思います。なんでも、何十年だかに一度、ひどい嵐のあとにそんなふうになるんだって、そんな話を店のお客さんから聞いたひとが、使用人のなかにいたんです。それを耳にして、お嬢様、そんな噂話はやめなさいって𠮟りつけて──ああ、そうです。それからです。ひどく難しいお顔をなさって、怯えるようになったんです」

 月季は深くうなずいた。

「そうなのね。思い出してくれて、どうもありがとう。助かったわ」

「あたし、お役に立てましたか」いくらかほっとした顔で娘は言った。

「その湖は、いまも変色しているの?」

「いいえ、すぐにもとに戻ったと聞きました。変色していたのは一日かそこらだったそうで」

 月季は再度うなずき、ありがとう、と言った。

 湖の変色──それがなぜ、東鼓寄娘を怯えさせたのだろう。霊耀にはよくわからない。月季にはわかっているのだろうか。

 侍女の家を出ると、霊耀は訊いてみた。

「湖の色が変わったことと、寄娘の死と、どう関係があるんだ?」

「わからないわよ」

 あっさりと月季は言った。

「でも、気になるでしょう、その湖。それがなぜ彼女を怯えさせたのか。──行ってみましょう。青湖まで」


 青湖までは舟を使ったほうが早いと案内役が言うので、調達してもらった。五、六人が乗れる程度の小舟である。本来は花街の景観を楽しむために舟を使う客が多いそうで、これといって目玉もない西側へ行こうという者はめずらしいという。

「湖は目玉にならないのか?」

 霊耀が船頭にくと、

「ありゃあ、鼓方一族のもんだからね。あの辺までほかのもんは行けねえんですよ。間違って入り込みでもすりゃあ、鬼鼓にこっぴどく怒られちまう」

「鬼鼓……それも鼓方の分家だったか」

「分家といっても、毛色はずいぶん違ってますわな。あそこの家はびようもりでね」

「鼓方家の祖廟の?」

「そうそう。湖は祖廟の近くにあって、だからそっちも鬼鼓が守ってんだな。あんたさんらも、あの辺に行きたいってんなら、鬼鼓をまず訪ねるのをおすすめしますぜ」

 そのすすめに従い、舟を鬼鼓の家があるという島の西南の岸につけてもらった。砂利の岸に押しあげられた舟を降りると、案内役と船頭は舟に残して、霊耀と月季は鬼鼓の家に向かった。

 木賊とくさが生い茂る岸辺を抜け、坂道を歩いてゆくと、木々の合間にあばら家が見えてくる。東鼓家の屋敷とは比べものにならないどころか、これならば侍女の生家のほうが立派に思える。そんな納屋とも小屋ともつかない粗末な家が、鬼鼓の家なのだった。船頭の説明で聞いてはいたが、霊耀はさすがにぜんとしてしまった。どうしておなじ鼓方一族で、こうも違うのだろう。

 霊耀がぼうぜんとあばら家を眺めているあいだに、月季は「ごめんください」と声をかけていた。

「鼓方洪殿から幽鬼をはらうよう頼まれたじゆつです。湖を拝見したいのですが」

 出入り口に戸の代わりに垂らされたむしろが揺れて、なかから背の高い男がひとり、顔をのぞかせた。二十歳前後の青年だ。疑わしげな目を月季と霊耀に向ける。つちぼこりに汚れているが、きれいな顔をしていた。

「……なんで幽鬼を祓うのに、湖を見る必要がある」

 警戒心をき出しにした声音で言い、青年は月季をにらんだ。

「幽鬼は東鼓氏のお嬢さんで、亡くなるすこし前からなにかに怯えていたというんです。そのころ、湖の色が黒く変わったと聞いたもので、関係があるかと」

「関係はない。湖の色は変わっていない。帰れ」

 ぴしゃりと言って、青年は莚の奥に引っ込んだ。

「色は変わってない? ほんとうに? でも、嵐のあとに──」

 月季が言いつのり、莚の奥を覗き込もうとしたとき、霊耀はとっさに彼女の腕をつかんでうしろへと引っ張った。ひゅっと音がして、なにか飛んでくる。反射的に体が動き、それを片腕で払い落としていた。地面に落ちたものを見れば、まきである。青年が投げつけたのだ。

 ──頭にでも当たっていたら、大怪我をするところだった。

「なにをする、危ないだろう!」

 霊耀が怒鳴ると、

「つぎはなたを投げるぞ。よそ者はさっさと帰れ」

 なかからはそう脅す声が返ってくる。

「なんだと」

 平素は荒事を好まない霊耀だが、彼も血気盛んな若者である。頭に血がのぼり足を踏みだしかけたところを、月季にとめられた。

「もういいわ、霊耀。戻りましょう」

「おまえが退いてどうする。怪我をするところだったのはおまえだぞ。頭に当たったら下手をすれば死ぬし、顔だったら傷が残るような怪我をしたかもしれないんだぞ」

 憤る霊耀を月季はまじまじと見つめて、

「それじゃあ、わたしのために怒ってくれているの?」

 と言った。

「は?」と霊耀は固まる。「おまえのため──というか、べつに」

 そこまで深く考えていない。ただ危ないと思っただけだ。

「どうもありがとう」

 礼まで言われると、そういうわけではない、とは言い出しにくい。戸惑う霊耀の腕を引き、月季は「戻りましょう」と促した。霊耀は青年への怒りが雲散霧消してしまい、腕を引かれるまま、舟へと戻っていった。


「湖については、鼓方さんに訊いてみましょう。なにか知っているかもしれないわ」

 そう月季が言うので、舟を花街の船着き場へと着けてもらい、『清芳楼』へと戻った。

だん様でしたら、お出かけになりましたよ」

 と、使用人のひとりが言う。

「あら、どちらに?」

「鼓方本家のほうへ……。お戻りは遅くなるやもしれません。そうおっしゃっておいででしたので」

 具合が悪そうだったのに、大丈夫なのだろうか、と霊耀は思う。

 洪がいなくてはしかたないので、ふたりは昼食を食べに出かけた。『清芳楼』の食堂でもよかったのだが、月季がさきほど通った路地にあった料理屋のにくまんじゆうがおいしそうだったと主張するので、そこで食べることにしたのである。

 甘辛く煮た豚肉を混ぜていためたご飯に、脂ののった鴨肉と香草のあつもの、青菜のひしお漬けに、蒸したての肉饅頭と、月季はつぎつぎに注文した。卓上には器がぎっしりと並び、食欲をそそるにおいと湯気が立ちのぼる。

「こんなに食えるのか?」

「あなたはこれくらい食べるでしょ?」

「まあ、そうだが」と霊耀ははしをとる。月季はさっそく肉饅頭にかぶりついていた。

「島だから魚料理ばかりかと思っていたけれど、肉も豊富にあるのね」

「水運が発達しているからだろう」

 島内にはじゅうぶんな農耕地などないようではあるが、それならよそから仕入れたらいい。古くは鼓方氏が持ち込んだ造船や操船の技が、島をここまでにしたのだろう。

「鼓方一族か……あの鬼鼓というのは、謎だな」

 思い出すとまた腹が立ってきて、霊耀は豚肉を混ぜたご飯を頰張った。

「鬼鼓だけじゃなくて、わからないことだらけよ。寄娘がおびえていた理由も、船から落ちた理由も、鼓方さんのもとに現れて指さす理由もわからない。なんなのかしらね。──おいしいわよ、これ」

 月季は肉饅頭の器を霊耀のほうに押し出し、すすめる。ひとつとって食べてみると、たしかにおいしかった。皮はもっちりとしてほんのり甘く、肉あんは濃いめに味付けた肉と脂の混じった汁をたっぷりと含んでいる。いい料理屋を見つけたものだ。

 腹いっぱいになって店を出たあと、月季はべつの店で桃を買い、霊耀に手渡した。霊耀は産毛のちくちくする桃をでながら、「これからどうするんだ?」と訊いた。

 月季はそれにすぐには答えず、

「あ、戻ってきたわ」

 と上を向いた。なにかと思えば、頭上を鳥がすいと飛んで、近くの屋根の上にとまった。烏衣だ。そういえば姿を見なかったことに、いま気づいた。

「烏衣も昼飯だったのか」

 つぶやくと、月季はふっと笑った。彼女はときおりよくわからないことで笑う。

「とりあえず、鼓方さんの帰りを待つわ。訊きたいことがいろいろあるし、今後についても相談したいし」

 それに従い、霊耀は月季とともに『清芳楼』で洪を待つことにした。──しかし、夜になっても洪は帰ってこなかった。

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烏衣の華 白川紺子/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun

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